世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】シェリング「学問論」

今年78冊目読了。ドイツ観念論の哲学者である筆者が、1802年にイエナ大学で行った講義を書籍化した古典。


哲学というのは、往々にして理解が大変なのだが、本書も御多分に洩れず、なかなか苦労した…到底理解できた、とは言い難い。


「根本知は全く不可分であり、したがって全然残る隈なく実在性であり観念性であるのだから、絶対知のいずれのはたらきの中にもこの分ち難い二重性のあらわれが見られなくてはならぬし、また一般に実在的なものとして現れるものにおいても、観念的なものとして現れるものにおいても、両者は一なるものに形成されていなくてはならぬ」「根本知の最も直接的な器官としての或る学問において根本知が半生され、そして反省するものとしての知識が反省されるものとしての根本知と一つに合体しているのであるが、そういう学問は、知識の有機体における普遍的感覚器官のようなものなのである。われわれは、この中心器官から出発して、そういう器官からいろいろな細流を通って、最も末端の部分に至るまで生命を通わせなくてはならぬ」のあたりは、非常についていくのでアップアップ。でも、言わんとしているところは何となくわかる。


学生時代に「真の知識は個人の知ではなく理性の知を可能にするものだけである。学問が時間から独立であるということの本質は、学問というものはそれ自身永遠である人類のものだということのうちに現わされている。したがって生命や生存と同じように、学問もまた、必然的に個人から個人へ、時代から時代へ伝えられるのである。伝承はその永遠なる生命の表現である」「端的に普遍的なもののみが理念の源泉であり、そして理念は学問の生命である」「大学においては学問以外のものは認められてはならぬ、そして才能と教養のつくり出す以外の差異は存在敷いてはならぬ」のあたりを知っていたら、もう少し真面目に(というか根本的に)学問をしたのかもしれんなぁ…と後悔する気持ちが湧きおこってくる。


しかし、アラフィフのオッサンになっても「学問研究に対して立てられるであろうすべての規則は、自ら創造せんがためにのみ学習せよ、という一つの規則に集約される」「生きた学問は直観を目的として陶冶する。直観においては普遍と特殊は常に一つである」のあたりの記述は実践的であり、今なお失ってはいけない姿勢だなぁと感じる。


それにしても、本当に久々に脳みそが混乱しながら読んだ本だった。いかに哲学的思考に慣れていないか、ということだな…反省。余談ながら、岩波文庫の1997年版(第11刷)を図書館で借りたのだが、紙面に文字がビッチリ書き込まれていて、最近の本は読みやすい、他方、スカスカとも言える、と感じた。

【読了】山口揚平「自分だけの才能の見つけ方」

今年77冊目読了。事業家・思想家にして、鐘紡やダイエーの企業再生に関わった後、劇団経営や海外ビジネス研修プログラム事業などを手がける筆者が、天才性を発見して最高の仕事と生き方に出会うことを提唱する一冊。


時代の流れの中で「昭和はコンストラクション(製造)の時代、平成はオペレーション(操業)の時代、令和はクリエーション(創造)の時代」とし「これからは職場を探すのではなく、仕事を創る姿勢が必要。職業選択から仕事創造への考え方を変えていかねばならない」世の中だ、とするも「今は社会から少し距離を置き、自分や身の回りの人に集中すべき時。経済が伸びなくなり社会が疲弊しているため社会規範や倫理が九に厳しくなっていること、硬直化した社会の水面下では、実は個人の価値観の変革や多様化が進み、個性を発揮していきやすくなっている」と述べる。


では、どうすべきか。「天才=『天才性を知ること』+『天才性に忠実に生きること』」であるとし、数千人との対話から編み出したジーニアスファインダー「①とげぬき(記憶を整理して幼少期に植え付けられた自己評価や偏見を洗い流す)②天才性の抽出(自分のコア<存在の本質>から輝き出る天才性を明らかにする③再構築(天才性に基づいた生活環境や仕事を作り直す)のステップを踏む」に取り組むことを提唱する。「外の世界を旅して行う『自分さがし』ではなく、過去の記憶(自分史)を丁寧に見つめることで自分の本質を削り出すという『自分はがし』が必要になってくる」というのは、非常に納得だ。削り込んで本質に迫る、ということは、あらゆることに通じるからなぁ。


