世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】アドルフ・ヒトラー「わが闘争(上下)」

今年54、55冊目読了。世界を地獄に叩き落とした政治家の、根本となる考えを書き著した本。


言うまでもなく悪魔の書であり、佐藤優「危ない読書」が薦めるほどの本だが、訳者の「戦争体験なき世代こそ、この書を読むべきではないだろうか。この書をくもりなき目で読み、客観的に判断することが、この世代にとって必要であり、戦後の教育を受けたものなら、十分な批判力をもって読むことができるのではないか」もそうだな、と思って読んでみた。


彼の危険な思想が現れるのは「多数はいつも愚鈍の代表であるばかりでなく、卑怯の代表でもある。百人のバカからは実に一人の賢人も生まれないが、同様に卑怯者からは、一つの豪胆な決断もでてこない」「永遠の闘争において人類は大きくなった。永遠の平和において人類は破滅するのだ」「結婚は、それ自体を目的とするものではあり得ず、種と人種の増加及び維持という、より偉大な目標に奉仕しなければならない」「ただ健全であるものだけが、子供を産むべきで、自分が病身であり欠陥があるにもかかわらず子供をつくることはただ恥辱であり、むしろ子供を産むことを断念することが、最高の名誉である」「われわれが今日、人類文化について、つまり芸術、科学および技術の成果について眼の前に見いだすものは、ほとんど、もっぱらアーリア人種の創造的所産である」「多数決はなく、ただ責任ある人物だけがある。もちろんすべての人々には、相談相手というものはある。だが決定は一人の人間だけがくだすのである」「民主主義はほとんどの場合、ユダヤ人の要求に一致した。なにしろ、それは人格を排除し、その代わりに、愚鈍、無能、そしてこれに劣らず臆病さ、これらで構成されている多数を持ち込むからである」のあたりにある。


そして、領土的野望も「抑圧されている国土は激しい抗議でもって共通の国家のひざの中に戻ってくるのではなく、戦闘力のある剣によって取り戻されるのだ。この剣を鍛造することが、一民族の国内政策上の指導の課題であり、鍛造作業を安全にし、戦友を探すのが外交政策指導の課題である」「もし領土拡大が出来ぬとすればある大民族が没落せねばならぬように思われる場合、領土に対する権利は義務と変わりうる」が、彼の横暴の基礎と感じる。
同盟などについては「イギリスとイタリアのこの二つの国家は、少なくとももっとも本質的な点では、自国のもっとも自然で固有な利害を追求してもドイツ国民の生存条件に対立しないし、それどころか、ある一定の限度までは一致さえする」「フランスが、自国の報復情熱に拍車をかけられ、またユダヤ人に計画的に導かれ、今日ヨーロッパでやっていることは、白色人種の存続に反する罪」「ロシア・ボルシェヴィズムは二十世紀において企てられたユダヤ人の世界支配権獲得のための実験と見なされなければならぬ」あたりが偏りを感じる。そして、歴史はこのとおりにならないのもまた興味深い。


彼の後の行動にも現れるのは「ほんとうに偉大な民衆の指導者の技術というものは、第一に民衆の注意を分裂させず、むしろいつもある唯一の敵に集中することにある。民衆の闘志の傾注が集中的であればあるほど、ますます運動の磁石的吸引力は大きくなり、打撃の重さも大きくなるのである」。
特に宣伝についての「宣伝はすべて大衆的であるべきであり、宣伝が目指すべきものの中で最低級のものがわかる程度に調整すべきである。それゆえ獲得すべき大衆の人数が多くなればなるほど、純粋の知的高度はますます低くしなければならない」「宣伝は、大衆の鈍重さのために、一つのことについて知識をもとうという気になるまでに、いつも一定の時間を要する。最も簡単な概念を何千回もくりかえすことだけが、けっきょく覚えさせることができるのである」「ある理念を大衆に伝達する能力を示す扇動者は、しかもかれが単なるデマゴーグにすぎないとしても、つねに心理研究家であらねばならない」は、実際に活用された。
そして、皮肉にも「国民大衆の心は本質的に、意識して、故意に悪人になるというよりも、むしろ他から容易に堕落させられるものであり、したがって、かれらの心情の単純な愚鈍さからして、小さな嘘よりも大きな噓の犠牲となりやすい」となっていく。


