世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】藤田達生「藤堂高虎」

今年41冊目読了。三重大学名誉教授・教育学部特任教授の筆者が、戦巧者、築城名人の藤堂高虎を新しい角度から描く一冊。

 

いわゆる『司馬史観』で評価が低いせいで、難しい立ち位置の武将だが、築城にかけては天下一品。そんな名将を掘り下げている、ということで読んでみた。 筆者は、高虎を「戦時には一流の参謀であり戦巧者であることはもとより、平時には都市プランナー・行政官・外交官など実に多彩な顔をもつ、まさに幕府草創期を支えた異能の武将」と絶賛する。確かにそうだよな。

 

その出自が「父親虎高は、近江鯰江城主三井乗綱の次男」「年齢的に考えれば、幼少期の高虎は甲良荘出身の大工・甲良光広もしくはその子息氏広と出会い、甲良大工衆との関係は早くから築かれており、築城に際して彼らのサポートを受けていたと想像できる」「それにしても、有力在地領主出身の高虎が、幼少期から青年期にかけての一時史料をまったく欠くというのは謎というほかない。近隣の近江武士が浅井氏や六角氏の家臣や幕臣であったり、その後は秀吉や光秀などの織田家重臣に仕え、さらには秀吉の天下統一戦に巻き込まれて次々と主君を替えざるをえなかったことと関係するのだろうか」ということは、恥ずかしながら、寡聞にして承知せず…浅学を恥じるばかり。

 

なぜ、築城名人になったか。筆者は「秀長時代の高虎の築城においては、石垣普請は近江穴太衆が、作事は大和大工衆の中井家が担当した。後に小堀遠州が育ち、近江大工衆の甲良家が加わる。秀長死去後の高虎は、上方で築かれた秀長人脈を家康に橋渡ししていく。そして秀吉死去後は、秀長の位置を家康が占めることになる」「朝鮮出兵に際して、高虎は、文禄の役には大和豊臣家の重臣として、慶長の役には伊予板島城主すなわち豊臣大名の立場から参陣した」と読み解く。なるほどなぁ…

 

関ヶ原の戦いでは「家康は、福島正則ら大身の豊臣系大名たちの離反をもっとも懸念していたと思われる。故に彼らが西軍方大名と戦うまでは出陣するのを延期したのであり、腹心と言ってもよい高虎から情報を得るとともに、彼を通じて衆議をコントロールしていた」「小早川秀秋の内応に呼応した勢力が、松尾山の麓に陣を張っていた赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治ら近江出身の豊臣大名たちだった。高虎は、浅井氏家臣時代の人脈を終生大切にした。この戦いに臨んで、西軍に与した近江の大名たちへの内応工作を画策したのであるが、これが功を奏した」とは、ひとかどの武将を超えた活躍だ。歴史にもっと名を残してもよいのでは?と感じる。

 

築城にも辣腕を振るう。「高虎のプランした近世城郭(江戸城、伏見城、丹波篠山城、丹波亀山城、徳川大坂城)は、戦闘の際の司令塔である天守をシンボルとしつつも、執務空間である御殿を中心とする『役所』になった。高虎が普請した今治城が近世城郭の基本的構造を規定した」「高虎の城郭は、城下町と一体になって設計するところに特徴があった。城下町は、非常に幅の広い街路を何本か並行して直線的に通し、それに何本か直行させ格子状にして面的な広がりをもつ都市設計を行っている」は、城好きとしても納得。

 

その後、高虎は伊予から伊勢・伊賀に国替となる。「豊臣恩顧大名でありながら側近ともいえる高虎に伊賀を与えることは、大坂方を刺激することなく、しかも確実に徳川方勢力を上方方面に食い込ませるという家康の戦略に沿うものだ」「伊賀という山国は、周囲を山城・大和・近江・伊勢と接する要衝であり、七つの出入口がすべて難所となっており、畿内をうかがうには地勢的に申し分のない土地柄であった。高虎は、家康が豊臣政権を突き崩すために打ち込んだ『くさび』といってよい」 他方「伊予時代のように多数の城郭に重臣を配置していては、領国を防御する戦闘には即応できても、大名家中全体にわたる組織的な政治体制としての『藩』は成立しないし無駄が多すぎる。高虎は国替を画期として、藩体制を確立しようとし、伊勢領の津城と伊賀藩の上野城・名張城(後に陣屋に改修)だけに整理した」と、常に置かれた場所で一歩先を読むあたり、さすがと感じる。

 