今後の日本が注力すべき3つのテーマは「①ロボティクスの再生(日本の強みは、長いサプライチェーンを可能にする『擦り合わせ』。複数で多数の工程を踏むため、多くの雇用を生み出し、国外に輸出して外貨を得られる)②医療システムの改革(高齢化社会の日本で、医療システムそのものの改革に絡み、アメリカなどからシステムを輸入しコストを削減する)③コミュニティインフラの確立(政治システムが過渡期なので、県という概念がなくなり、いかに優秀なリーダーがいるかが重要。社会インフラを創る仕事が儲かる)」と提言。
これまでの成功者は「基本的には1つ次元の高いことを考えた人。昭和は、空間を超えてアメリカの土を踏んだ人が成功した。平成は、タイムマシン経営で未来を洞察(4次元)することで時間を超えて成功した。」とし、今後については「令和の時代はというと、空間(平成)、時間(令和)が克服される(ゼロになる)とすでにわかっている人、空間と時間を超えた5次元の世界に生きる人」であると予想。「これからの日本と皆さんの考えるべき本質は『何のために?』というコンセプト。この国が失ったのは経済大国の座ではなく、何のための国なのか?というアイデンティティ」と述べる。


筆者の表現は「描くこと(算数)から『実現』が得られ、人を想うこと(国語)で『幸せ』が得られる。感じること(理科)で『エネルギー』が得られ、観ること(社会)で『安定』が得られる」「天才性とは4次元感覚(時間のゆがみ)のあるところ。他人と時間の流れが違う」など独特のものがあり、やや頭では理解しづらい。感覚で掴みに行く、というような感じだろうか。


観光業に携わっている者としては「観光産業を本気になって盛り上げることで、一番の問題は、それにかかわる人が増えてしまう事。タピオカ販売ならだれでもできる。つまりインバウンドという名の観光産業とは、大切な雇用を食ってしまう極めて労働集約的で、参入障壁の低い低収益産業」「観光立国は『下の策』。落ちぶれた国家が最後に選ぶ、尤も安易な退廃の道。観光業で食べていくということは、産業的には辛い、末期を迎えている国」と断じられてしまうことにはいささか鼻白む思いだが、全般的には筆者の主張はわかりやすい。


本を買ったらついてくるコードで自己診断は出来るものの、実際にはそれでは不十分。本書に書かれているワークで実際に自分と向き合ってこそ、というところなのだが、これをやるのは骨が折れる。そんなに簡単に才能は見つからない、という、至極当たり前のことではあるのだが、そこに向かう手法を示してくれていることだけでも十分なのかもしれない。読み応えもあり、面白かった。

【読了】ジャック・アタリ「食の歴史」

今年76冊目読了。フランス大統領顧問、欧州復興開発銀行初代総裁などを歴任した筆者が、人類はこれまで何を食べてきたのか、これから何を食べるのか、を読み解く一冊。


「人々のアイデンティティを長年にわたって形成してきたのは、領土、風土、植生、動物、そして料理法や食事法」であり、それは進化してきた。「火の利用によって大きな変化ぎ訪れた。食物が消化しやすくなったため、脳はさらに多くのエネルギーを利用できるようになり、毒性のある植物を食べられるようになった。そして夜は、皆で火を囲んで1日を長く利用できるようになった。炉は会話を促し、言語と神話を生み出した」「定住化は、人口増から生じる食料需要の増加によって引き起こされる当然の帰結だった」「増え続ける人口を養うには、食糧を増産しなければならなかった。そのためには、新たな統治形態が必要になった。それは帝国である」と、人間の進化と食は密接不可分であることがわかる。


