世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】梅棹忠夫「京都の精神」

今年39冊目読了。京都生まれ京都育ち、国立民族博物館初代館長にして京都大学名誉教授の筆者が、京都人の常識や本音を忌憚なく語る一冊。


よくもまぁここまで京都中心主義!と圧倒されるような中身。「京都人は気位が高い」のも、この書を読むと(是非はともかく)宜なるかな、と感じる。


筆者は、京都の独自性として「日本にはめずらしいことだが、京都のひとの心のなかには、ぬきがたい中華思想がひそんでいる。中華思想というのは、文字どおり、自己の文化を基準にして世界をかんがえるという発想である」「京都市民は、ここが日本の中心である、日本文化の本物は全部ここにある、ほかのものは二級品とかんがえてきた。その意識をささえるのは、1000年にわたる歴史のすべての文化がここを中心に展開してきたというその事実」「日本は世界文明に対する同化をいちじるしくすすめつつ、そのなかでもっとも異質的部分を京都に温存していた。これが京都のもっている大きな意味」「今日の日本のアイデンティティーをあたえているのは、科学でも、技術でも、産業でもない。価値の体系の具現化としての京都である」と滔々と述べる。その姿勢には圧倒される…
さらに、京都の都市としての特徴についても「京都は、奈良や鎌倉のような観光産業主体であとはなにもないという都市とはちがい、現代的な商工業都市」「京都は文化的特性をいかして、ちかい将来、実現するであろう文化の時代、情報の時代にむけて、京都の近代化、未来化にとりくむべき」「観光ではくえないが、文化ではくえる」「京都が文化都市であるためには、まず京都は文明都市でなければならない。システムとして、人間・装置・制度・組織系としの京都でなければだめだ」と、そこここに周囲を低く見る様子がまざまざと感じられる。


京都が観光都市(と、筆者は認めていないが)ということにからめて、観光についてなかなか意義深い言及をしている。
「日本全国における景観の破壊を観光開発と称している」「だれが破壊するのかといえば、けっきょく大衆が破壊する。観光というものは、大衆化すればするほど破壊がおこりやすい。同時にこれは、もちろん観光業者の責任でもある。長期にわたる経営の感覚が欠如している」「観光産業は一大総合産業であるべき。さまざまな要素があつまって、全体がひとつのシステムをくまなければならない」「観光とは、お客の立場からいえば、『体験情報』を買っている。体験に対して代価をはらう。だから、それに対する正当な代価はとってよろしい」「観光産業をなりたたせる基本条件は、非日常体験。そういう意味で観光ということは、本質的には日常からの逃避。かんたんにいえば、文明からの脱出。日常の緊張した生活から脱出して、どこかほっとゆるんだものをもとめてきている。ある意味で、現代からの逃避である。空間的にいえば、都市文明の喧噪から脱出してくる。時間的にいえば、現代という時代から脱出して、べつな時代へとうつる。だから、中世あるいは古代の遺跡や旧跡というものが意味をもってくる」のあたりは、たしかに賛同できる。
とはいえ、滋賀県の観光についても「近江というところは、膨大な歴史的遺産をもっている。しかも、山もうつくしく、湖もうつくしい。うつくしい自然をたっぷりともっている。この歴史的資産とうつくしい自然を結合して、いささか演出をやれば、独自のすばらしい土地になってゆくのではないか」と、やはり見下し感満載。


とはいえ、冷静な部分も。都市の特性について「政治首都としての江戸、経済首都としての大阪、文化首都としての京都。この三都の鼎立状況は十七世紀からはじまっている」「都市というものは物資の生産や交易よりも、情報交換ということが先行している」のあたりは納得。


最後に京都についての独自の解釈項目があるのだが、これもまた強烈。「京都のひとには、依然として帝都意識がある。市内の中学、高校の校歌をしらべれば、『王城の地』ということばがしばしばみつかる。京都は王城の地であり、比叡山は王城の守護」「京都の川はすべて北から南へながれている。鴨川はもちろんのこと、堀川、紙屋川、白川、みんななだらかな京都盆地を北から南へくだり、淀川へながれこむ。だから京都では川のながれをみただけで方角が分かる」「京都は古都ではないという意識が京都人にはある。京都は近代都市なのだ。じじつ、中世以来の一大商工業都市でもある」「京都は山陰・北陸とのつながりがふかい。北陸からきた物資は琵琶湖の北で船につみ、まっすぐ琵琶湖を南下して、大津から荷車で京都へはこびこんだ。京都の町家の奉公人たちには近江、若狭や丹波のひとがひじょうにたくさんいた。京都と大阪ではひとの出身地からしてちがうのだ(大阪は大阪湾沿岸、瀬戸内のほうからやってくる)。京阪というかたちでいっしょにかんがえたら、まちがう」「大文字は『やく』ものではない。大文字は『ともす』もの、京ことばでいえば『とぼす』ものなのだ。灯をともすように、夜空にむけてともすのである」「京都の祭はいなかの祭とはことなり、収穫をいわったりする祭ではなく、国家安泰、あるいは都の安寧、疫病はらいといった性格をもった祭礼なのだ。そこに、うかれて祭の輪にくわわるという雰囲気がないのは当然」と、どれもこれも中華思想がぜんめんに
哲学の小径に対しても「ヨーロッパの地方都市の地名に、京都をなぞらえるというかんがえは、おおよそ京都のひとにはない。銀座さえ拒否したように、よそはよそ、京都は京都というのが、この都市のやりかた」と、切り捨てる。


余談ながら「京都とカトマンドゥとカブール、この三都市がヒッピーのたまり場になった。それによって一躍世界に名をなした」は初めて知った。そうだったんだ…