世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】小川和久「フテンマ戦記」

今年94冊目読了。軍事アナリストとして、歴代の内閣にアドバイスを送ってきた筆者が、普天間基地の返還が迷走し続ける本当の理由を回想録の形で書き起こした一冊。


久江雅彦「米軍再編」のブログを書いた際に、畏敬する先達からお薦めされたので読んでみたが、なるほど、これは理解が深まる。とともに、なんと愚かなことを続けてきたのか…と呆れるばかり。


そもそも、1995年の沖縄少女暴行事件から「沖縄県民の怒りの前に、その後、日米両国は沖縄の負担軽減の方策を探り、普天間基地の返還という解に辿り着く」も、「それを解決に向けて動かすことができずにすぎた日本は、外交・安全保障について、国際水準の能力を著しく欠いている姿を露呈してしまった」。
返還においては、「米国が返還に合意する条件は、第一に軍事的能力が低下しないこと、第二に沖縄県民の反米感情を刺激しないこと、の2点」であったが「返還合意の段階で、代替施設の軍事的合理性、つまり海兵隊の運用に支障があるかどうかといった点から詰めることを怠ったツケは、20年以上に及ぶ迷走という形で沖縄県民にのしかかることになる」


筆者の「移設はおろか、危険性の除去も、なにひとつ実現していないが、それは裏でうごめく人間の欲望のなせるわざ」という厳しい指摘は多方面に向けられる。「官僚や官僚OBを過大評価し、それに依存する体質の日本政治には、グランドデザインのために官僚機構を駆使する発想、能力ともに欠落していた」「英語を流暢に話すアマチュア(官僚、官僚出身者など)に問題解決を依存していたのが、普天間問題を迷走させた最大の原因」「自分たちの税金で維持されている自衛隊について、その実態を知ろうともせず、外側から『軍事組織だから危ない』と遠巻きにして吠えたてている。沖縄のマスコミには、民主主義を健全に機能させ、それを通じて自ら平和を勝ち取る姿勢が欠けている」「沖縄県と東京都の幹部職員に通底しているのは『琉球国のキャリア官僚』『東京国のキャリア官僚』であり、日本国と対等だという錯覚」「政治家は濁り水の中の目先の金を期待したい」「事務次官だった守屋氏が防衛専門商社トップとの蜜月ぶりを隠さずにいられたのは、競争相手がいないほど周囲の防衛官僚が小粒だったためだけではない。政治が官僚組織に対するコントロール能力を喪失し、チェック機能が働かなかったから」「辺野古案については、埋め立てに必要な砂利を扱う業者間で激しい競争が展開され、利権にまつわる様々なうわさが飛び交ってきた」などの魑魅魍魎が跋扈する中で「国益をかけて交渉できなかったのは日本の政治が外交能力を欠いていた結果」と厳しく断じる。
そこに出てきたのが、よりにもよって鳩山由紀夫。「これほど支離滅裂な思考の持ち主には、滅多にお目にかかることができない。私は、鳩山氏が日本国の首相の座にある間に、国家的危機が起きなかったことを神に感謝すべきかもしれないと思った」「鳩山氏には実現可能性が高いと思われる構想であれば、それだけで自動的に実現するかのように考える傾向があった。ことを決するのが自分自身のリーダーシップであることをまったく自覚せず、すべてが『あなた任せ』なのである」とは、傍から見ててもそうだが、近くで関わった人の弁、となると、本当にそうなんだろうな。


米国の立場も重視する。「日本は、戦略的根拠地としての在日米軍基地を提供し、米国にとって他の同盟国が代わることのできない死活的に重要な同盟国である」「自立不能の軍事組織である自衛隊に、米国が攻撃されたとき救援に駆け付ける能力が備わっていないことは、当の米国が最も理解している。だからこそ、日本には米国を守る義務が課されていないのだ。日本に期待されているのは、米本土と同じ位置づけの戦略的根拠地(パワープロジェクション・プラットホーム)である日本列島の機能を維持し、自衛隊で守ること」という米国の見方は、なるほどなぁと納得させられる。


教訓となるのは「相手が同盟国であろうとも、目的を達するまでエンドレスで闘い続けるのが世界に通用する先進国の外交である。それを相手は高く評価し、勝敗にかかわらず尊敬をもって接してくる」「受け取ったというレスポンスがあるか否かで、次の情報が入るかどうかが決まってくる」「日本外交は高度な通訳者を『強力な武器』として活用するべき」「熱い情念だけでは空回りに終わる。国家・社会を動かすには『くそリアリズム』というほどの冷徹さが必要になる」のあたり。これは、普遍であり、それを全て欠いたことが、今の混迷につながっている。


