今年41冊目読了。三重大学名誉教授・教育学部特任教授の筆者が、戦巧者、築城名人の藤堂高虎を新しい角度から描く一冊。
いわゆる『司馬史観』で評価が低いせいで、難しい立ち位置の武将だが、築城にかけては天下一品。そんな名将を掘り下げている、ということで読んでみた。 筆者は、高虎を「戦時には一流の参謀であり戦巧者であることはもとより、平時には都市プランナー・行政官・外交官など実に多彩な顔をもつ、まさに幕府草創期を支えた異能の武将」と絶賛する。確かにそうだよな。
その出自が「父親虎高は、近江鯰江城主三井乗綱の次男」「年齢的に考えれば、幼少期の高虎は甲良荘出身の大工・甲良光広もしくはその子息氏広と出会い、甲良大工衆との関係は早くから築かれており、築城に際して彼らのサポートを受けていたと想像できる」「それにしても、有力在地領主出身の高虎が、幼少期から青年期にかけての一時史料をまったく欠くというのは謎というほかない。近隣の近江武士が浅井氏や六角氏の家臣や幕臣であったり、その後は秀吉や光秀などの織田家重臣に仕え、さらには秀吉の天下統一戦に巻き込まれて次々と主君を替えざるをえなかったことと関係するのだろうか」ということは、恥ずかしながら、寡聞にして承知せず…浅学を恥じるばかり。
なぜ、築城名人になったか。筆者は「秀長時代の高虎の築城においては、石垣普請は近江穴太衆が、作事は大和大工衆の中井家が担当した。後に小堀遠州が育ち、近江大工衆の甲良家が加わる。秀長死去後の高虎は、上方で築かれた秀長人脈を家康に橋渡ししていく。そして秀吉死去後は、秀長の位置を家康が占めることになる」「朝鮮出兵に際して、高虎は、文禄の役には大和豊臣家の重臣として、慶長の役には伊予板島城主すなわち豊臣大名の立場から参陣した」と読み解く。なるほどなぁ…
関ヶ原の戦いでは「家康は、福島正則ら大身の豊臣系大名たちの離反をもっとも懸念していたと思われる。故に彼らが西軍方大名と戦うまでは出陣するのを延期したのであり、腹心と言ってもよい高虎から情報を得るとともに、彼を通じて衆議をコントロールしていた」「小早川秀秋の内応に呼応した勢力が、松尾山の麓に陣を張っていた赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治ら近江出身の豊臣大名たちだった。高虎は、浅井氏家臣時代の人脈を終生大切にした。この戦いに臨んで、西軍に与した近江の大名たちへの内応工作を画策したのであるが、これが功を奏した」とは、ひとかどの武将を超えた活躍だ。歴史にもっと名を残してもよいのでは?と感じる。
築城にも辣腕を振るう。「高虎のプランした近世城郭(江戸城、伏見城、丹波篠山城、丹波亀山城、徳川大坂城)は、戦闘の際の司令塔である天守をシンボルとしつつも、執務空間である御殿を中心とする『役所』になった。高虎が普請した今治城が近世城郭の基本的構造を規定した」「高虎の城郭は、城下町と一体になって設計するところに特徴があった。城下町は、非常に幅の広い街路を何本か並行して直線的に通し、それに何本か直行させ格子状にして面的な広がりをもつ都市設計を行っている」は、城好きとしても納得。
その後、高虎は伊予から伊勢・伊賀に国替となる。「豊臣恩顧大名でありながら側近ともいえる高虎に伊賀を与えることは、大坂方を刺激することなく、しかも確実に徳川方勢力を上方方面に食い込ませるという家康の戦略に沿うものだ」「伊賀という山国は、周囲を山城・大和・近江・伊勢と接する要衝であり、七つの出入口がすべて難所となっており、畿内をうかがうには地勢的に申し分のない土地柄であった。高虎は、家康が豊臣政権を突き崩すために打ち込んだ『くさび』といってよい」 他方「伊予時代のように多数の城郭に重臣を配置していては、領国を防御する戦闘には即応できても、大名家中全体にわたる組織的な政治体制としての『藩』は成立しないし無駄が多すぎる。高虎は国替を画期として、藩体制を確立しようとし、伊勢領の津城と伊賀藩の上野城・名張城(後に陣屋に改修)だけに整理した」と、常に置かれた場所で一歩先を読むあたり、さすがと感じる。
かくて、「高虎は、関ヶ原の戦い以降、家康や秀忠と一層親密になった。それは、駿府や江戸の藩邸への御成を迎えたり、さらには大坂の陣において先鋒を務めたばかりか、軍議に参加したことなどからうかがわれる。幕閣並みといってよい扱いである」となった。 筆者の読み解く「日光東照宮の建設は、高虎にとって家康に対する最後の奉公になったが、同時に家康を幕府の守護神へと祭り上げ、新たな東国政権を盤石とするための大仕事でもあった」「高虎が家康に重用され続けたのは、なんといっても秀長重臣時代以来の抜群の信頼感によるものだったと思われる。家康も、高虎と秀長の関係を良好なものとみていたのだろう」は、まさにそうだな、と同感する。筆者の贔屓目なしにしても、もっと評価されるべき名将、ということを強く感じた。
その他、「戦国大名と近世大名(織豊大名・藩主)の最大の違いは教養」「古来、政治とは深く広い教養に支えられるものだった。諸大名が官職を得て公家となり、上方文化に接する中で、その伝統が復活したのである。漢詩や和歌、能や謡曲、茶道や華道に香道、天下人をはじめ諸大名は競って習得しようとしたし、すぐれた学者・能役者・茶人らを召し抱えた」のあたりも勉強になった。教養って、意外に身を助ける、というのは細川幽斎の『古今伝授』でも明確。武勇のようなリアルだけでなく、芸は身を助く、は真実なんだろうな。