その食事を大きく変えたのはアメリカ資本主義と指摘。「アメリカは食物そのものだけでなく、人々の食べ方に大きな影響を及ぼし、世界の文化、社会、政治を一変させた。人々は、食事にかける時間を短縮し、身体に悪い(工業化の進んだ)食品を食べ、可処分所得に占める食費の割合を削減した」「消費者は、住居、衣服、交通、娯楽などの費用のために、食費を減らさなければならなかった。だからこそ、食は簡素化されて似通ったものになり、食の存在価値は弱まった」という流れから「ファストフード店で提供される食物は、脂肪分、塩分、糖分が高い。顧客が安い値段で食欲を満たせるように、冴えない食材を利用する。だが、顧客はファストフードの虜になる。味の価値が低下したため、従来型レストランからファストフード店への移行が加速した」「会食、すなわち議論の場がなくなったちめ、共通の認識を培うことがきわめて難しくなった。孤独は食べる量を増やす。人々は手当たり次第、何でも食べ、どんな食物でも購入するようになった。消費社会にとって、食卓で食事をしなくなったことは好都合」という帰結を見せられると、空恐ろしくなる…


そして、現在。「食堂の消滅とともに、食卓で食べる機会は減りつつある。家族が食卓についても、各自が別々の食物を、テレビを見ながら食べるようになった。食事の消滅の家族の崩壊は相関している」「食生活は、他の活動や娯楽の付属的な行為になり、食事という形式は風化しつつある。スマートフォンと画面を常時眺めながら、だらだら少しずつ食べるようになった」「食物の品質を重視しない国々は、力強い経済成長を謳歌したが、文化的なアイデンティティを失った。これらの国とは反対に、食を愛し、食卓ですごす時間を楽しむ国々では、労働時間は短く、商業的な成長の面では劣ったが、自国のアイデンティティは維持された(フランス、イタリアなど)」「自然を画一化した食の画一化は、ショックや危機に対して自然がもつ抵抗力を奪った」は、恐ろしいが、確かにその通りだ…日々のことなので、つい流されていたが、これはまずい、と気付かされる。


今後の見通しも、暗い。「食生活のあり方は、5つに区別できる。①裕福な美食家。腕の立つ料理人のレストラン料理を味わう②体に良いものしか食べない食通。自分たち以外のことを真剣に心配しない③富裕層や食通を真似る上位中産階級④多数派の下位中産階級。工業的に製造される食品の主な顧客⑤最貧層。食品業界が提供する劣悪な食品を食べる」「昆虫食が推進される。昆虫は、タンパク質など栄養が豊富で、動物よりも捕獲と飼育が容易で、生育する際に必要な水の量が動物より少ない」「人々は、孤独感を紛らわせ、物足りなさを埋め合わせるために、麻薬中の麻薬とも言える工業製品の砂糖を大量に消費し続ける」「人々は各自の都合の良い時間に、ちびりちびりと食べるものを冷蔵庫や自販機から取り出して食べるようになる。食物は、個食、持ち運び可能、すぐに食べられるという要望に見合うように加工される」「人々が集う食事のうち、存続するのは宗教行事、家族の行事、結婚式、誕生祝い、葬式のときの会食」などは、既に始まっている、とも言える。
「われわれは、社会が個人の健康を監視する社会で暮らすことになる。長寿を約束する独裁者に身を委ねるのだ。長寿の対価として、われわれは、話す、聞く、意見を交わす、感情を抱く、愛する、楽しむ、叫ぶ、苦しむ、背くなどの、本当に生きるという行為を断念しなければならない」「民主主義にとって、より多くのモノを売らんとして、資本主義が人々を沈黙に追い込むのを放置すること以上に危険な行為はない」という警告も、全く脅しに聞こえないくらいリアルだ…