ただ、人間心理を「誤った概念やよからぬ知識というものは、啓蒙することによって除去することができる。だが感情からする反抗は断じてそれができない。ただ神秘的な力に訴えることだけが、ここでは効果があるのである。そしてそういうことはつねに文筆家にはできず、ほとんどただ演説家だけがなしうるのである」「群をなしておれば、人間というものは実際にこれに反する千の理由があろうとも、つねに何か安心感を持つものなのだ」と分析しているのは鋭い。


読書好きとしては、希代の煽動家が「読書や学習の技術というのは、本質的なものを保持し、本質的でないものを忘れること」「正しい読書技術をもっているものは、どんな本、どんな雑誌やパンフレットを読んでも、有用であるかあるいは一般に知っておく価値があるという理由で、長く記憶すべきだと考えるすべてのものにただちに注意するだろう」と述べているのは、反面教師としたい。


猛烈に長いし、批判的に読み続けることが必要なので、かなり疲れた。しかし、巨大な振興宗教のカラクリのようなものであり、現代への警鐘としては意義深い。

【読了】村田沙耶香「地球星人」

今年53冊目読了。芥川賞受賞作家が、常識に搦め取られた世の中に対して強烈なメッセージを投げかける一冊。


佐藤優が「危ない読書」という本で薦めていたので読んでみたが、なるほどこれは危なすぎる。ラストの凄まじさと荒唐無稽さも、それまでの「常識とは何か?」というきわどい問いかけのおかげで、ついはいり込んでしまう。


ネタバレ回避で、あらすじや結論は書かないが、特に心に残ったフレーズは以下のとおり。


世の中の常識・構造について「私は、人間をつくる工場の中で暮らしている。私が住む街には、ぎっしりと人間の巣が並んでいる。ずらりと整列した四角い巣の中に、つがいになった人間のオスとメスと、その子供がいる。つがいは巣の中で子供を育てている。私はその巣の中の一つに住んでいる。ここは、肉体で繋がった人間工場だ。私たち子供はいつかこの工場を出て、出荷されていく。出荷された人間は、オスもメスも、まずはエサを自分の巣に持って帰れるように訓練される。世界の道具になって、他の人間から貨幣を貰い、エサを買う。やがて、その若い人間たちもつがいになり、巣に籠って子作りをする」「ここは巣の羅列であり、人間を作る工場でもある。私はこの街で、二種類の意味で道具だ。一つは、お勉強を頑張って、働く道具になること。一つは、女の子を頑張って、この街のための生殖器になること」「世界は恋をするシステムになっている。恋ができない人間は、恋に近い行為をやらされるシステムになっている。システムが先なのか、恋が先なのか、私にはわからなかった。地球星人が、繁殖するためにこの仕組みを作り上げたのだろう、ということだけは理解できた」と書くあたりは、寒々しいが事実だなぁ…


常識に立ち向かうことについて「世界に従順な大人たちが、世界に従順ではなくなった私たちに動揺している」「見たくないものを見てちゃんと暮らしている人が、世界にはたくさんいるんだ」「見たか、あの女の眼を!?狂ってる。まるで僕たちを罪人のような目で見て『今なら許してあげる』と言わんばかりだ。何でも僕が、僕であることを赦されなければいけないんだ。まっぴらだ!」「本当に怖いのは、世界に喋らされている言葉を、自分の言葉だと思ってしまうことだ」と書かれているあたりも、確かになぁ…と思いあたる部分があるので、心揺さぶられる。
そして「常識は伝染病なので、自分一人で発生させ続けることは難しい」「常識に守られると、人は誰かを裁くようになる」は、正鵠を射ているように感じる。故に怖い。


恐ろしい読後の不快感があるので、相当に心して読まないといけないが、自分が勝手に信じている「常識」を揺さぶられる恐ろしい感覚は、一読の価値あり。これは凄い本だ…確かに「危ない読書」だな…