かくて、「高虎は、関ヶ原の戦い以降、家康や秀忠と一層親密になった。それは、駿府や江戸の藩邸への御成を迎えたり、さらには大坂の陣において先鋒を務めたばかりか、軍議に参加したことなどからうかがわれる。幕閣並みといってよい扱いである」となった。 筆者の読み解く「日光東照宮の建設は、高虎にとって家康に対する最後の奉公になったが、同時に家康を幕府の守護神へと祭り上げ、新たな東国政権を盤石とするための大仕事でもあった」「高虎が家康に重用され続けたのは、なんといっても秀長重臣時代以来の抜群の信頼感によるものだったと思われる。家康も、高虎と秀長の関係を良好なものとみていたのだろう」は、まさにそうだな、と同感する。筆者の贔屓目なしにしても、もっと評価されるべき名将、ということを強く感じた。

 

その他、「戦国大名と近世大名(織豊大名・藩主)の最大の違いは教養」「古来、政治とは深く広い教養に支えられるものだった。諸大名が官職を得て公家となり、上方文化に接する中で、その伝統が復活したのである。漢詩や和歌、能や謡曲、茶道や華道に香道、天下人をはじめ諸大名は競って習得しようとしたし、すぐれた学者・能役者・茶人らを召し抱えた」のあたりも勉強になった。教養って、意外に身を助ける、というのは細川幽斎の『古今伝授』でも明確。武勇のようなリアルだけでなく、芸は身を助く、は真実なんだろうな。

【読了】角田光代「方舟を燃やす」

今年40冊目読了。ベストセラー作家の筆者が、ある別々に生きている2人の人生を昭和から令和まで描くことで、人生への向き合い方を問いかけてくる一冊。

 

友人が薦めていたので読んでみたら、一気に引き込まれて読み切った。自分からは絶対に手にすることがないので、こういう出会いは本当に大事だ。

 

ネタバレ回避で、気になったフレーズを抜き書き。

 

「全員が死ぬということは、死後の世界はこの現実世界の反転でしかない」

「だれがどう言った、みんながやっている、そういう考えでなく、自分でしっかり考えて決めなさい」 「だれもが多少なりとも自分と似たような混乱と不安を感じていて、酔ったり集まったりすると、それが興奮となって噴出するらしい」

「本当はどう考えていたのかなんて、親子でもわかんないもんだよな」

「人生百年時代とか言うじゃない。私たちだってまだまだ若いんだから、子どもや孫は勝手にやってもらって、こっちはこっちで人生を謳歌していたほうが、子どもも安心みたいよ」

「信じる者だけ助けます、じゃなくて、信じない人といっしょに流されなさいっていう神様がいたとしたら、そっちを信じる」

「ずっと長いこと信じてきたことを、急には手放せない」

「以前だったら、情報をより多く集めて、そこから判断することも重要だったと思うんですけど、今hその情報自体にあやしいものが多いし、エコーチェンバー現象っていって、ある考えの人をフォローすると、同じ意見の人ばかりが集まってきて、それが真実だとしか思えなくなるんですよね」

「私たちは知らない。ただしいはずの真実が、覆ることもあれば、消えることも、にせものだと暴露されることもある。それだけではない、人のいのちを奪うことも、人に人のいのちを奪わせることも、あり得る」

「どんなに頭がよくたって、ただしいことが何かなんて、私たちにはわからないときがある。いいことをしようと思っていたって間違うこともある」

「もしかしたら、やり尽くしたのではなくて、やり尽くさなくていいと思うことができたのかもしれない。父がかつて言っていた『ひとさまの役に立つような立派な男』を目指さなくていいと、心から思えたのかもしれない」

「だれもが、このわけのわからない世界の解釈を試み、そこで日々生きることに意味を付加しようとし、いつだって予想不可能の未来の舵をとろうとする。何か、なんでもいいから何かを信じないと、何が起きるかまったくわからない今日をやり過ごすことができない」

【読了】ジェリ・クィンジオ「鉄道の食事の歴史物語」

今年39冊目読了。食の歴史を専門とするフードライターの筆者が、鉄道における食の黄金時代を紐解く一冊。 役に立つか?と言われると疑問符だが、ものには歴史がある、という観点では、なかなか面白い切り口だ。

 

そもそも、鉄道の食については「鉄道を建設する人々は当初、客の乗り心地や食事、また安全のことなど考えていなかった。彼らの頭のなかは機関車と線路のレール幅を合わせることでいっぱいだった。彼らが運ぼうとしていたのは貨物であって、人ではない」が起点。「初めのうちは乗車時間が短く、食事がなくても大丈夫だった。けれども次々に新しい路線ができて距離が伸びると、食事が問題になった。鉄道会社がとった解決策のひとつは、駅に休憩所を作ることだった。蒸気機関車は数百キロごとに止まって水を補給する必要があるため、それがもっとも合理的」というところから、20世紀になるころには「鉄道の旅はどこでもほぼ安全で快適になった。食堂車では一流のレストランや高級ホテルも顔負けの食事が提供された」。