筆者の指摘どおり「沖縄米軍基地問題という日本の平和と安全に関するテーマが、いつの間にか『辺野古問題』にすり替わり、矮小化されてしまっている」ことが問題であり、「過ちを改めることこそ、政治が沖縄県民の信頼を回復する道」だと痛感する。この問題、シンプルなのに、利権屋どもがぐちゃぐちゃにしているあたり、新型コロナ対応とキッチリ相似形をなしている。「国家の存続に不可欠な歴史的記録さえ、先進国の水準で保存されていないことが明らかになった」も然り。情けない限りだ…そして、自分もそうだが、国民の不勉強が利権屋をのさばらせている、ということを理解する必要がある。

【読了】ジョージ・ボージャス「移民の政治経済学」

今年93冊目読了。キューバ生まれで米国に移住したハーバード・ケネディスクール教授の筆者が、移民が経済・そして国家に与える影響について一般的に語られていることについて果敢に挑戦していく一冊。


筆者自身が移民ということもあり、その主張には力が入っている。移民は経済にプラスになる、でも社会規範を毀損するのでマイナスになる、ということはよく言われるが「大規模な数の移民がある国から別の国に移住したときに、何が起こるかを機械的に予見できる魔法の公式は存在しない」とズバリ答えていることの裏付けを、データを用いながら語っていく。


まず、移民を考えるうえで「移民を単なる労働投入だと見なすことは彼らに対する誤った評価につながり、彼らの経済的影響に関する理解が不完全なものになる」という前提を述べる。確かに、単純な労働力では済まされない、というのはもっともだ。


簡単に移民といえど「多くの人は移住しないという選択を取る。これは移住コストがかなり高いことを示唆している。移住コストが経済利益を大幅に上回り、移住を望む人にも自国にとどまるよう促す」というのはなるほどよくわかる。それでも移民となるのは「平等守備的な所得分布の国(高技能労働者が良い生活を送っていない国)から高技能労働者を惹きつけ、所得格差の大きい国(低技能労働者が貧しい生活を送っている国)から低技能労働者を惹きつける」からだ。そして「移民は、移住先の国民がやりたがらない仕事をやるのではない。移住先の国民が『現行の賃金では』やりたがらない仕事をやるのだ」と指摘する。


また、実際に移住した移民が同化するかについては「一概には言えない。スキルの水準や民族グループの規模、一つの地域に集まる傾向などの要因に左右され、そうした要員が同化のプロセスを早めることもあれば遅らせることもある」「同化にはスキルの問題がある」「移民グループが一つの地域に集まると彼らの同化は進まない」との見解を示す。


では、移民はどのような影響を及ぼすのか。「移民の影響が大きいグループの収入は鈍化する」「低技能移民は税金を使う側になり、高技能移民は税収を増やす側になる」ということであり、「結局、移民とは政府の富の再分配政策の一種に過ぎない」と断言する。
なので、移民政策をどうするか、については「移民を受けて入れている国は一般的には、ある単純な理由から移民の受け入れを支持している。移民は自国民に利益をもたらすと思っているのだ。もしそうではなく、移民が自国民の生活を貧しくする存在だと思われているのであれば、開かれていたドアはすぐに閉ざされる」「結局、どういう移民政策を取るかは、『いったい、あなたは誰の肩を持つのか?』の答えに左右される」と結論付ける。


専門家である筆者が、自ら「移民のように政治的な論争の対象になる問題に対する専門家の意見には、懐疑的になるほうが賢明だ。細部が重要だということは大切な教訓だ。一つの前提条件や一つのデータ操作が異なる結果を生み出す」と述べて「我々は何が正しいかについて異なる価値観や認識を持ち、その多くは個人的な過去の経験や人生の羅針盤となるイデオロギーに基づいている」「自らのイデオロギーをはっきりと明かさない人はよく、経済モデルや統計分析の結果に過度に依存する。彼らは実際には、イデオロギーが背後にある政策目標を後押しするために、多くの対立する研究成果の中から自分に都合のいいものを選んでいる」と指摘する。これは重く受け止めなければいけないと感じる。