【読了】堺屋太一「豊臣秀長(上下)」

今年51・52冊目読了。通産省官僚を振り出しに内閣官房参与まで務めながら、精力的な執筆活動を行った筆者が、ある補佐役の生涯にスポットライトを当てる一冊。


恥ずかしながら、豊臣秀長という人物について寡聞にして知らなかったが、この本で非常に興味を持つことができた。さすが三谷宏治お薦めの本だな。


秀長の「秀長の役割は、驚くべきプランを提唱することでもなければ、一部局を率いることでもなく、兄・秀吉と同体化することだった。秀長の機能は『補佐役』であって『後継者』ではなかった」「秀長は二つの決断を下していた。その一つは不安と困難に満ちた海に兄と共に船出する覚悟であり、もう一つはこの兄の補佐役として労多く功少ない立場に身を置く決心だった。秀長は生涯、水から下したこの二つの決断に忠実に生きるのである」という決意は、まさに自分という『道具』の使い方を知り尽くしており、こんなことができる補佐役がいたんだ、と驚かされる。
そして、その道を進むために「あまりにも機敏で大胆で人生に対する闘志に燃える兄の側にいるせいか、秀長には自分の至らぬ所もよく見えた。所詮は『補佐役』に適するように生まれついている、と思うのだ。『どうせ補佐役なら兄のそれになり、生涯主役になろうとは臨まぬことだ…』彼はそう心に決め、何度も自分にいい聞かせていた」という覚悟と認識が、「兄の大胆さと弟の確実さ、これが終生変わらぬ木下兄弟の役割分担だった」ということになっていく。
実際の行動において「たとえ『兄に劣る弟』と冷笑されても愚直を装って耐えねばならない。補佐役たる者は、時としてあほうになり切る才能もまた、必要なのだ」「自分の忠告が当たったとしても、兄の権威を傷つけるだけで得る所がない。補佐役たるもの、主役と才知や人気を競うようなことをしてはならないのである」ということを守っていたのが、彼の超一流たる所以だろう。


信長の手法について「敵を痛撃すると無理に領地を奪わずに引き揚げ、相手の内紛と衰弱を待つのは、織田信長が終生多用した戦略である。激烈な速攻と同時に、こういう『待ち』の戦略も使えた所に信長の精神的強靭さがうかがえる」「脇目もふらず真直ぐ心臓部(最重要地点)を衝く、いわゆる『ハートランド戦略』は、織田信長が生涯多用した得意手の一つ」「信長は、小さな変革を何度も繰り返し、その都度不満と抵抗を産むよりは、一挙に大改革を断行する方がはるかに得策なことを知っていた」「織田信長は軍事力の基礎が経済力であることを明瞭に意識し政策化した最初の日本人」という指摘は確かにそうだなぁと思う。
そして、故に「徹底した合理主義者の織田信長は、生涯人間の不合理な感情を理解できなかった」「信長は発想の自由さと合理的計算の故に、しばしば冷酷に犠牲を強いた」という罠に嵌まったのは、非常に惜しまれるところだ。


そして、本能寺の変については「光秀の緻密な計画の基になっていた世の中の見方が間違っていたのだ。光秀は、もうこの世には存在しない伝統と慣例を頼りにし、多くの人々が感じてもいない憎悪を代表しようとしていたのである。この世の中の大部分の人間は、自分と同じように、今もなお伝統と慣例を重んじる古い常識を保っていると期待していたからである」という解釈もなるほど理解できる。緻密な知識人の光秀が三日天下に終わったのはいかにも違和感まんまんだからなぁ…


秀吉について「秀吉の人使いの上手さは拡大成長のためのものであり、守りとまとめの才は欠けていた」「秀長の死後、兄・秀吉はなお七年半生き続け、その身辺と政権をますますきらびやかに飾り立てていく。しかし、秀長の死んだその日から、豊臣の家をより幸せにするようなことは何一つ起こらなかった。よき補佐役の死は、偉大な主役にとっても、その一族や家臣、統治下の民にさえ不幸な出来事だった」という見方は、なるほどと思わされる。