 

そして、「イギリスの鉄道といえば品質だった。アメリカではなによりもまずスピードが優先された」中において、駅の食堂や車内の物売りの時代を経て、「1863年、フィラデルフィア・ウィルミントン・ボルティモア鉄道がごく初期の食堂車を導入した。車両の半分がシガールームにあてられ、残りの半分で、乗客がカウンターで食事をとれるようになっていた。食べ物はターミナル駅で用意され、蒸気室で保温された」。

 

本格的な食堂車は、「1868年にジョージ・M・プルマンが彼の最初の食堂車を『デルモニコ』と命名した時『これは高級レストランである』というシグナルを顧客に出した」「プルマンはそれを移動式ダイニングサロン兼レストランと呼んでいる」「食堂車が登場すると、専用のスタッフが必要になった。デルモニコでは、料理人2人とウェイター4人が1日に250食を提供していたが、やがてスタッフが12人を超えるようになった」。

 

ただ、この流れは「食堂車で地方の料理を味わうことができるという評判だったにもかかわらず、結局のところ、全米で食の均質化を進めてしまったのは鉄道だった。すばやく国中に食料を輸送することができる鉄道は、アメリカ国民の食卓から季節感と地産地消を消し去ってしまった」。

 

また、「鉄道会社が二の足を踏んでいたのは、食堂車は製造にも運行にも多額の費用がかかるためだった」が、「鉄道の所有者は、乗客、なかでも実業家が素晴らしい食事とサービスに感心すれば、自分の鉄道に信頼を置くようになり、貨物など別の取引をしてくれるだろうと考えていた。つまり、損失を宣伝代と看做した」流れの一方、「時が経つにつれて、ビュッフェカーの数は食堂車より多くなった。鉄道会社にとって、食堂車よりビュッフェカーのほうがスタッフの人数や維持費を抑えられるという利点があった」という折り合った形につながっていく。

 

ヨーロッパにおいては「オリエント急行は、名称さえもが正確ではなくなっている。ジョルジュ・ナゲルマケールスが1872年に興した会社はコンパニ・アンテルナシオナル・デ・ヴァゴン(ワゴン)・リ(国際寝台車会社)で、パリとコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を結ぶ列車はエクスプレス・ドリアンと呼ばれた」「ヨーロッパでは国ごとに異なる言語、異なる基準、異なる政治の駆け引きがある。いくつかの指導者は、鉄道は軍の資産であり、隣国や敵に回りそうな国が自国の車両を手に入れて使うことを快く思わなかった。むしろ、そうならないよう、汽車に国境を越えさせないことに関心を抱いていた」状況において、ナゲルマケールスは「各国の鉄道会社のトップを説得して協力してもらうため、王室をもてなして味方にした」。

 

19世紀末から20世紀には鉄道旅行がさかんになる。「鉄道会社は、目的地の景色だけでなく、車窓から見える道中の風景も載せたガイドブックを出した。異国情緒が漂う眺めの紹介、ホテルやレストランのリスト、地図付きで、次々に刊行される旅行本を手に入れることもできた。時刻表、ポスター、広告、宣伝のチラシは観光事業に拍車をかけ、鉄道会社を潤した」。

 

それは第一次世界大戦を経ても「次の大戦までの間に路線が拡大し、再び旅行が始まった」「ヨーロッパの豪華列車の旅は、スピーディに、さらに華々しくなって戻ってきた。1920年、世界でもっとも有名の列車のひとつであるフランスの優雅なル・トラン・ブルー(青列車)が運転を再開した」「1920年までに、多くの鉄道会社は子ども用のメニューを設けていた。鉄道会社の目線で見れば、子どもメニューは次世代の顧客を獲得するまたとないチャンスである」「当時の鉄道の競争相手は運賃は安いけれども食事サービスのないバスだったため、鉄道会社はレストランカーの品質と便利さを宣伝した」「経費を節約しつつ、ぜいたくなサービスを提供するという矛盾は、大戦間の鉄道の典型例だった」「サザン・パシフィック鉄道は6ヶ所に補給基地を持ち、そこに厨房設備と食品倉庫を置いて、少なくとも途中まで調理した」と、その黄金時代は続く。

 

