世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】松本創「軌道」

今年71冊目読了。神戸新聞記者を経てフリーランスのライターとなった筆者が、福知山線脱線事故の被害者となった人物が、JR西日本を変えた闘いに挑む様子を詳細に描き出す一冊。


ちょうどこの事故のときに大阪にいたこともあり、未だに記憶は生々しい。そして、被害者という立場から、その枠をのりこえて原因究明に全力を尽くす人物の精神力、使命感がひしひしと伝わってくる良書。


JR西日本の幹部の言葉・態度に対する被害者の気持ちは厳しい。「『誠心誠意の謝罪』『100%当社に責任がある』と口では言いながら、その実、被害者に与えた損失や苦しみや窮状を一つも理解しようとせず、自社の論理や組織防衛ばかりを優先する」「一言でいえば、彼らには事故を起こした当事者という意識がない」と断じ「後々になってJR西の幹部と一対一で会って話してみたら、意外と話せる人やったりもする。でも組織になると全然だめ。話しにならない。組織防衛なんでしょうけど、その意識が強すぎて、自分たちが加害者であることがまったくわかっていない対応。態度や言葉の端々から、傲慢さ、隠蔽体質、事故を解明する気もないことがにじみ出ていた」と、個人より組織の問題に目を向ける。


事故後に、緊急リリーフ的に社長になった山崎正夫は技術者であり、被害者と同じコンテクストでモノが語れる人物という位置づけに見られる。「僕の信条は現場主義と、もう一つは『率先垂範』なんだ。社長が現場の仕事を知らなくてどうする」という姿勢は、確かに素晴らしい。しかし、そんな彼も、異常時の人事がゆえに「信頼できるナンバー2を置かなかったのが失敗」と認める流れで退任を余儀なくされる。しかし、その後も真摯に向き合う姿勢は、リーダーシップとして学ぶべきところ大だ。


この事故については、国鉄改革の立役者であり、JR西日本の中興の祖である井手正敬のワンマンぶりが引き起こしたという見方も強いが、筆者は「井手個人を断罪して事足れりとするのも、また違うのではないか。トップや幹部が悪いせいでこうなったと問題を単純化するのは、会社側が運転士個人のミスに帰そうとする姿勢の裏返しに過ぎない。組織の中の個々人が自分の責任を棚上げし、誰かに押し付けて断罪する、その『切断処理』こそが、組織全体を無責任体質にしたのではないか」「複雑な問題を単純化し、責任を一か所に押し付ける思考が、事故調査にも伏流している」と異論を唱える。これは至当だろうなぁと感じるし、また組織にいる人間としては、規模は全く違うものの、自身のことを振り返って考えるべきだと思う。


そして、組織の陥りがちな罠という観点からすると「結局、経営幹部は現場の実感を知らない。データだけ見て、中央値がどうだ、数秒遅れだから問題なしとか言っている。でも、実際の現場には『マルにする』という隠語があるように、小さなミスを見逃して、報告を挙げないことだって日常的にある」「専門化・細分化が進み、ブラックボックス化する作業手順。現場を知らないために見過ごしてしまう経営陣。この現場と経営陣の分断は、80年代後半のバブル景気前後に原点があるという声も聞く。利益と経営効率ばかり追求し、バブル崩壊後は人員やコストの削減に走るあまり、日本の企業全体で安全や品質という『倫理』が軽視され、おろそかになった」のあたりは重い警句だ。