武士と言うものについて「武士に大事なのは戦場ばかりやない。普段の働きこそ大切じゃ。一に忠勤(殿の気質を知り、殿のなされようとすることをいわれる前に測り、昼夜の別なく殿の意にかなうように動くこと)、二に目利き(家中の事に目を配り、大小にかかわりなく問題点を発見しいち早く改善すること)、三に耳聡(さまざまな噂を集め、役立つものを細大漏らさず殿のお耳に伝えること)」と述べるあたりは、現代のサラリーマンにも通じるものがある。


一般則として「平和と治安の良さと戦勝による名声の向上が、商人を呼ぶのだろう」「仲裁の技術は、一方の顔を立て、いい分を通すときには、他方に銭を与えて実利を取らせるのである」「とかく、伝統的権威というものは、情報不足の遠隔地ほど保存状態が良好なのだ」「日本の歴史でも、偉大な成功者、なかんずく天下を制したような英傑はみな、好調期の攻めの鋭さとともに、苦難の時期の守りの固さを持っている」「戦においても事業においても、最も難しいのは見切りをつけての撤収」「伝統と慣例が尊ばれなくなった世の中では、武力と人脈だけが正義の基準を決める」のあたりは心に留めおきたい。


そして、「世に、努力もし、実力もあり、忍耐もしたのに、ついぞ運に恵まれずに人生を終えた不幸な人も数多い。しかし、努力と実力と忍耐を欠いて好運だけで大成功した人物は見当たらない」というのは、けだし名言である。今更、大成功を望むべくもないが、自分なりに努力はしていきたいと感じることができる。


自分の能力、分を冷静に見抜き、それに殉じ切った凄い人生。その迫力に圧倒された。

【読了】野村育代「北条政子」

今年50冊目読了。女子美術大学付属高校・中学の教諭である筆者が、尼将軍・政子を中世人の一人として捉えて掘り下げる一冊。


筆者自身が「ジェンダーの問題に関心を置いた社会史としての人物伝」と語るとおり、あまりにもジェンダー論が強すぎ、逆にアレルギーを起こしそうになる。2000年という執筆時を考えても「近代の男性作家吉川英治は、なぜ、女性が夜をしのいで恋人のもとに走るという情熱的な物語を、花嫁掠奪の場面に置き換えたのだろうか?きっと、そういう方が、この作家の趣味にかなっていたのであろう。私は、こうした改作は、古典『平家物語』をゆがめ、女性を蔑視するものだと思う」などを見ると、明らかに肩に力が入りすぎている。


歴史上、女性が活躍していたということについての「政治史の裏舞台では、家の奥深くで発生する重大な情報が女たちによってキャッチされ、流されていたのである。それは、政子のような女主人から女房らをも巻き込んだ、情報のネットワークであった」「女院政は、時代は状況によってさまざまな立場の女院を生みだしていくが、もともとは、寡婦で母である立場の者に贈られた地位」「夫が死ぬと妻が財産をすべて管領し、子らに分配する後家の役割が始まってくる」のあたりの指摘はなるほどと思う。


また、政子のイメージについて「江戸時代の人々の間で、政子は、絶対的な権力を持つ母親、おっかない女のイメージでとらえられていた。そして、その一見軽い、揶揄するような調子のいい方の裏には、権力者に対する反感が、『女のくせに権力を持つ者』に対する反発となって潜んでいるように思われる」「戦前から戦中に、肯定的に評価された女傑政子像は、女性たちに勇気を与えると同時に、女性を総力戦体制に動員する役割の一端を担ったことは否定できないだろう」と指摘しつつ「歴史上の人物についての評価は時代によって変化する。時代によって視点が変わるのは当然にしても、それぞれの時代の政治やイデオロギーの都合に合わせた恣意的な解釈や、善玉悪玉の審判は、歴史像をゆがめ、時には世の中を煽動することすらある」という主張も、まぁ理解できる。


ただ、「頼朝が妻の出産時になると決まって不倫をするのは『都生まれの貴族だから』というのでは説明しきれない、何やら奇妙な、人間的な欠落を感じさせるものがある。平安貴族社会でも、妻の出産のスキをねらって愛人を作るなどという習慣は存在しない。これは、ひとえに頼朝の人格の問題であろう」のあたりになると、なんとなく私怨の臭いが漂ってくる。この物言いはどうだろう。