第二次大戦となって「ヨーロッパでは戦争が鉄道を破壊した。1940年にフランスが降伏した時、ドイツ軍はオリエント急行を含むヨーロッパの鉄道を支配した」「アメリカでは、戦争によって貨物と旅客の利用が大幅に伸びて、アメリカの鉄道会社に利益をもたらした」という状況で、いったん豪華な食堂車を備えた鉄道の系譜は途絶える。

 

戦後は「アメリカの鉄道の多くは新型車を製造し、新しい食堂車を導入した。注目を集めて客を呼び込もうと果敢に挑んだもののほぼ的外れに終わった」「1950年代には、多くの鉄道が食事サービスを大幅に削減、あるいは完全に廃止してしまった。それ以上損失を抱えていけなくなったためだ」。例外はオリエント急行などの超豪華列車で、「新生ヴェニス・シンプロン・オリエント急行は、1982年5月25日に無事運行を開始した。それ以来運行を続け、また拡大して、豪華な旅と一流の食事を提供している」。 筆者は「鉄道に完璧は望めない。それは配偶者や子どもたちに完璧を望めないのとまさに同じ。列車には家族のごとく欠点もあれば個性もある。列車で旅をすれば、その欠点にもかかわらず、いや欠点があるからこそ、鉄道が好きになる。列車で旅をしてこそ鉄道が『好き』だといえるのだ」と結ぶ。

 

歴史をさまざまな切り口で概観する、というひとつのやり方として、なかなか興味深かった。役立つかといわれると、単なるトリビアでしかないのは間違いないが…

【読了】村中直人「『叱れば人は育つ』は幻想」

今年38冊目読了。臨床心理士にして、一般社団法人子ども・青少年育成支援協会代表理事の筆者が、「叱る」という行為のあり方を問い直す一冊。

畏敬する方がお薦めしてくれたので読んだ。これは本当に学びになる。そうなのか…と自分を恥じるばかり。

筆者は「叱る行為は、世間一般に信じられているよりもはるかに効果がない。また叱らずにはいられなくなる依存的な状況を引き起こす」と、その特性に言及。

そのうえで、叱るということについて「『叱る』という行為の本質は、叱られる人のネガティブは感情による反応を利用することで、相手を思い通りにコントロールしようとする行為」「自分が強く叱責することで、目の前の人の行動が変わる。それが単なる逃避行動でしかないことを知らなければ、『叱れば人は学ぶ』と勘違いする」「人間には『よくないことをした人を罰したい』という欲求が、脳のメカニズムとして備わっている」「正義をふりかざすとき、人はとくに攻撃的になりやすい」「『お前のために』と言う人は、実のところ『自分のため』に、自分の欲求を満たすために叱っている。」と分析する。

では、 叱ることの効用は何か。「叱ることの効果は『目の前の行動を変えられる』ことだけで、その後の行動を変えさせるような学びの効果はきわめて薄い」「怒られると、たしかにその後の行動が早くなるが、思考停止してしまう」「画一的な仕組みのなかで『やらされている感』の強い環境では、子どもたちの自発的に学ぼうとする意欲は育まれにくい」「管理されることが常態化した環境で育つと、子どもたちはどんどん『受け身』体質になっていく」は、なかなか絶望的…

ポイントとして、「大事なのは、主語を『叱る人』に戻すこと。相手にそうして欲しいのはあくまで自分であって、正義の欲求ではないことを引き受けなければならない」「叱らなければいけない状態が発生しないよう、事前に重要なメッセージを伝え、理解し、学んでもらうことが重要」「上達の原動力になるのは『もっとやりたい』気持ち」というのは確かにな… その前提に立てば「『叱られる』にしても『怒られる』にしても、受け手にとってネガティブな感情体験となり、心理的に圧迫感を受ける状況には変わりはない」「毅然と叱ることが正しい教育だと教えられた教員たちは、叱る以外の対処方法を知らない」「子供でも大人でも、人間って信頼できると思う人の言葉でなければ響かない」「相手が受容してくれないものは、いくら、繰り返してもダメ。アプローチを変えなければならない」となるのも必然と感じる。

なんとなく、厳しさ神話のようなものがあるが、筆者はそれを真っ向から否定。「苦痛にしても、修羅場にしても、一番大事なことは、激しいダメージを受けたとき、どうリカバリーするか、どうすれば再起のチャンスが得られるのかであって、苦痛や修羅場を味わうこと自体ではない」「人間って、望ましいものを学習するだけでなく、学んではいけないものも学んでしまう。パワハラが横行している組織にいると、好むと好まざるとにかかわらず学習してしまう。パワハラは個人の行動だが、結局は組織的課題」「『厳しさ』の本来的な意味は『妥協をしない』ことや『要求水準が高い』ことで、相手にネガティブな感情を与えなくても可能」「苦しみが成長につながるのはそれが他者から与えられたときではなく、報酬系回路がオンになる『冒険モード』において、主体的、自律的に苦しみを乗り越える時」の主張には、納得させられる。