「過去の経験は今後数十年を見通すうえではほとんど役に立たず、それを根拠にバラ色の未来や迫りくる大惨事を予測すべきではない」は、本当にそのとおりだと思う。しかし、上記のようなことを考えると、日本は『移民に国を開放すべきか』という議論がなされることが多かったように感じる(コロナ禍で議論は止まっている)が、『高技能労働者をどう流出させないようにするか』という逆側の思考をすべきなことに気づく。本当にまずいよな、日本…考えさせられる。

【読了】高橋貞樹「被差別部落一千年史」

今年92冊目読了。戦前の社会主義活動で活躍した筆者が、1924年、なんと19歳で書き上げ、その後発禁となった一冊。


特段興味があるわけではなかったが、佐藤優の「お薦め書籍」の中に入っていたので図書館で借りてみた。


被差別という事象についての大きな流れとして「われらの歴史は、実に強者の鞭の下に脅かされる弱者の哀史である。奇怪惨酷なる圧抑と陰鬱悲惨極まりなき階級闘争─特殊部落一千年の歴史は、ただ兇猛なる力圧と果敢ない忍辱の歴史であった」「部落民一千年の区画は、まず種族的反感と宗教的感情からついに職業賤視をきたした第一期(戦国まで)と、法制上にも明白に賤視虐待された第二期(徳川の封建制下)と、完全なる社会的な迷信として存続する第三期(明治4年以降)とに分かれる」と概観する。


そのうえで、過去の経緯については「血の穢れを忌んだ古代では、各郷村の外れに共同の産小屋を設けて、そこで出産する風があった」「血の穢れを忌む古代にあっては、死骸が忌まれ、墓地が忌まれた」という流れがあるところに「仏教の齎せる肉食禁忌の風と共に、屠獣、皮革製造、助産等を司った賤民中の一部を賤視する風が生じ、不幸にも後代の特殊部落の起源をなすに至った」ことから「穢多は屠者で、屠者を旧く餌取といい、エタという名も『エトリ』の転訛だといわれている」。それが固定され「徳川一家の私的利益のため、民衆の利益は蹂躙されて顧みられず、人権の全く認められるなく、特殊部落民は無制限なる搾取と圧制の鉄鎖に堅く結ばれるに至った」と総括する。


そして、それは明治4年の解放令があっても「一片の法令は、古来の凝結した歴史的伝統を打ち破り得なかった。解放令は空文と化し去って、何らの効果をも及ぼさなかった。徳川政府が強いた厳格な階級政策の余弊はながく残った」。その結果「部落民が団結して事を企てるというのも、自らの生命を生かすがための非常手段にほかならぬ」とし「同情運動のすべては、言葉のみ美しい売名家の職業的また遊戯的同情であった。同情運動は、決定的にわれわれを現在の境遇より一歩も進出せしめないものである」「六千部落民三百万の同法に対する差別的待遇と不当の圧迫とは、全く故なきものである。もしも改善すべきものがあれば、それは部落民ではなくて、三百万同胞を不当に迫害している社会そのものである」と強く訴えかける。


被差別という観点からの「従来の歴史は支配階級の歴史である。真の社会史は、この歴史に対して、奴隷の歴史が編まれたときに明らかになる。すなわち、奴隷の歴史は同時に征服者の真の歴史を明らかにするからである」「いかなる国家も、征服に起源しないものはない。またいかなる原始国家も、峻厳なる階級制度に征服され掠奪された奴隷の存在をもって開巻せぬものはない。エジプトのピラミッドもメソポタミアの大円形劇場も、奈良の大仏も、悉くこれ奴隷血肉の結晶たらざるものはない」という歴史の見方は、確かに見過ごされがちである。しかし、それもまた歴史であり、視野を広く取ることの大事さを教えてくれる。


本書は大正末期に書かれたものであるが、「社会の外延としては近代的な真正資本主義の諸要素─議院政治、資本家的立法、国民皆兵主義という軍制の民衆化、大企業の勃興、都市の成長、無産労働階級の発達というがごとき諸現象を有する。が、その内包には、多くの徳川時代的特色が破壊されることなく、あるいはそのままで、あるいは変形して残存している」「その一面は中世アジアの風をなし、他の一面は近代資本主義の活力に満ちている」「日本には、立憲主義の不徹底が甚だしく、また支配階級は、自己に有利なる場合には敢えてこの徹底を図ろうとはせぬ。彼らは、生産の発達段階において、その要求に応ずるのみである」あたりの指摘は、元号が3つ変わって、ほぼ100年経過しようという2021年においても、(軍隊の部分を除き)全くそのまま適合してしまう、というところが恐ろしい。