また、政子の政治手法を「過去の経験を引き合いにしてこんこんと人を諭すやり方は、政子が晩年に至るまで得意とした政治の技」「まず自分から渦中に乗り込み、理を通し、情に訴え、こんこんと説得し、『はっきりしろ』と迫る。これが、政子の一貫した危機管理の行動パターンである」と誉め湛えるが、正直、自分だったら(男だとか女だとか別にして)嫌だなぁと感じてしまった。


だんだん指摘も過激になって、ついていけなくなる。「親族の女性や弱者の保護というトップの女性の役割は、平安時代から受け継がれていたと考えられる。政子の場合は、武家の御台所としてその役割を果たした」はともかくとして「北条政子は、鎌倉幕府という権門の中では、確かに四代将軍であった。しかし、幕府だけでない当時の中世国家全体の中で、『鎌倉殿』=将軍を名乗ることはできなかったのだと言えよう」って、さすがに頼家・実朝時代の後見の仕方をぶっ飛ばしすぎている。「『二位殿の御時』と言われたこの時期、将軍権力は、政子と頼経によって二分されていたといえる。所領を媒介とした主従制的な支配権は政子に、儀礼的・象徴的な権力は頼経に。政子が武家儀礼に関与しなかったのは、人格がものを言う実際の政治とは異なり、故実の世界は、ジェンダーの壁が厚かったからだろう」などは、びっくりだ。


思想や立場はあるにしても、相手方を無視した主張はあり得ない。それを、改めて感じさせてくれた。でも、それ以上の価値は感じられないな…

【読了】石山恒貴、伊達洋駆「越境学習入門」

今年49冊目読了。法政大学大学院政策創造研究科教授と、ビジネスリサーチラボ代表取締役の筆者が、組織を強くする冒険人材の育て方を提唱する一冊。


越境学習とは「ホームとアウェイを往還することによる学び」と定義し「越境した場で、違和感、葛藤を抱えながらも、なんとかやろうとする感覚」こそが学習の原型と提唱する。
そして「越境学習によって得られる『冒険する力』こそが、『新しいこと』『変革』を成し遂げるうえでの原動力になるのではないか」と考える。


越境学習のメリットは「『自分はなにができるのか』を見つめ直す良い機会になる」「『自分が本当にやりたいこと』を考える機会が生まれる」「越境によって得た違和感や葛藤といったモヤモヤが、自分自身の生き方、考え方、働き方、あるいは自分の会社や仕事を変えていく原動力につながる」ということを挙げる。確かに、自分の経験でいっても、違う世界に入ると強烈な違和感があったのは覚えている。


また「『経験学習』が目指すのは、安定、適応、効率化、高度化、積み上げていく学びだが、『越境学習』が目指すのは不安定、不適応、固定観念の打破、変革、前提を疑う学び」というのは、『両利きの経営』で出てきた「『深化』と『探求』」とまさに相似を成す。「ホームの自分とアウェイの自分の違いを知ると、『いろんな面を持った自分がいること』『変わり続ける自分がいること』にも気づく。これは、多元的な自己、流動的な自己に気づき、それを受け入れることにもつながる」は、まさにVUCA時代の今だからこそ価値がある気づきだろうと思う。


では、実際の越境学習では人はどうなるのか。「越境学習者は二度死ぬ(越境中と越境後に葛藤と衝撃がある)」とし、越境前に「重なりすぎている会社の価値観と自己の価値観を引き剝がし、自身の価値観を言語化できるようにする(脱社会化する)」ことで、冒険者マインド「①越境に対する覚悟をする②所属組織について理解する③働く目的を明確化する④越境の目的を明確化する」を持つように準備することが大事だと述べる。なぜなら「越境先のミッションに共感し、そこで貢献しようと思わなければ越境学習は起きない」からである。
それをやってもなお、「越境先では、所属組織にいるときには当たり前過ぎて気づかなかった『自社の常識が越境先に通じない』という衝撃」を受け、越境後には「脱社会化し、複数のアイデンティティを持つようになった個人から見ると、ホーム自体の景色が今までと違って見えるという予期せぬ事態に、越境学習者は大きな衝撃を受けてしまう」。
そこまでして行う越境学習の特徴とは何か。「①学習のプロセスが直線的ではない②葛藤がむしろ学習の原動力となる③もがくことも重要な要素である④ホームとアウェイを俯瞰する⑤所属組織でも葛藤は起こる⑥良い組織でも葛藤は避けにくい⑦必要な資源を動員できるようになる」であり、「越境学習者は越境中も、越境後も『葛藤→行動→俯瞰→動員』というプロセスをたどる」ようになる。