では、どうすべきか。「フィードバックは『慣れ』で、『場数』が大事。経験知で磨かれていく。だから、フィードバックを学ぶ機会をなるべく早いうちにもっておく」「フィードバックのポイントは『現状通知』と『立て直しの支援』」「『すべてをわかっていなければならない症候群』は、自分を権力者側に固定しようとする心性とセットになっている。『本当にこの先どうなるかわからないよね、みんなで一緒に考えよう』と、情報を共有し、意見を交換し、知恵を絞っていく姿勢が求められている」「指導者は自分の経験則にとらわれず、そのときどきで『いい』といわれているやり方を学び続けて、アップデートしていかなければいけない」「『ほめるか、叱るか』にならないようにするには、『ニュートラルに反応する』」という提言は胸に刻みたい。

そのほか、心に残ったのは「相手を『コントロールしようとすること』と『価値観の共有』の差は①意思決定権を相手に委ねる②アイメッセージで話す」「起こりうることを高い精度で予測できれば、先手が打てる。つまり『前さばき』ができる」「文脈次第で人の能力の出方は変わる」「自分に合う『半径10メートル』の小さなコミュニティが一つでもあれば、人は生きづらさを感じにくくなる」「人は自分の苦しみを和らげてくれるものに、依存する。依存を引き起こすのは快楽ではなく、苦痛からの逃避である」のあたり。新書だが、実に深い中身を具備しており、ぜひ、一読をお薦めしたい。

【読了】土岐實光「電車を創る」

今年37冊目読了。東急車輛製造株式会社の専務取締役車両事業部長ののち、東急車輛技研株式会社代表取締役社長を務めた筆者が、自ら関わった1万輌の車両について、人間にスポットを当てた車両の技術史として書き著した一冊。

1994年の本ではあるものの、その面白さは2026年の現在においてもまったく色褪せない。 ソ連とのやり取りでは「氷点下40℃の体験のない人間が設計するのだから、よほど注意しなければならなかった」「それにしても、サハリンへの入国を絶対認めることはできず、クレームをうやむやにせざるを得なかった当時のソ連は不思議な国でもあった」が時代を感じる。

アメリカに関しては「ビジネスの方法としては、契約社会、合理主義、理詰めといったことが、日本のビジネスよりはっきりしている」「独創性については、日本よりはるかに優れていると感じた。反面、技術者の転職が多く、会社へのノウハウの蓄積が貧弱」と言及。

中国については「『買います、買います』というので資料をつくって送ると『来年こそは買うでしょう』と言う。かくて毎年買う話は先に伸び、われわれは、中国からの買付けの話は信用しなくなっていた」「中国のフェアの概念は、過去に長い期間、技術交流、人的交流を行い、先方に貢献した度合いが判断の基準になる」「円卓を囲んで日中友好のために乾杯と言っている間は、表面上なごやかだが、集団としてあるいは組織として付き合う場合は、困難に遭遇することがしばしばある。意思決定が極めて遅い上、個々の担当の意見は上部機関のポリシーに押さえられ、やはり上からの統制によって動くことが普通である」は、超大国になっても基本姿勢が変わっていない気がする…

「ひとつの鉄道を見ただけで、その国の鉄道レベルを推定してしまうことは危険」という筆者の、各国での車両開発逸話はどれも面白い。ペルーでは「日本と大きく違っているのは、空気は澄み、ほこりもなく、フィルタの掃除間隔は日本の5〜6倍でよいこと、気温も高くならないので、沸点さえ注意すれば冷却装置は心配いらない。逆に気圧が低いので、ディーゼル機関の調整に注意する必要があり、こう配が厳しいので、客車の場合、制輪子は3日しか持たない」。1960年代のアフリカは「ヨーロッパ諸国の植民地から独立し、新しい国づくりに取り組んでいた。多くの国の国鉄では、旧宗主国とは一線を画する政策がとられていた。したがって、日本からの鉄道車両の輸出も多く、1967年において、日本の鉄道車両の全輸出契約高の約半分はアフリカだった」。東パキスタンの大統領専用車に「『鳥かごをつけよ』と指定されていた。場所は台所付近を指定してきた。ようやくわかったのは、生きたニワトリを飼っておくためのかごだということだった。大統領がチキン料理を所望されたとき、そのニワトリの羽をむしって、料理に供するためだったのだ」。サウジアラビアでは「客車の3分の1くらいは板敷きになっていて何もない。先方は『プレイルーム』だと言う。私はてっきりピンポン台を置いて『プレイ』するのだと思ってしまった。よくよくたずねてみると、お祈りをするためにあけておく場所だったのだ」。フィリピンでは「外装は黄色と緑の塗り分けで、フィリピン国鉄側の指定色だった。納入セレモニーにはイメルダ夫人が出席したが、この色を見て、気に入らないから塗り直せということになった。そして、イメルダ夫人の意向に沿って、白地に紺の帯を巻いた色に全車両を塗り替えた」。モザンビークでは「荷物車に、犬小屋を設けることが指定されていた。犬小屋の隣には、やや広い土間があり、簡易ベッドなども用意する。これは狩猟用だったのである。猟犬用の部屋と、獲物を入れる土間、そして狩りをする人たちのベッドというわけである」など、驚くことばかり。