では、どうすれば良いか。「食は、人生と自然を分かち合う一つの方法であり、体と心を最善の状態にするための手段であり、自然との触れ合いを見直し、これを失わないようにするための貴重な機会」ということを強く認識した上で「糖分なしで健やかな暮らしを好き送るのは難しい。糖分を摂取すると、自己を制御しやすくなるから。なので、砂糖に変わるものを見つける必要がある」「食物の無駄を減らし、地産地消を優先し、肉食を減らし、季節の果物や野菜を食べ、温室効果ガス排出を削減する」「ゆっくり食べる。よく噛んで、時間をかけて食べることで、食べすぎを防ぐ」「会話で健全な食を促す。我々は会話によって自分たちの食を正しく知ることができる」「食品業界が有無を言わさず押し付ける食品に異議を唱える」「飽食の社会で暮らす人が節食するのは、本人ならびに地球環境にとって有益。定期的に、1日のうち連続14時間は何も食べないというような、連続的で秩序立った断食が効果的」などと提言する。
難しいように感じるが、「すべての答えは、われわれの歴史、そして、各自の明晰さ、反骨精神、勇気に宿る」の言葉に力をもらって、進むしかないんだろうな。


コロナ禍真っ只中で、会食が悪とされる日本にいると、「話すことと食べることは不可分であり、権力と性行為、生と死という人間の本質に還元される」「食事中の会話は親交の証」「食事は出会いと会話の場であり、これは世界中の旅先においても同様」というモノがぶった切られでいて、本当に生き苦しい。そして、こうした歴史が積み上げてきたものが、アフターコロナで「個食」に駆逐されないようにしないといけない、と強く感じる。


筆者の叡智と強いメッセージが印象的だが、地域・過去の掘り下げも楽しめる。「ギリシア人は、酩酊状態を三つの段階に分けた。一つめは、抑圧から解放されて自由に発言する段階だ。二つめは覚醒する段階だ。三つめは酩酊するだんかいで、これは創造性の段階と見做された」「ラテン語の『安定的に位置づける、強くする、強固にする』という意味の『staurare』に接頭辞の『re(再び)』を付けると『restaurer』という動詞になる。その現在分詞が『restaurant;レストラン』」はその一例だが、筆者の博覧強記ぶりには舌を巻くばかり。


本当に面白く、これは是非一読をお薦めしたい。

【読了】デービッド・アトキンソン「世界一訪れたい日本のつくりかた」

今年75冊目読了。元ゴールドマン・サックス金融調査室長にして小西美術工藝社社長の筆者が、新・観光立国論の実践編として書き著した一冊。


この本が書かれたのは2017年。コロナ禍に苦しむ2021年においては、筆者の「観光は為替や国際社会の安全を揺るがす無差別テロなどによって大きく影響を受けるので、安定した成長が望ましい『基幹産業』としては不安な要素が多すぎる、という主張がある。しかし、実は観光程そのような不測の事態に強く、安定成長が期待できる産業はない」という断言は、虚しさしかない…


まぁ、ここまでのことは予測できないから、そこをあげつらっても仕方ないし、「日本は、観光大国になる4条件の自然・気候・文化・食を全て満たしている稀な国」であるのも間違いない。世界はすでにコロナ後に向けて動き出しているので、何らかのヒントになるか、と読んでみた。


日本の観光業のボトルネックは「航空交通インフラ、観光インフラ、自然資源」であり、それは「限られた時期のなかで、とにかく1人でも多くの客を招いて、効率よくお金を落とさせる『昭和の観光業』の発想」と断じる。そして「平成の観光業は、昭和の観光業の方法論を、中国人観光客へ適用させているだけ」と指摘する。ではどうするか。「観光の単価を上げることと、満足度を向上させてリピーターを増やしていくこと。これは表裏一体」「『横並び』をやめて、客の『満足度』を高めるために何をすべきか考えよう」と提言する。


日本の立地は「欧州やアメリカと言う、ただでさえ観光にお金を使う傾向がある人々が遠方にいる」「アジアの観光客は、滞在期間が短い分だけ落とす金額が減る」という主張は、「遠い国へ旅行したときには、隣国へ旅行したときよりも、より多くのお金を落とす傾向がある」ということからも、納得できる。そして、筆者は意外にも「ドイツ人をターゲットにし、ドイツ語の発信を充実させよう」と提唱する。その発想はなかったな…