実際の越境者たちの体験談も興味深い。「『正しいやり方はこうだ』と押し付けてもうまくいかなかったことが『自分はこうしたい』と伝えると共感してもらえてうまくいった」「ベンチャーは小さな組織、大企業は大きな組織だけど、どちらにいても一人ひとりが、自分がオールを握って漕いでいるという感覚を持たなくてはだめなんだ」「初めから社内に正解を求めずに、まず自ら動く」「自分の本質的な価値はなんだろうかということを、きちんと言語化したいという思いが募るばかり」という体験にはインパクトがあるし、「4名の事例では、現状の延長線上に囚われた自身の思考に疑問を感じ、ありたい姿を思い描き、越境先で葛藤することで視野が広がり、さらに悩み続けながらも新しい挑戦を重ねていくことによって学びが生じた」というのは羨ましくすらある。


越境学習の成果として「大切なことは、分かり合えないことを知りつつ、分かろうと努力すること。越境学習はこの『多声性』の重要性に気づかせてくれる」「『どう働き、どう生きるのか』という問いは、越境学習の『何になりたいか』(どんなアイデンティティ形成をしたいのか)という問いと親和性のあるもの」という観点が得られるのは、非常に意義深いと感じるし、それがイノベーターの5つの能力「①関連付けの力:関連付けの認知的スキル②質問力:現状に異議を唱える質問③観察力:新しいやり方の観察④実験力:新しいアイデアを試す⑤ネットワーク力:多様な人々と幅広いネットワークをつくる」にも繋がってくるのだろう。閉塞感の在る2022年の日本の現状を考えると、その意義は論を俟たない。


なんだかとても難しそうなことを縷々述べているが、「個人主導の越境学習は、1割バッターを目指すくらいの気持ちで気軽に構え、小さな一歩で始めていけばいい」というのは少し心が楽になるし、じゃ、挑戦してみようかという気持ちにさせてくれる。「『分かったつもり』になっていると、自分たちの存在意義や顧客への貢献価値も当たり前のこととなり、深く考察しなくなる。結果として、組織文化の同質性が強くなり、外部の知識を受け容れにくくなる」というリスクをしっかり考え、会社という仕組みでなくとも、個人でチャレンジすることが大事だ、ということを感じさせてくれる一冊。これは良書だ。

【読了】坂井孝一「鎌倉殿と執権北条氏」

今年48冊目読了。創価大学文学部教授の筆者が、義時はいかに朝廷を乗り越えたか、という疑問を解き明かしていく一冊。


大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にハマっており、筆者の作は「承久の乱」「源氏将軍断絶」に続き、三部作的に読んだ。


北条氏が力を握ったのは「武勇の士というよりは指揮官、軍事より文事に優れた政治家・官僚であり、それが時政や義時を執権という、将軍を支える御家人筆頭の地位、幕府首脳部の中心に押し上げた要因の一つ」と分析。


そのうえで、時政については「伊豆では中程度の規模の武士だったが、京都志向・上昇志向の強い、いささか山っ気のある人物だったと思われる」「優れた交渉能力を持ち、人的ネットワークの形成に長けていた」「チャンスを活かして頼朝の期待に応えたものの、独断で走り過ぎて最終的には大きな成功を逃してしまう」「頼朝からは幕府の役職に任じられることのなかった時政だが、頼朝が死去して重しが取れ、ライバル比企氏を武力で滅ぼしたことにより、タガが外れたように権力集中に走った」と、その人物像を解き明かしていく。