筆者の技術者としての矜持も素晴らしい。1本ハンドル運転台については「私は、かねてから主幹制御器とブレーキ弁がそれぞれ運転席の左右に垂直に立っており、これを垂直軸の回りに回すのは、運転士が立って運転していた明治時代の路面電車の名残であり、いすに腰掛ける時代には時代遅れだと思っていた」。デザインについては、車両メーカーがデザイン事務所の参入で気づいたこととして「問題点は、断面形状と外観全体とのトータルなデザインがなされていなかったこと、屋根上のデザインがまったく考慮されていなかったこと」と反省しつつも「電車の寿命は30年ある。あまりに個性的な、デザイナーのひとりよがりのデザインにはしると、最初は新鮮で注目されるかもしれないが、数年経つと飽きがくるのではないか。デザインのためのデザインにしてほしくない」とプライドを見せる。「企業は競争によって品質も向上し、価格も適正になるのだから、独占でないほうが望ましい」は、自負の際たるものと感じた。

かなり専門的ではあるが、どの話も実に面白かった。最後に筆者が「4フィート8インチ半という寸法が標準軌だということを知っているが、なぜこの中途半端な数値が標準軌になったのだろう。古代ローマの皇帝が使った戦車の車輪間の幅なのだそうである。最初、イギリスで鉄道が建設された時、とくに根拠もなく、古代ローマの大通りにあったわだちの幅にしたがって線路を敷設した。これが標準軌になったのだという。こんなこともこれまで私は知らなかった。これからもいろいろなことを知りたい。その意味でも、回想の中に埋没することはしまいと心に誓っている」と述べているのも頭が下がる…マニアックではあるが、本当に読んでよかった一冊。

【読了】イアン・ゲートリー「通勤の社会史」

今年36冊目読了。イギリスのジャーナリスト、ライターである筆者が、毎日5億人が通勤する理由を考察する一冊。

 

新聞で見た推薦図書だが、これは読んでみると意外な発見が多くて面白い。

 

筆者は、通勤の意義を「通勤とは二重生活をすることだ。私たちは、家では恋人や親や反逆児になれるが、仕事場では効率を何よりも重視する人間となり、公平で冷静で理性的であるよう求められる。職場への移動は『他者と顔を合わせるための準備の時間』を提供し、生まれた土地に縛られたり、都会の罠に捕らわれたりしないための手段を与えてくれる」「通勤は人を意欲的にし、住む場所の自由、働く場所の自由、よりよい生活をする自由をもたらした」「通勤する理由は①よりよい職を得るため②よりよい家に住むため③毎日出かけたいという自然な、または習慣的な行動であるため」と定義する。

 

イギリスの通勤黎明期には「職場と住まいを分けることは、衛生的な懸念が重要な問題だった」「健康的に暮らし、かつ効率的に働きたいという欲求は、十九世紀が進むにつれてますます強まっていった」が狙いだった、としつつ「時間の正確さは、初期の通勤者が特にこだわった」「乗客は会話をしたがらなかった。沈黙の作法はたちまち通勤者のあいだに広まった」「望まない会話を防ぐ最良の手段は書物と新聞だった」という変化が生まれた、と分析する。

 

他方、アメリカではだいぶ流れが異なる。「アメリカ人が通勤を始めたのは、過剰な税金を払わないようにするためでもあった。都市の住民税は高いが、その外に出れば税額はかなり下がった」「イギリス人は沈黙を選んだが、アメリカ人はしゃべるほうを選んだ」「人々が自動車通勤を選んだいちばんの決め手は、自動車が与えてくれる自由な感覚だった」「自動車所有者の急増は、市街地の馬にまつわる問題を解決し、駐車場経営者を豊かにしただけでなく、免許取得料やガソリン税などにより、州に重要な収入源をもたらした」は、なるほど納得だ。