自然を使った体験観光には可能性が大きい、とする。それは「滞在型だから。自然体験では、滞在時間の長いものが比較的簡単につくれるので、宿泊日数が伸び、支出額が増える」から。だが、現状の「駐車場のように区画されたキャンプ場は、『一極集中』をさばくという『昭和の観光業』の発想に基づいて整備されたもの」「外国人観光客および地元以外の日本人観光客にとっては、現地まで移動するための交通費がきわめて高い」「交通費が高い割には、国立公園の施設と価格帯がお粗末すぎる」のでは話にならず、「『自然』を活かしたアクティビティを充実させ、施設も整える」べき、とする。


案内についても厳しい目を向ける。「解説は情報量が少なく、そのわずかな情報も『専門家目線』で発信されていることが多い」「とにかく『客』は誰で、その『客』に何を知ってもらい、何を感じてもらうかという発想がごっそりと抜け落ちてしまっている」「禁止事項が多いと、外国人は目を光らせていないとすぐに悪さをする迷惑な存在だととらえていることが漏れ伝わってしまう」とする。
その状況を打開するために「『So What?テスト』が有益。ある情報を見て『だから何だ』と自問することで、それが有益なのか、それとも独りよがりの発信になっているのかを確認する」ことが大事だ、とする。


ホテルについても「日本は5つ星ホテルが足りない」「日本のホテルなどで見かけるユーザー目線に欠けた『おもてなし』は、外国人観光客にあまり評判が良くない」とし「ショッピングの在んないから明日行くレストラン、アクティビティ、エンターテインメントなどの提案やコーディネートまで含めた『ホテル館外のサービス』がどれだけ充実しているかが重要なポイント」と改善点に触れる。とはいえ、筆者の主張するIR(カジノを含む統合リゾート)には感情的にどうも抵抗感がある…


役所については、観光庁に対して「全体戦略、データ分析機能」を求め、文化庁に対しては「現場で学芸員などが何でも禁止にして、わかりやすい解説も否定するという一部の風土を改めて、観光資源化と保存の両立を、どこまで堅実に実現できるか」「文化財を単に税金を費やす『研究・学習の場』から『自ら稼げる観光施設』に生まれ変わらせることで、自分たちで稼いだお金で、施設のメンテナンスや伝統文化の普及などを進めていく」ことを求める。


確かに、もともと日本の「高度成長期型観光」は死滅寸前だったところ、コロナ禍で息の根を止められた感があるので、その後の処方箋としては参考になる。

【読了】ケルビー・バード「場から未来を描き出す」

今年74冊目読了。アーティストでありスクライビングの実践者である筆者が、対話を育むスクライビングの5つの実践について書き記した一冊。


自身が傾注しているU理論と、それのグラフィックファシリテーションのような本かな、と思ったが、筆者はスクライビングについて「場を起点に手を動かし、機能させることで、集合的な知識、つまり、そのシステムや場にいる人々が感じ取った感覚を表現するアート」「生成的なスクライビングの目的は、要約や綺麗な絵を描くことではない。場にいる人々をつなぎ、新たな洞察やビジョンを生み出す後押しをすること」と述べ「スクライビングは、人々が場で起きていることの意味づけを強く願って初めて本来の力を発揮する」とする。自分は体感的に何となくわかるような気がするが、一般的には「スクライブは、共に観ること、人が進む方向を見い出すことを、アートという形で補助する」という表現がわかりやすいように感じる。


