今年46冊目読了。奈良大学特別教授にして城郭考古学者と、健康科学大学特任教授にして歴史学者の筆者が、桶狭間合戦から大坂の陣まで、徳川家康がかかわった戦を読み解く一冊。
文庫本なのに400ページ越えという気合の入り方。そして、「城をつくった人々は、何らかの理由で危機感を感じたがゆえにそこに城を築いた。それらの謎解きこそ、戦国史研究の使命であり課題」「物質資料の研究からわかったこと、文字や絵図・地図資料からわかったことを、総合的に検討して歴史の真実に迫るのが城郭考古学」というコメントに、きょうじをかんじる。全十二章、非常に読み応えあった。
<桶狭間合戦と大高城>
「鳴海城、大高城に対する信長の付城の状況を整理すると、相対的に大高城の包囲が手薄であった。しかも当時の大高城は城の西側に海が迫っていて、港を押さえていた」「桶狭間合戦の時期に、大高城の本丸は幅約8m、深さ約6mのV字型の堀で守っていた。きわめて厳重な防衛であり、義元は城から見ても優れた武将であった」「城と地形の組み合わせでは、大高城と海の関係を重視すべき。実際に兵糧入れは海からで、家康は付城の牽制のために織田勢を拘束していたが、いつの間にか敵中突破にすり替わっている可能性も考えられる」「いろんな条件が重なって、信長の軍勢の動きが周辺の部隊から見えにくい状況のうえに、曇りになってさらに見えなくなってきた。そのうえ大雨が降ってきて視界がまったくきかなくなった。その状況をものともせずに信長たちは突撃してきた」
<今川攻めと徳川方の諸城>
「徳川方に完全に包囲された懸川城であったが、氏真と今川方の士気は高く、懸川城外でしばしば徳川軍を撃退している。懸川城は、まさに難攻不落ぶりを世間に示すこととなった」「家康が今川攻めに際し高天神城や馬伏塚城の確保を急いだのは、遠州灘から掛川に入る塩の道の上にあり、懸川城の海からの重要な補給路であったから」「浜名湖なくして遠江や浜松の繁栄はない」「付城をつくって城を落とすのは秀吉の得意戦法のようにいわれているが、それに遡る永禄12年(1569)、家康は付城をつくって攻めていた」
<見付城と浜松城>
「見付城は、西側に遠州灘に続く今之浦があり、水運の拠点で、東海道を南から見下ろし、さらに見付宿の都市としての繁栄を裾野に置いている。ところが家康の新本拠地に懸念を示したのが信長であった。見付は背後に天竜川を控えており、増水時に武田氏に攻められたら、織田氏は救援できないと考えた。家康は、この意見を容れ、完成間近であった見付城を放棄し、引馬城の大改造に着手する」「家康が拡張して浜松城とした丘の上の本丸は、詰丸、天守曲輪をもつ形になっていて、信長の城ととても似ている」「見付城は川で遠州灘とつながり、浜松城は浜名湖でつながっている」「家康は、信長にそれほど遅れることなく、城づくりの技術・石垣の技術を獲得していた」
<三方ヶ原合戦と徳川の諸城>
「一言坂合戦で勝利した信玄は、見付城の大改修を命じ、二俣城を落とした。この結果、家康の本拠地浜松城は、武田方に包囲される形勢となり、本国三河や同盟国織田氏とつながるために開いているのは、わずかに東海道と浜名湖水運のみという情勢になった」「信玄は武田水軍に出陣を命じ、遠州灘を制圧したうえで、三河湾に突入させ、田原に放火させていた」「信玄が三河へ抜けるという家康の予想は裏切られた。武田軍の向かう先は堀江城。そのとき家康は、信玄の狙いが浜名湖の水運の掌握であるとようやく察知する。これを押さえられたら、浜松城は干上がってしまう戦わずして、屈服に追い込まれることになる。堀江城を取られるのだけは阻止したい家康が信玄の罠にはまったのが三方ヶ原合戦の経緯」「しんげんのばあい、実戦の前に必勝パターンをつくって、軍勢を動かしていて、相手は動きの先を読まれて、手が打てない感じになっている」「家康にとって幸いしたのは、戦いが夕方に始まり、決着したのはほぼ暗くなったころで、夕闇に紛れて逃げることができた」
<長篠合戦と武田・徳川の城>
「長篠合戦は、鉄砲対騎馬の戦いだといわれてきたが、実際には南蛮貿易をバックボーンに、豊富な火薬と鉛弾を保持する連合軍と、織田氏の経済封鎖により畿内方面との貿易を制限され、火薬と鉛弾の欠乏に苦しむ武田軍という構図(ロジスティックスの格差)であり、これこそが勝負を分けた」「長篠合戦で敗れたとはいえ、家康にとって武田勝頼は単独で撃破できるほど簡単な相手ではなかった。家康の対武田戦の戦局が好転するのは、北条氏政との同盟と連携(天正7年、1579)が実現したからにほかならない」「長篠合戦も含めた奥三河をめぐる徳川氏と武田氏の争いは、実は鉱物や山林資源をめぐる争いと推測する」「信玄も謙信も、自分だけでできると思い、実際できてしまう。だから一部を後継者にまかせて訓練しようという意識がほぼ出てこない。うまく代替わりできたのは北条氏の五代ぐらい」「勝頼は急に当主を任され、困惑した。親の代から戦っていた徳川氏や織田氏から勝利を上げることこそが実績となり、いよいよ信長が長篠に現れたら、ここで決着つけてやる、となる。勝頼の敗戦は、そういう焦りからくる判断ミス」
<天正壬午の乱と徳川・北条の城>