 

共産主義での通勤に関する「西側諸国が通勤を人類の進歩に不可欠な営みであると考え、さまざまな手段や形態を模索していったのとは対照的に、共産主義諸国は通勤には懐疑的で、第二次世界大戦以前も、戦後の数十年間も、ほとんどそのための整備が行われなかった」「そもそもソ連では、通勤から連想されるような移動の自由は奨励されていなかった。工場は原野に建てられ、その周辺に高層住宅が用意され、そこから労働者を職場まで運ぶ専用の輸送システムが整備された」「共産主義者はどこの国でも、移動の自由と、とりわけ通勤を忌み嫌ったようだ。毛沢東時代の中華人民共和国でもこのふたつは許されず、通勤も二輪車での移動に限られていた」という分析も面白い。

他方「民主主義国家では、二輪車や公共交通機関を利用した通勤から自動車通勤へ移行する流れだが、この過程がすでに完了している先進国では反対の傾向が現れ始め、自動車から自転車へと逆戻りしつつある」というのもそのとおり。

 

渋滞と怒りの関係についての考察「渋滞は苦痛であるだけでなく、無駄も多い。燃料と自動車の劣化で毎年数千億ドルが無駄になり、交通事故の人的被害と金額的損失も計上すれば、損失金額はさらに跳ね上がる」「人間は車輪付きの乗り物に乗ると特別な怒りに駆られる」「渋滞で怒りを引き出すのはストレスだけでない。人間にとって、他人に背を向けるしぐさは拒絶を表しており、そのしぐさをされた者は侮辱を感じる。誰かが後ろについてくるという状況もまた、原始的な怒りを呼び覚ます」も、体感にピッタリ一致する。 今後の通勤に対する考察も面白い。

 

テレワークに関する「そもそも通勤を不要にするための技術に大きく貢献したIT産業では、いまはむしろ物理的通勤に重きを置いている」「テレコミューティングは身体的・社会的接触は不要だと想定しているのだが、人がそれらを必要としていることはDNAに刻み込まれている。従業員も雇用する企業側も、理由や思惑はどうあれ、実際に顔を合わせる時間を欲している」「データセンターが今後も加速度的に大量の電力消費を続け、非効率な自然エネルギーの利用を強いられるとしたら、自宅で仕事をしてビデオ会議をするよりも、職場へ通勤して顔を合わせながら仕事をするほうが、エネルギー消費の観点からも効率的になる日が近いのかもしれない」の言及は確かにそうだよな。

 

さらに、 自動運転への「自動運転の真の可能性を最大限に追求するのを阻むのは、人間の恐怖心なのかもしれない」「電力消費の懸念もある。自動運転車を走行させるには、データセンターで大量の電力が消費されるだろうが、ガソリン自動車を電動自動車に置き換えても、発電のためにより多くの燃料を燃やさなければならなくなるかもしれない」という洞察も納得だ。

 

最終的な結論「『時間を守る放浪欲求』とも表現できる通勤という行為は、どうやら今後もなくなりそうにない。そのために地球上に物理的限界まで人類が増える機会を先送りすることになろうとも、通勤はなくならないのだろう」も、案外そうなのかもしれないな…

 

その他、海外から見た日本の通勤に関するイメージも興味深い。「日本人にとって、ラッシュアワーは、進歩や超混雑や色欲のほか、死とも結びつく。日本に古くからある自殺は、電車の時刻どおりの運行によって存続している一面もある。いわゆる『人身事故』は鉄道会社の悩みの種である」「ロード・レージ(運転中の攻撃性)を表す言葉すら存在しない国が日本である。日本の自動車通勤車は運転にも禅を実践しているかのようだ。運転手たちは互いに挨拶を交わそうとし、交差点では相手に道を譲り、譲られたほうはハザードランプで感謝の合図を送る」「日本では子供時代から青年期、職業人生の終わりまでの約60年間、ずっと公共交通機関を利用し続ける。通勤の習慣は幼少期から植え付けられる」は、ああ、そう見られているのね…と思わずにはいられない。

 

実践的かどうかは別として、なかなか面白く読めた。

【読了】中原淳「学びをやめない生き方入門」

今年35冊目読了。立教大学経営学部教授の筆者が、学びへの指南書を目指して書いた一冊。

 

元々、中原淳先生の著書は非常に洞察が深く、かつわかりやすく整理されているのでありがたいのだが、さらにSNSで畏敬する先達が進めていたので読んでみたら、なるほどこれは良書だ。