源氏将軍たちについて、頼朝は「次々と結婚の仲介に乗り出し、自分を結節点とした御家人の姻戚ネットワークを作り、そこに身内を絡ませていった。有力御家人の掌握にとどまらず、身内による派閥の形成を意図していた」。頼家についても「蹴鞠にうつつを抜かす暗君ではなく、積極的に幕政に関与し、将軍親裁を執行していた。若いが故の経験不足や、武断的な性格による失敗もあったが、基本的には頼朝晩年の政治方針を忠実に継承しようと努力していた」「『十三人の合議制』という確固とした制度が築かれたわけではなかった。むしろ若く未熟な鎌倉殿を支えるため、『宿老十三人』がそれぞれの経験に基づいて幕政に関与した」。
実朝と絡めても「流人から挙兵して戦いの中から幕府を立ち上げた頼朝には『戦時のカリスマ性』があった。その頼朝を継いだ実朝には『平時のカリスマ性』があった」というのは、だいぶ既成概念とは異なるし、いかに歴史が作られてきたか、ということでもあろう。


義時については「不満があっても、それを表に出さず、また事を荒立てず、黙々と自分がなすべきことをしていくのが義時」「表向きの『名』ではなく裏方に徹して『実』を取り、一時の感情に流されず情勢を正確に分析する、沈着冷静で頭脳明晰な男」「適切な機会が訪れるまではじっと待機するが、チャンスの到来と判断すれば果断・迅速に行動する」そんな人間だった。
しかし、実朝の死により「頼朝が急死しても頼家がいた。頼家が追放・殺害されても実朝がいた。しかし、今度ばかりは実朝に代わる主君はいない。初めての経験である。この難局をいかにして乗り切るか。政子を表に立てつつ、自分はなりふり構わず全力で幕政を取り仕切る。その覚悟が必要であった。『何をしているのか見せない男』だった義時は、運命の巡り合わせによって『何をしているのか見せなくてはならない男』へと変貌せざるを得なかったのである」と成長していく。ある意味『闇落ち』でもあるわけで、このへんを大河ドラマがどう描くかへの期待感も抱かせる。


歴史的事件についても、時系列に「頼朝は伊東で祐親の怒りを買うトラブルを起こしたが、祐清の提案により、頼朝の身柄を北条に移すという形で事態の収拾が図られた、というのが実態に近いといえるのではないだろうか」「富士川合戦の勝利は甲斐源氏の単独軍事行動によるものだった」「比企の乱は、追い詰められた時政ら北条氏がしかけたクーデターであり、実態は『北条の乱』とでも呼ぶべき事件」「実朝は摂関家とほぼ同格の身分で、しかも後鳥羽から実名と御台所を賜り、和歌や蹴鞠を通じて個人的にも友好・信頼関係を築いてきた。後鳥羽の親王を将軍に推戴するなどという大それた構想を思いつけるのは、実朝以外にあり得ない」と解説してくれるのは、なるほど面白いし、この流れが大河ドラマにも織り込まれそうだ。


後鳥羽については「幕府を否定するつもりなどさらさらない。逆に、幕府そのものをむやみに攻撃して解体させれば、武力を持った多数の東国御家人が無秩序に野に放たれ、治安が乱れるだけである。それよりも尼将軍政子と将軍予定者三寅のもとで「奉行」を務めている義時の首を、自分の命令に従う御家人をすげ替え、幕府本体の軍事力を組織ごと直接の支配下に入れて活用した方が、はるかにメリットがあってデメリットが少ない」と考え、義時追討の院宣を出した、とする。
しかし、実際には「後鳥羽や京方諸将が鎌倉方に対し、『賊軍』のままでは負ける、『官軍』になれば恩賞が手に入るという情報を流せば、個々の戦闘の勝敗もどちらに転んでいたかはわからない。しかし、まさかの反撃にあって余裕を失っていた後鳥羽や京方諸将にそんな真似はできなかった」。その遠因は「心のどこかで、自分が過ちを犯すはずはない、自分の出した命令に従わない者がいるはずがない、という過信」というのも納得。


当時の流れを押さえるうえで「恩を施してくれる者こそ主君なのだというのは、当時の武士たちの一般的な考え方」という観点は非常に大事。ルールよりも恩が優先されたわけで、その時代から「御成敗式目」を定める名君・北条泰時(奇しくも義時の息子)によってようやくそれが転換する、というのも興味深い。