差別意識の根強さ、日本という社会の現代性に関する歪さ。そういったものを感じ取るには、なかなか面白かった。文体が堅苦しくてちと疲れたが、読みごたえはあった。

【読了】三浦佳世「視覚心理学が明かす名画の秘密」

今年91冊目読了。九州大学大学院人間環境学研究院教授を経て九州大学名誉教授となった筆者が、実践心理学の成果を土台にして数々の名画を読み解いていく一冊。


もともと心理学系は好きで、かつ最近絵画系の美術にも興味が湧いてきたので、その交点ともいうべき本書は図書館でタイトルに惹かれて借りてみた。これは非常に面白かった。


筆者は、なぜこのような交点に気づいたのか。「画家と視覚研究者は対象を徹底して見ることで、しばしば共通するものを見つけることがある。画家は絵を描く中で視覚の秘密を発見し、視覚研究者は研究を通して、画家の見つけた秘密を共有する」という視点は、なるほど頷かされる。


光の影響について「フェルメールが穏やかな日常の生活を描くにあたって左上からの光を用いたのに対し、レンブラントは穏やかならざる非日常の場面を描くにあたって右上からの光を選んだのかもしれない」「日本の伝統からすれば、絵巻物が典型であるように、物語は常に、右から左に進む。もちろん、文字を右から左へと書き進める習慣による。一方、西洋では文字を左から右へと書き進めるため、絵もまた左から右へと詠まれることになる。光の位置もこの流れに沿うのが自然だろう」というのは納得だ。
「教室の外側に面した窓はいつも左側にあり、廊下側の窓は右にあった。左側からの光を取り込むことで、大半を占める右利きの子供にとって、ノートに影が落ちないための工夫だったのだろう」「人は利き手側の対象を肯定的に評価する傾向がある。利き手側の対象は流暢に処理することができるため、肯定的な判断につながると思われる」のあたりは、それに付帯する人間心理としても面白い。
そして、明暗に関しても「『眩しさ』を表す漢字は、目を偏に、玄(黒の意)を旁として表記する。目が『眩む(暗む)』という意味で、『眩』の字である。あたかも光で目が眩んだときの、暗さを表現しているように思える」「透明という印象は脳の中での推論によって生み出されている。透明感を産むには、交差する部分の明暗の関係が重要となる」も、興味深い。


錯視についての言及も興味深い。「絵を充足させると、人には描かれたものしか見えなくなる。足りないところがあると、そこに注意が向き、人の脳は『ないもの』を補い、その結果、形が現れる」「足りないからこそ、鑑賞者が補い、見えてくるものがある。自らの脳で能動的に補うから満足度も高まるのだろう」「人は色や明るさの向上性によって、その場の環境光を差し引いて知覚する。照明状況を解釈するための情報が十分にない場合、私たちの視覚系は最もありそうな条件を採用し、その際、条件設定が人によって違っている」などは、なるほどなぁと思う。


視野についての「『視野が狭い』という言い方がある。だが、私たちがくっきりと見ることのできる範囲はそもそも狭い。中心視の範囲は、視覚にして2、3度というから、60センチくらいの視距離では直径2、3センチの範囲にとどまる」「私たちが見ている世界は、西洋の風景画のように遠くの一点に収斂する整合性の取れた広い景色ではなく、重複や欠損を含んだ部分情報の寄せ集め」という指摘も見逃せない。


さらに、脳の機能として「脳はもともと、形を見る前に、色を感じ、動きを把握している」「脳は事象が意識に上るわずかなタイムラグの間に、眼や体から来た情報を統合し、私たちが理解できる物語につくり直し、その結果を私たちに示す」「私たちは特定の視点から物事を見がちである。しかも、それを『よい』と思い込みがちだ」ということを挙げる。


全体を通して筆者が伝えてくる「『事実』という言葉は英語ではファクト(fact)と言う。しかし、ファクトはフィクション(fiction)つまり虚構と語源を共通にする。どちらもラテン語で『つくる』を意味する言葉に端を発していて、ファクトは『つくられたもの』の複数形である。事実はつくられるもので、つくった者の数だけ存在する」「見ているものは眼前の世界ではなく、目から入った情報をもとに、自分の中の知識や記憶や感情、周りの状況などを総合して、脳で再構築した世界だ。関心がなければ、目の前にあっても気づかないことは多い。だから、眼の前に広がっている世界はつなぎ合わされたものである」ということは、さまざまな認知・思考の際にぜひとも留意しておきたいところだ。