スクライビングの5つの領域とは「在る、融合する、捉える、知る、描く」だとするが、正直、これだけでは何のことやらサッパリわからない。だが、感情を扱うに際し「『悲しみ』は『融合する』こと、『恐れ』は『捉える』こと、『怒り』は『知る』こと、そして『喜び』は『描く』ことにつながる入口」と言われると、なんとなく見えてくるような気がする。
では、在る、って何?というところだが「私は描き始める前に、ほんの一時─数分間の場合もあるが─よく立ち止まる。自分が静まり、自分が『在る』状態になるのを待つため。このように『待つ』のは何のためか、と聞かれることがある。それは、意識から雑念を払うためでもあるし、源を感じるためでもある」と、やや禅宗に近いような感覚を答えとして提示する。瞑想も最近はよく取り上げられるし、その手法は正鵠を射ている、ということなんだろうな。


人生においては、在り方がよく問われると感じる。それに対しては「内側に意識を向けると、そこには純真な場所がある。新しく繊細で守られた場所、私的で安全で自然のままの場所。それこそが大切なもの、放たれるエネルギーの源」「『できない』は赤信号のようなもの。自分の頭の中で青信号に変わるまで、一時的に止まるための信号。そしてきっと、ひとつひとつの『できない』は、実は手の込んだ贈り物。それを受け取って初めて、現在のマインドセットを『もし、やってみたらどうなる?』へと、リフレームできる」というあたりにもなるほどと感じるが、端的なのは「私たちは模倣によって学習し、統合によって進歩する。そして、自らの源に触れることによって、熟達する」という表現。自分は熟達できているか?と考えると、とても恥ずかしくなる…


融合する、という段階において気になった記述は「私たちがより深い人間性を呼び起こすとき、境界線は消えてなくなる」「悲しみは私たちを人生のニュアンスにつないでくれる。悲しみは、活動の色が現れる前の灰色の小休止」「何を受容するかと、知覚がどれだけ鋭敏になっているかは、相互に関係している。そして、それによって選択やアウトプットも決まる」のあたり。


捉える、という段階においては「『観る』とは、システムのパターンやダイナミクスをあきらかにし、レバレッジ・ポイントを見つけ、より良い結果に転換するために、そのシステムの考え方や構造、行動を認識しようとする過程」「大事なのは集中すること。注目し、注意を怠らない事。そして、探求すること」「恐れは、知覚への鍵であり、選択に至る道の途中にあるもの」「はっきりわからないときは、立ち止まろう。ペースを落とそう」「人は、1つの推測を緩めることで、直ちに解釈と洞察への窓を開くことができる」「人や集団の時間の捉え方を理解することにより、私たちは話の展開をより適切に追い、フレーミングすることができる」あたりが心に響く。


知る、という段階に関しては「信頼という筋肉を作るために。●『焦りを手放す』もっと周りを気にかける。スピードを落として、ゆっくり進む。深呼吸する。忍耐力を強める。●『源』これが土台だと知っておく。源にアクセスし、そこにとどまる。●『器になる』認識できるものすべてを包み込む。広がる、ホールドする。●『スケール』その瞬間を大局的に捉える。この描写は、大海の一滴にすぎない。今日という日は、幾千日のうちのたった1日にすぎない。●『感じ取る』描かれたがっているものは何だろう?まずは、より深く聴こう。●『理解を深める』自分の理解の幅を広げるためには、メンタルモデルの境界線を広げる」「相手の言葉やふるまいの背景や視点を知るための第一歩は、その人の立場から考えること。やり取りの全体像を見ようとすることで、自分の視座を高めることができる。そして、根底にあるものの意味を探求することで、理解のパターンを広げられる」といった記述が刺さる。


描く、という段階では「喜びは、人が心を動かされ、新しい在り方に目覚めていくのを目撃すること。人が成長することの美しさ、ただただ美しい、絶対的に美しい人間性そのもの」「思い描くとは、物事の根底に存在する秩序に触れ、その要素を表に出すための方法」あたりがいいなぁ、と思う。
そして、スクライビングについては「段階が四つある。①鏡のように映す。言葉を聞いて、絵にしてみる。②区別する。言葉を解釈して、話に流れを見つける。③紡ぐ。複数の背景や思いを紡ぎ合い、意味付ける。④表出化させる。見られたがっているものを表に出し、見せて知らせる。」「生成的なスクライビングは、社会における転換が引き起こす困難を緩和するために描かれる。私たちは描くことによって、未知を越えて、分断された状態から包含する状態への転換をはかる」とする。