新書でさらりと読めるし、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」をより楽しむためには一読をお薦めしたい。

【読了】チャールズ・A・オライリー、マイケル・L・タッシュマン「両利きの経営」

今年47冊目読了。スタンフォード大学経営大学院教授と、ハーバード・ビジネススクール教授の筆者が、「『二兎を追う』戦略が未来を切り拓く」ということを提唱する一冊。


相当借りるのを待った本だが、正直、中身の難解さがかなり高い…ただ、言っていることは正鵠を射ているんだろうな、とは感じる。


翻訳者が「両利きの経営」と称するのは「知の探究:自身・自社の既存の認知の範囲を超えて、遠くに認知を広げていこうとする行為」と「知の深化:自身・自社の持つ一定分野の知を継続して深掘りし、磨き込んでいく行為」の活動をバランスよく高い次元で行うこと。
しかし、一般的に事業成熟に伴い、企業は深化に偏っていく。なぜなら「第一に、人や組織は認知に限界があるので、どうしても『目の前の知』を見がちになる。第二に、企業は社会での信頼を得るために、不確実な『探索』よりも『深化』に向かってしまう。さらにいえば、ひとたび成功して『自分たちのやっていることは正しい』と認識すると、自分の認知している世界に疑念を持たなくなり、抜け出せなくなる」からだ。


探求が難しいのは「公式なコントロールシステムの調整(構造や指標など組織的ハードウェア)と、社会的なコントロールシステム(規範、価値観、行動など組織的ソフトウェア)は、戦略をうまく実践するうえできわめて重要。しかし、そのせいで組織的な惰性も醸成され、明らかに脅威に直面しているのに変革が難しくなってしまう」ためであり、「深化を成功させるために必要な調整は往々にして、探索に必要な調整の妨げとなる」。「深化では効率性、生産性、差異を減らすことが強調されるのに対し、探索はその反対で、要求水準の高い調査、発見、差異を増やすことが重要になる」からだ。


では、その深化に伴う慣性の力に打ち勝つにはどうするか。リーダーのすべき項目は「①新しい探索事業が新規の競合に対して競争優位に立てるような、既存組織の資産や組織能力を突き止める②深化事業から生じる慣性が新しいスタートアップの勢いをそがないように、経営陣が支援し監督する③新しいベンチャーを正式に切り離して、成熟事業からの邪魔や『支援』なしに、成功に向けて必要な人材、構造、文化を調整できるようにする」と述べる。


両利きの経営について、実践ポイントは「戦略的意図、経営陣の関与・支援、組織構造、共通のアイデンティティ(ビジョン、価値観、文化力)」。リーダーシップの原則は「①心に訴えかける戦略的抱負を示して、幹部チームを巻き込む②どこに探索と深化との緊張関係を持たせるかを明確に選定する③幹部チーム間の対立に向き合い、葛藤から学び、事業間のバランスを図る④『一貫して矛盾する』リーダーシップ行動を実践する⑤探索事業や深化事業についての議論や意思決定の実践に時間を割く」だと読み解いたうえで、戦略的刷新が適切かどうかの判断基準としては「①成長機会が限られた成熟期の戦略によって、大方の業績が決まっているか②自組織の戦略を移行できる製品、サービス、プロセスの機会があるか③中核市場の外部に機会(または脅威)はあるか④その機会は、自社の中核となる組織能力や関連するアイデンティティの脅威となるか」を挙げる。


そもそも、この考え方はVSRプロセス「多様化(variation)→選択(selection)→維持(retention)という生物進化学を応用した社会学の視点」を導入している点で、納得性が高い。


基本的に、かなり難解な本ではあるものの、読みごたえは十分。「転身と成功が可能だったのはひとえに、市場の変化に伴って自社の強みを活用する方法を見通せるリーダーが存在していたから」「『自社の顧客には何が必要か』から始まる戦略のほうがはるかに安定している。この問いかけをした後で、自社のスキルとのギャップを調べていくのだ」のあたりは、経営者でなくとも認識しておいたほうがよい点だと思う。