絵画好きなら、非常に面白く読むことができるだろう。その意味で、一般受けがどうか?というところではあるが、個人的には楽しく読めた。

【読了】杣田佳穂「もっと知りたいバウハウス」

今年90冊目読了。ミサワバウハウスコレクション学芸員の筆者が、アート・ビギナーズ・コレクションの一冊として、ドイツ20世紀初頭の芸術・建築をけん引した特殊な学校「バウハウス」について、詳細に解き明かす本。


写真と図を使って、非常に詳細にバウハウスの概要と参画した人々、そして作品を紹介してくれている。もともと興味なんぞ欠片もなかったが、世界遺産検定を受ける中で「バウハウス」が世界遺産になっていることを知り、また最近美術方面にも少し興味が出てきたので、読んでみたら、なかなか理解が深まった。


で、そもそもバウハウスとは何だったのか。「バウハウスは、確かに学校だった。建築を最終目標に、諸芸術を統合しようとした。社会に積極的に関わり、工業のための原型をつくって社会を変えていく人材を養成しようとした。それだけではない。バウハウスは壮大な『試行』だった」「彼らがつくろうとしたのは、スタイルではなく、どうデザインするかというプロセスだった」というとおり、自由にチャレンジする学校、とでも言うべきもの。しかし、そこには超一流の芸術家や建築家たちが参画しており、とんでもない遠心力というエネルギーを持っていたことがうかがえる。故に、『こういうもの』と一言で定義するのはほぼ不可能と言ってもいいような多様な成果が表れている。正直、21世紀にこそ求められるようなものが、第二次大戦前にドイツで実現していたという事実に衝撃を受ける。


学長からして、ヴァルター・グロピウスハンネス・マイヤー、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエと実力派揃いのうえに、講師にもパウル・クレーワシリー・カンディンスキーなどの20世紀美術をけん引する錚々たるメンバー。これは凄い。


そもそも、学校というわりに「バウハウスは新しいデザインをめざした造形学校であり、教師も新しい教育方法の模索を求められた。伝統や慣習、既成概念を一度捨てて、ゼロから試行錯誤を始めなければならなかった。したがって、バウハウスではさまざまな実験が行われていた。失敗を恐れず、また、失敗から多くを学ぶことで、また一歩、目標に近づいたのである」という実験精神は、まさに21世紀にこそ必要なものではなかろうか。


そこから生まれた作品(建築含む)は、非常に斬新かつクール。特に、バウハウス‐チェスセットの造形の美しさには圧倒される。ナイトの造形など、よくもまぁ考えたものだ。今なおスイスのネフ社で製品化されているというのがよくわかるほど、21世紀でも遜色なく通用するようなデザインを生み出している。


異質がぶつかり合い、既存の概念を壊してとにかく実験する。その取り組みの成果を今に伝えるバウハウスのエネルギー、本質的な強さを感じさせる。これは興味深く読んだ。


…それにしても。このシリーズは、多分「沼」だ。あまりにもマニアックに深い内容であり、確かに面白いは面白いのだが、ズブズブとマニア世界に引き込まれそうな恐ろしい力があるような気がする…

【読了】藤井薫「働く喜び未来のかたち」

今年89冊目読了。リクナビNEXT編集長にして、デジタルハリウッド大学明星大学非常勤講師である筆者が、転職市場から「未来のはたらく」を見ようとする一冊。


働く、ということについて「人生の中の多くの時を注ぎ、大切な仲間と共に、大切な何かを成し遂げようとする毎日の『働く』が、あなたのイキイキや、仲間のハツラツや、職場のワクワクに、深いところで繋がって、『働く喜び』に満ち溢れていることは、とても大切なこと」として、働く喜びが生まれる3C構造「Clear:持ち味の自覚や、やりたいこと、自分軸の自覚。Choice:持ち味を生かせる、仕事・職場を選択。Communication:上司・同僚との密なコミュニケーション、期待がある」と整理する。