普段のコミュニケーションにも役立ちそうな「ほかの人の発した言葉に色を付けるのは、私自身の経験に基づく思考で、これは、避けられないこと」「発言者は主張している(自らの意見や権利を述べている)か、探求している(すぐに答えが出るかどうかはともかく、何らかの質問をしている)か、そのどちらか」「会話は、『動かす』『後に続く』『反対する』『俯瞰する』のどれか」のあたりの洞察もあり、読んでいるだけで心が浄化される不思議な感覚。


21世紀は「大変不確かで不安定な世の中。その中で未来を切り開いていくには、勇気を持って未知の領域に踏み込む必要がある」と指摘する。しかし、それは恐ろしいことでもあるんだよな…


参考になったのは、U理論でイマイチ掴みづらいプレゼンシングという概念について「(私の解釈では)全体性の中で調和すること、そしてそこから、前に向かって進むために必要な要素を明らかにすること」としていること。これは、何かの鍵になりそう。


とっつきにくい感はあるが、読み進めてヒーリングされるような本はそうそうない。不思議な本だ。

【読了】大平光代「だから、あなたも生きぬいて」

今年73冊目読了。いじめを苦にして中二で割腹自殺を図り、その後非行に走って16歳で暴力団組長の妻となりながらも、立ち直って司法試験に一発合格。非行少年の更生に努める弁護士となった筆者が、その半生を振り返り、諦めずに困難を乗り越えるエールを送る一冊。


昔ベストセラーになっていたのは知っていたし、大筋はテレビかなんかで見て知っていたが、やはり本人の絞り出す生々しい言葉で綴られた書籍は重さが違う。思わず、二度読みしてしまった。


人の親である身としては「母は、私のことを理解しようとせずただ泣くばかりで、そのくせ世間体ばかり気にしている。それが無性に腹立たしかった」「私は、叱ってほしかった。本気で私と向き合ってほしかった。でも、両親は一度も叱ってくれなかった」「私がこのようになった理由を、誰かにわかってもらいたかった。全部わかってくれなくてもいい。ほんの少しでもいい。私の心に寄り添ってくれる人がほしかった…」は、魂の深い所を揺さぶられる感じがする。


非行に走り、底辺にまっしぐらに向かう中で「<こんなところに出入りしてたら、感覚が変になる…>そう思ったが、私はやめなかった。ひとりぼっちは寂しかった…。誰でもいい。友達と呼べる人が欲しかった…。自分の居場所がほしい…」という心の叫びは重い。人間、孤独には耐えられないとはよく言われるが、それが端的にこの言葉に出ている気がする。そして、悪の道を進むことで「いじめに苦しんだ自分が、死ぬほどの苦しみを両親に与え、さらになんの関係もない他人をも苦しめる側に回った」という事態に陥るという人間の世の不条理、哀しさを感じずにはいられない。


そんな筆者を立ち直らせた後の養父の言葉「確かに、あんたが道を踏み外したのは、あんただけのせいやないと思う。親も周囲も悪かったやろう。でもな、いつまでも立ち直ろうとしないのは、あんたのせいやで、甘えるな!」は、人と真剣に向き合うことのパワーを感じさせる。


「どんなことを言われても、自分の受け止め方次第でだいぶちがうんやなぁ…」「ほんまの親孝行とは、いらん心配や苦労をかけへんことなんや…」などの筆者の感想は、その壮絶な経緯があるからこそ、響きが重い。そして、苦しんでいる人達への目線は熱く、真剣だ。「絶対に自殺はしないでほしい。死んでも地獄、運よく助かっても立ち直るまでは地獄。あなたの今現在の苦しみや悲しみは永遠のものではなく、いつかきっと解決する。どうか前向きに生きていってほしい」「家庭や学校や世間に対する怒りや不満を、道を踏み外すことで解消しようとしても、それは全部自分に跳ね返ってくる。自分がしたことの何倍にもなって。どうか周りの人の言うことを素直に聞いて、自分の人生も他人の人生も大切にしてほしい」の熱量は、筆者ならでは、だろう。