 

筆者は「日本の大人は、世界的に見てもかなり学んでいない。それどころか、働く大人の『学び離れ=学びからの逃避』が加速している」という状況において、筆者は「学びには『めんどくさい…』という負の感情が付きものであることをいったん認めたうえで『それでも学ぶには、どんな方法があるだろうか?』を考えていきたい」としつつ、時代背景として「私たちが学べなくなっているのは、学びのOS①『学びとはどのようなものなのか?』という『学びに対するものの見方』②『実際にどのように学べばいいのか?』という『学びの方法』、の2要素が時代に合わなくなっている結果にすぎない」と言及する。

 

学びをめぐる7つのバイアスを「①新人バイアス:学びは若い人・新人のもの②学校バイアス:学ぶなら学校や教育機関で③現場バイアス:座学はムダ、経験こそがすべて④地頭バイアス:知能がないと学べない⑤自信の欠如バイアス:自分は学びに向いていない⑥現状維持バイアス:いまのままで十分⑦タイパバイアス:できるだけ効率よく学ぶべき」と分析し「『バイアスに気づくこと』こそが、バイアス解消の最も有効な方法」と助言する。

 

さらに、日本人の学びが抱える大きな課題として「周囲に気づかれないようコソコソ勉強する『学びの秘匿化』」を指摘。その原因を「①独学信仰:学びは一人で行うものという意識②タイパバイアス:手っ取り早く『正解』だけを学びたいという意識③無関心予期:周囲が関心を示さなそう④裏切り者予期:『自分だけ転職や異動を考えている』と思われそう」だと考察する。

職場での罠「職場における『環境』と『上司』の2要因が、働く人の学びバイアスに大きな影響を与えている」「職場でバイアスを強めるのは①長時間労働習慣②異動の多さ③職務のあいまいさ④とにかく行動主義⑤業績必達主義」は、耳が痛いところ…

 

筆者は、望ましい学び行動を「①その学びが、本人の『幸せ』に寄与するか②その学びが、本人の『活躍』に寄与するか」と定義。その学びに共通する行動として「①共習する:周囲を巻き込みながら学ぶ②ゆるく続ける:無理なくコツコツ学ぶ③ミーハーする:新しいものにあえて飛びつく④逆境する:困難や失敗から学ぶ⑤学び結ぶ:学び同士を橋渡しする」と分析する。

 

さらに、学び続けるためには意志ではなく習慣化が必要とし、意志力に頼らず学び続ける状態にするために「①ルーティン化する:学びを日常の流れに組み込む②目標を立てるだけで満足せず、障害を取り除く③人を頼る:学びを支えてくれる環境をつくる」と提唱しつつ「迷ったら、必ず、試すと最初から決めてしまう」と述べる。

 

さらに、「学んだ知識を実践と結びつける姿勢が不可欠」として経験学習のサイクル「①具体的経験②内省的観察:経験を振り返り、意味を考える③抽象的概念化:経験を一般化し、ほかでも活用できる知識にする④能動的実験:新しく得た知識を、実際の仕事や生活のなかで試す」を回して学びを自分のなかに定着させる必要性を訴える。

 

具体的な学びの突破口は「①お出かけ経験:ふだんの生活や日々の仕事から一歩踏み出す②見渡し経験:目の前の景色だけでなく、全体を俯瞰して見る経験③のめり込み経験:単なる情報を超えた、リアリティや身体感覚を伴う経験」とし「3つの経験に基づいた『思考の広さ』は、『学びのバイアス』を弱め、自分の思い込みに気づき、そこから自由になるきっかけを与えてくれる」とする。

●お出かけ経験→「①『いつもの場所』から離れる:空間的なお出かけ②『いつものメンバー』から離れる:人間関係のお出かけ③『いつもの学び』から離れる:学習環境のお出かけ」

●見渡し経験→「①『自分』から離れる:価値観の見渡し②『目先』から離れる:時間の見渡し③『強み』から離れる:学びの見渡し」

●のめり込み経験→「①『画面』から離れる:『身体感覚』を伴うのめり込み②『まったり』から離れる:『集合的沸騰』を伴うのめり込み」

 

筆者は、最終的に「大切なのは、学べているかどうかではない。『すでに学んでいる自分』を発見できるかどうか」とまとめる。

 

その他にも「学びの成果は『地頭のよさ』よりも『習慣』に左右される」「学ばない上司のもとでは、学ばない部下が育つ」など、自分としては言い訳のしようがない厳しい記述が並ぶ。 ぜひ、一読をお薦めしたい良書だ。