現代社会は、ビジネスに大きな変革を迫っているが、これについて「ヒトと機械とデータが融合する第四次産業革命。いま私たちは、『能力の刷新』『仕事の再定義』、そして『人間であることが何を意味するのか』に対する挑戦的なアイデアを問われる」「これからは、『知識資本』『関係資本』『信頼資本』『評判資本』『文化資本』そして5つの資本を貫く『共感資本』という目に見えない資本が重要になる」と予測する。「失われるのはタスクであり、仕事ではない」は確かにそうだと感じる。
現代社会が移行していくサービス経済の特徴については「無形性、同時同場性、新規性・中小企業性」「『モノ作り』から『コト作り』、そして『意味創り』へ」と述べる。これによりゲームのルールは、「いままでは工業経済主体、ヒト・モノ・カネが資源、富を生むのは規模と効率、活躍するのは計画を遵守する力。これからは、サービス経済主体、ヒト・データ・キカイが資源、富を生むのは妄想と創造、活躍するのは夢を形にする力(物語力)」に変化し、「【企業主導】【一中心】【束縛】から、【個人主導】【多中心】【紐帯】へ、遠心力と求心力をどう切り結ぶかが試されている」と整理する。


そんななかで、AIが発達していく中で「競争優位の源泉は、これからは『多様な環境下での生産性』『目に見えないユーザー体験価値』『データからの新たな知の発見』」「人間にしかできない事は、人生の一回性、選択の不可逆性。そのことに身体性を持って向き合う事」に価値がある、とする。
この身体性というのは、コロナ禍の分断の中では(その前に書かれているながら)非常に思うところ多い。「人の存在を認識するには、最低2つの感覚要素が表現されていればいい。声+体、見かけ+体、匂い+体、声+匂い。やはり、私たちの<存在>の認識には、身体は欠かせない」「VR・ARで空間的・時間的に離れていても、その時、その場で関わる本人にとっては、一回限りの有限の瞬間。有限な身体を持つ人間だからこそ、その身体をもって表現せざるを得ない。受け止める側も、相手の身体をまず認め、その身体をもって伝えられる表現を受け止めないと、相手を共感しづらい」「『会ったほうがいい』とは、畢竟、同じ<一回性>を共存している<運命共同性>を重視しているからではないか」は、考えさせられる。


「『体験を設計する』ことで、ユーザーを満足させ、ファンを増やしていく」という仕事の仕方はまさに新時代だと感じる。
三浦雄一郎との対談から「基本的に人類というのは、不可能なこと、不確定なことに挑戦しようとするのが進化の原点」「体制の中に入った人間は、不確定な、あるいはあやしいにおいのするものは好まない。しかし、ちょっとした変化なしでは、新しいものは何も生まれない」、福岡伸一との対談から「時間の軸をとると、要素の関係性は次々と変わっていく。人間はどうしても因果関係を直線的につなげて、ものを考える。ただ、その因果関係はまさに時間を留めた時、その瞬間に見えるもの。だからある時点で因果関係が見えたからといって、恒久的な原理かどうかはわからない」「生物は常に環境に適応してきたように見えるが、実はその都度、環境にいったん負けている。負けて死ぬのではなく、そこから敗走するのは新しい可能性を見つける1つのチャンス」のあたりは心に響く。


未来の働くを考えるうえで大事な人類の宝物は「①ネテオニー:何歳からでも新しい自分を拓く後天発展・自由自在性。②機会:人生の偶然の出会いを計画的に楽しむ好奇心・柔軟性。③共同幻想力:ホモ・サピエンスが持つ目に見えないものの想像・信頼・共生力」とする。不思議なことではあるが、「計画された偶発性は、以下の行動特性を持っている人に起こりやすい。①好奇心②持続性③柔軟性④楽観性⑤冒険心」と言われると、このへんを大事にしたくなるな…


転職を考えている人だけではなく、今、そしてこれからの働き方を考えるのに非常に参考になるので、仕事をしている人は一読をしておくとよい、と感じる良書だ。

【読了】ミハイル・ゴルバチョフ「変わりゆく世界の中で」

今年88冊目読了。ソ連の書記長としてペレストロイカ(改革)に着手し国内民主化を進め、ソ連初代大統領となりつつも権力の座を追われた筆者が、改革に取り組んだ日々と現在への憂いをまとめた一冊。


歴史には、様々な視点がある。特に、思惑が錯綜する現代史においては、その時点その時点では、なかなか「これが正解」とは評価しづらい。しかし、少なくとも、この本を読むと、ゴルバチョフの卓越した哲学は素晴らしい。が、それが失敗したのはなぜか、ということも含めて考えさせられる。