養父が贈ってくれたという言葉は、大事にしたい。これを知れただけで、この本を読んだ甲斐があったというくらいにいい言葉だ。
「今こそ出発点


人生とは毎日が訓練である
わたくし自身の訓練の場である
失敗もできる訓練の場である
生きているを喜ぶ訓練の場である


今この幸せを喜ぶこともなく
いつどこで幸せになれるか
この喜びをもとに全力で進めよう


わたくし自身の将来は
今この瞬間ここにある
今ここで頑張らずにいつ頑張る


京都大仙院 尾関宗園

【読了】池井戸潤「下町ロケット」

今年72冊目読了。言わずと知れた超人気作家の、中小企業の社長が奮闘する様子を描き出す一冊。


超人気なのは知っていたが、「町工場のオッチャンたちの奮闘記なんだろうな」くらいにしか認識していなかったが、実際に読むと、なるほどこれは引き込まれる。いきなり法廷闘争から始まり、大企業の思惑、社員それぞれの願い、そして登場人物それぞれの背景が織り成す意外な繋がり。確かに、物語として非常に上手に伏線回収されていくし、面白かった。ついつい一気読みをしてしまった。


筆者が三菱銀行(当時)出身ということで、リアリティある設定ができるのだろう。登場人物の息づかいが豊かで、様々な角度から同じ物事を観ると全く違う形になる、というのが興味深い。ただ、一部「悪役」仕立ての登場人物がちょっと残念。ストーリー的にそう配置しているのだろうが、その人達にもそれなりの「義」があるはず。そこの部分が欠落している。


ストーリーを楽しむものであるのはよくわかるが、そんな中でも、苦境に際しての「どう話したところで、保身を考えている人間の気持ちを変えるのは難しい。人間の本性が現れるのは、平時ではなく、追い詰められたときである」「こんな状況の中にあって、去る者もいれば、親身になってくれる者もいる。数少ない支援者を信じられなくなったら、その先にあるのは、ただひとつ-破綻だ」という人間の真理には心を打たれる。だからこそ「自分の都合のいいときだけすり寄ってくるような商売はよしてくれ。いいときも悪いときも、信じ合っていくのが本当のビジネスなんじゃないのか」ということになる。


働くということについて「自分のためではなく、家族や社員のために働いている-そう考えることで、自分は心のどこかにある挫折感を打ち消そうとしていたのではないか。他人のためだと思い込むことで、真実から目を背けていただけではないのか」「オレは、もっと自分のために生きてもいいのかもしれない。そうすることで、逃げるだけの人生にはピリオドを打てるかもしれない。いや、そうすることでしか、ピリオドを打つことはできないはずだ」というのは、誰もがぶち当たる壁であるし、それとどう向き合っていくか。45歳になると、この言葉は重く響く。
「仕事っていうのは、二階建ての家みたいなもんだと思う。一階部分は、飯を食うためだ。必要な金を稼ぎ、生活していくために働く。だけど、それだけじゃあ窮屈だ。だから、仕事には夢がなきゃならないと思う。それが二階部分だ。夢だけ追っかけても飯は食っていけないし、飯だけ食えても夢がなきゃつまらない」と主人公に問われているのは、自分ではないのか?とも思ってしまう。


40を過ぎても惑いまくりな自分にとっては「何事も勝負所ってある。いまは大変だけど、一生懸命やればきっとうまくいく-そう信じることが大事」「なにが正しいかは、後になってみないとわからない。肝心なことは、後悔しないことだ。そのためには、全力をつくすしかない」の言葉を励みに、誠心誠意精励したいと感じる。


単純に、サラリーマンには読み物としてワクワクする面白い本だった。これは流行るわけだ。