それにしても、この問題に立ち向かった被害者の方の精神の強さには頭が下がる。「表面的な言葉で、形式上の責任は認めて謝罪するものの、ホンネではさっさと金を払って解決したい企業側と、金の問題より前に、真に誠意ある謝罪、事故原因の究明と再発防止への取り組みを求める遺族の対立」の中で「無責任な哀れみの視線を向けられたくない、家族が犠牲になった事故を『たまたま起きた不幸なできごと』で終わらせたくない、社会全体の問題ととらえ、考えてほしい」とフレーミングして「いくら意見や立場が対立しても、対話のチャンネルを閉ざしてはならない。粘り強く交渉の席に着き、相手を見極める。そして味方を作り、合意点を探る」「最初はものすごく高い、一枚岩の壁に見えていた。組織を守ることだけを考えている相手に、まったく取りつく島がなかった。でも、壁を押したり突いたりしているうちに、決して一枚岩ではないことがわかってきた。人によって答えが違ったり、見解が共有されていないこともあった。それで僕は、話せる相手がどこにいるか、見極めようと思った。遺族対企業ではなく、お互い名前のある個人として向き合える相手をね」という取り組みは、生半可なものではない。


ミスということについて「ヒューマンエラーはシステムの中で働く人間が、システムの要求に応えられないときに起こるものなのだから、対策は設備を含めたシステム全体で考えるべき」「JR西は、確かに変わろうとしている。そのための投資や組織づくり、取り組みもさまざま行ってはいる。だが、それが成功するかどうか、カギを握るのは結局、現場を支える『人』、つまりはヒューマンファクターということになる」という総括は、本当にそうだなぁと感じる。


重たい中身ではあるものの、お涙頂戴のような流れはなく、真摯に向き合うという姿勢でものごとに挑むという姿勢に胸を打たれる。

【読了】ジョン・アール・ヘインズ、ハーヴェイ・クレア「ヴェノナ」

今年70冊目読了。元アメリカ議会図書館史料部研究員と、エモリー大学名誉教授の二人が、解読されたソ連の暗号とスパイ活動をつまびらかにした「ヴェノナ文書(1940年~44年のソ連の暗号をアメリカとイギリスの情報機関が解読したもの)」を読み解き、その脅威を切実に訴えかける一冊。


山内智恵子「ミトロヒン文書」を読んで興味が出て、手に取ってみた。しかし、この本はその重厚さ、記述の稠密さが半端ない(そのぶん、かなり読み疲れる)。監修した中西輝政氏の注目の4つのポイント「①暗号解読に対するアメリカなど主要国の国家的執念②ソ連暗号通信から明らかになった事実の驚くような中身③なぜ冷戦がはじまったのか、という大問題④重大な世界史的秘密が長期間隠されてきたことの驚き」に網羅されるといえる。


あまりにもボリュームが多すぎて、ストレートにはまとめようもないが、ソ連のスパイ攻勢は凄まじいものがあり「科学技術情報については、商業的に価値のある産業機密の持ち出しから、アメリカでもっとも厳しく護られていた軍事科学機密である原爆情報への浸透にまでわたる」「スパイのもたらした情報のおかげで、ソ連当局は原爆開発を成功させるのに必要な膨大な予算と工業投資を節約しつつ、しかも本来よりもうんと早く核兵器の製造に到達することができた」などを見ると、確かに『米ソ』と並び称されるようになったのは、ソ連が『諜報戦略において』出し抜いただけであり、共産主義が優れているわけではなかった、というのが明確に理解できる。そして「冷戦という出来事は第二次世界大戦後に始まったものではなく、それよりもずっと以前にスターリンによって秘密裏に開始されていたアメリカに対する大規模な秘密戦の企てによって起こったものだ」という指摘は、この本を読めばしみじみ理解できる。


それにしても、なんでこんなに易々とスパイに活動されてしまったのか。筆者は「アメリカ政府が第二次世界大戦の勃発に際し、いくつもの急ごしらえの省庁を新設して、多数の人間を新たに連邦政府職員として雇い入れねばならなくなり、そのために通常の公務員採用では求められるはずの身元調査をせずに、ほとんどフリーパスで大量採用を行ったことにあった」とする。その結果「事実上すべての主要なアメリカ政府機関において、中堅以下の多くの文民と軍人らがソ連諜報機関に情報を提供していた」という酷い状況に陥ってしまったのだ。