筆者を支えている「核兵器は<兵器の一種>でも<戦争遂行の手段>でもない。これはジェノサイド(集団的大虐殺)の兵器だ」「現代の兵器の特質は、軍事技術的な手段だけで自らを守れる望みはどんな国家にもない、という点にある。結局のところ、力の政策は失敗する。安全保障は何より、政治的手段で解決しなくてはならない課題だ」という哲学こそが、彼に平和への道を進ませ、そして皮肉にも自身の政治生命を断つことになったのだが、その世界観は極めて正しく、故に(皮肉にも)ロシア以外での絶大な人気を誇っているのだろう。


関係性の大事さについても「交渉することである。相手国が何を望んでいるのかをよく知ったうえで、自分にとっても相手側にとっても行き詰まった状況にならないように交渉を進めなければならない。そしてもうひとつ。交渉相手は我々より愚かだと考えてはならない」「お互いをよく知るほうが知らないよりまし。もし少ししか知らないと、必要な安定も信頼もなくなるだろうし、リスクの要素が生まれる」や「勝者や敗者についての会話はなしにしよう。そのような会話は我々を後戻りさせるだけだ」などと述べて、その卓越した人間観を示す。
「現代の人類を苦しめている問題を、以前使われて役に立った手段や方法で解決できると考えるのは、もはや愚かだろう」の国連演説は、恐らくアインシュタインの「問題を作ったときと同じレベルでは解決できない」が念頭にあったのだろう。


そんな彼が、なぜ失脚を余儀なくされたのか。もともと、ペレストロイカは「支配的なイデオロギーに根差したステレオタイプや原理を克服する必要があった。社会も党員の大部分も、民主的な考え方への新しい思考転換を苦労して受け入れた。多くの人にとって、それはほとんど自己否定に近い、許しがたい謀叛だった」「民主主義は善だけではなく、悪ももたらす。我々にとって極めて重要なのは、親切、慈悲、助け合いのような人類共通の永遠の真理、そして道徳を社会にしっかり根付かせることという厳しい認識の中で「私にはひとつ明らかだったことがある。民主主義の手法がどんなに困難でも、前に進み続けなければならないということ」という覚悟を持って進んだ。
しかし「我々は、民族同士の関係や、共和国の強い自立志向の問題に対応するのが贈れた。はっきり言えば、この問題の重要性と深刻さを過小評価していた」ことから、クーデターを惹起し、「クーデターは、主権国家間の新しい連邦関係を築くプロセスを断ち切り、国家だけでなく社会までも解体へとせき立てた」。


この敗退について、筆者は「起きたこと、起きていることの原因を理解しなくてはならない。単純化はしたくない。起きたことへの単純な説明などありえない。しかし、我々の連邦の崩壊から原因のリストアップを始めなければならない。そして、この出来事への反応やその結果について語る必要がある」とし、様々な検討をしたうえで「私がこの自著を記したのは、弁明やせっきょうのためではない。それは、時代の絆を保つためであり、過去と現在の間の対話を途絶えさせないためであり、過去の真実を知って将来への教訓を引き出すためである。変わりゆく世界の中で、これは我々すべてに必要なことなのだ」とまとめる姿は、深い知性と理念を感じさせ、見習わないと、と思わされる。


三者の評価として、訳者の「現状追認ではなく、理想とモラルと良識に立脚して世界を変えた先例がここにある」。解説の佐藤優氏の「ソ連という共産党独裁体制は、マルクス・レーニン主義という全体主義イデオロギーによって成り立っていた。このイデオロギーは全一的体系なので、そこに言論・表現の自由、民主的選挙による議会、市場競争という異質な価値観を部分的に導入することは不可能だった。この不可能の可能性に挑み、敗北していった理想主義者がゴルバチョフ氏なのだと思う。ただし、その敗北の過程で多くの善きものを同氏が残したことを過小評価してはなんらない」のあたりに語りつくされている。それだけ、この本は読む価値がある。


ちなみに、日本人についての記述も興味深い。ベーカー国務長官の「忘れないでください。あれ以上しつこい交渉相手はいません。彼らは何時間も自分の主張を繰り返し、言い張り、すでに言ったことにもどっていきます。相手が<長居して疲れる>のを、ただただ待っているのです」との弁に同意しているのだが、果たして、2021年の現在において、日本はそれだけタフな交渉ができているのだろうか?かなり劣化した下位変換されているようにしか感じない…