「天正壬午の乱は、様々な禍根を残した。信濃で徳川方への従属を肯じない武士との戦乱、家康が北条氏と同盟を結んだことによる上杉氏との関係悪化、そして最大の問題が真田昌幸の処遇。これらは秀吉の天下統一が達成されるまで収まることはなかった」「北条氏が勝ちきれなかったのは初動ミス。上野を支配したのち、上杉氏を押し出して信濃を制圧しようとした。甲斐を制圧してから信濃、上野と進めばよかった」
<小牧・長久手合戦と徳川の諸城>
「小牧・長久手合戦とは、信雄が秀吉を打倒して『織田体制』を再編するか、秀吉が『織田体制』を名実ともに解体させ、新たな羽柴政権を樹立するかの岐路となった」「双方が外交戦略で各地の大名たちを味方につけようとするが、必ずしも信雄や家康に賛成が集まらない。西の毛利氏が秀吉に援軍を送ったのがかなり大きい」「小牧山城は、城の発展のセオリーに反して、石垣の城から土づくりの城へと変化した、全国的にも稀な変遷をたどった城」
<駿府城の考察>
「駿府城は戦国大名・今川氏の館跡につくられたが、今川館だった場所と現在の駿府城がどこまで重なるか、まだわかっていない」「政治の拠点として、城の軍事と政治の機能のバランスをどう取るかと模索する家康の出発点となったのが、慶長期の駿府城」「義元は家康をいじめていない。一門同等に扱い、最高の教育を施し、織田家の人質時代よりはかなり幸せ」「人は嫌な思い出のある場所に帰ってこない」
<江戸城と城下の整備>
「家康の江戸城は白漆喰塗籠の壁で、当時最も火災に強い外壁の仕様。美しさだけでなく、実用性が伴った」「江戸に入ったのは、秀吉に勧められたというより、家康自身の選択だったのでは。最近の研究では、天正18年、家康が入った時に江戸はそれなりの都市だったとされている」「利根川の問題と飲料水の問題を同時に解決する方策が家康のまちづくりの大きなポイント」「家康の江戸城は、西日本の信長流の城づくりを受け継いでいる一方、東国の城づくりの伝統も受け継いで、馬出しを巧みに縄張りの中に取り込んでいた。西と東のいいところを合わせた、城の天下統一」「江戸城を立派につくることと合わせて、城下町の街並みを古代宮都の格式を持ち、首都にふさわしい都市景観としようとしたのは、家康がすぐれたプランナーだったことを示す」
<家康が築いた近世城郭>
「家康の城づくりを概観すると、よいものを取り入れる柔軟性と決断力、無駄を省く堅実性が、家康を天下人にしたとわかる」「天下普請は江戸幕府が選択した当時最新の高度な技術を用いた。参加した大名家の間で技術が伝播し、全体的に近世城郭建築の技術の底上げと平準化、さらに城づくりの技術の伝承に大きな意義があった」
<関ヶ原合戦と徳川の城>
「航空レーザー測量からわかった、松尾山から決戦場に張り出した尾根上の駐屯段の存在は、小早川秀秋は最初から家康の軍に加わる意志を固めていたのを証明する判読結果」「急遽布陣したといわれている石田三成や宇喜多秀家など西軍方の主要な部隊がいた場所は、土木工事を伴った明瞭な陣の跡をみつけることができない」「東軍は関ヶ原の東側へアプローチするにも、もともと西軍方だった菩提山城があっては安心して通ることができない。城主の竹中氏は織田信秀に仕えており、犬山城の防衛隊の一人で関ヶ原合戦開戦当初は西軍だったが、犬山城が開城したときに家康に許され、決戦時には東軍に組している。菩提山城の南を進軍しても北側から側面を突かれるしんぱいはなく、家康は安心できた」「玉城は南北朝時代からあった城だが、松尾山城の本丸の三倍以上もあり、連続外枡形の存在は関ヶ原合戦時期の陣城」
<大坂の陣と両軍の城>
「大坂城の北側、西側、東側には低湿な地形が広がっていて、大軍が展開するのは難しかった。だから、南からのこうげきに備えるわけで、台地が続くところに真田丸がつくられた」「大坂城へと続く上町台地の半島状に突き出た先端が岡山で、攻撃に最もよい場所に徳川秀忠の本陣を置いた」「夏の陣は、古市古墳群岡ミサンザイ古墳周辺で戦っている。真田信繁たちは単純に大和街道を降りてきた徳川軍を野戦で迎え撃つのではなく、本来は古墳を臨時の城として利用し、数の多い徳川軍を撃退しようとした」
上記の他にも「実際に現地に足を運び、絵図や文書、縄張り図などを参考に推論したり、想像したりすると城のあり方や戦いの方法の理解が広がる」「本棚に並ぶ自治体史の史料編は、関心のない人にとっては、何の役に立つのか分かりにくい。しかしこうした地道な基礎研究があるから、新しい研究の視点が生まれ、人々の歴史認識は一歩真実に近づく。そして、より正しい史料や遺跡の評価にもとづいて地域の歴史遺産を適切に守り、活用する道も拓ける」というあたりが、本当に共感しかない。
あとがきの「一つひとつの合戦や城は、混沌とした時代を止揚して新たな社会をつくろうともがいた、戦国の人びとの決断と行動そのもの。情報をどのように把握・分析して行動するか、ひとつの決断や行為が、どのように波及して状況を変えていくか、合戦と城を詳しく読み解くことは、時空を超えていつの時代にも通じる、考え・決断する手掛かりになる」が、非常に重い。本当に、そのとおりだよな…