そして、その状況に付け込み「第二次大戦中のソ連の対米スパイ攻勢の規模の大きさとその成功は、1930年代のアメリ共産党による地ならしと支援によるところが大であった」とし、「アメリ共産党の最大の目標は、政治活動を通して共産主義大義ソ連国益を推進すること。他方、実際には、米ソ冷戦の時代に、合衆国の内部で、そして合衆国に敵対する形でソ連側として活動していた」「政府組織内のスパイたちは、ソビエトのための仕事を情報収集だけに限定しなかった。合衆国に提出する多数の報告書は共産党の利益と一致するように歪められた」などの暗躍を見るにつけ、マッカーシーの「赤狩り」は(冤罪はあったにせよ)防諜ということに対してユルユルだった戦後アメリカ世論を引き締める効果はあったんだろうな、そしてそれは正しかったんだな、と感じさせられる。


ところが、実際にはソ連のスパイや情報源になった者には3つの類型があったとする。「①ルーズベルト政権の下でニューディール政策が始まったとき、連邦政府で働くためにワシントンにやってきた、理想主義に燃えた多くの優秀な若者②スペイン内戦帰りのアメリカの若者③献身的なアメリ共産党員」がそれであり「アメリカでは政府高官や公務員だけでなく、知識人、ジャーナリストといった階層の人々が、いかに外国の秘密工作に弱いかがわかる。そこには、イデオロギーというものに呪縛されやすい、というかれれの特殊性とともに、容易に人間関係の網の目に取り込まれてゆく、という特有の脆弱性」がある、という指摘は興味深い。


コロナ禍に苦しむ2021年においても、「スターリンによるスパイ攻勢は、アメリカの秘密を入手したにとどまらず、アメリカの政府職員同士の相互信頼をも損なった」「そしてこの疑惑の広がりが、政党間の駆け引きに利用されるようになるのは避けられなかった」という恐怖は凄まじいものがある。そして、防諜という点においてすこぶる脆弱な日本国において、隣に赤い「とんでもない共産主義の巨大国家」がある以上、今この瞬間にもそのような工作が行われていることは否定できない(というか、多分されている)。決して、これは過去ではない。重く受け止める必要がある本だが、とにかく詳しすぎて長い
!!読んでいて、疲労困憊した。

【読了】石弘之「感染症の世界史」

今年69冊目読了。朝日新聞編集委員から国連環境計画上級顧問、東京大学大学院教授などを経て、英国ロイヤルソサイエティ会員になった筆者が、人類と病気の果てしない戦いを書き記した一冊。


2014年に書かれた本だが、2021年、コロナ禍に苦しむ中で読んでみると、だいたい予言されていたんじゃん!!と思うくらいに「感染症」についてしっかり書かれていて驚く。そして、いざ自分の身に降りかからないと真面目に考えない、という人間の罠に自分もすっぽり嵌まり込んでいたんだな、と痛感する。コロナ禍がなければ、まぁまぁ手にすることすらなかった本だろうからなぁ。


そもそも、なぜ病気になるとこんなに苦しいのか。「病気の不快な症状と忌み嫌っているものの多くが、実は進化の途上で身につけた体の防御反応であり警戒信号。『発熱』は微生物を熱死させるか患者が衰弱死するかの我慢比べ。『せき』『吐き気』『下痢』は病原体を大概に排出する生理的反応、『痛み』『不安』は病気の危険信号」と言われると、なるほど納得だ。そして、ウィルスが凶悪化するのは「動物から人間に飛び移ったとき」「免疫力が低下しているときやストレスでホルモンバランスが崩れているときなどにウィルスが感染すると、そのまま居着いてしまう」と指摘する。


人間が感染症に苦しむようになったのは、定住社会の発達にあるとしたうえで「各世紀にはそれぞれの時代を背景にして、世界的に流行した感染症があった。13世紀のハンセン症、14世紀のペスト、16世紀の梅毒、17~18世紀の天然痘、19世紀のコレラ結核、20~21世紀のインフルエンザとエイズ」を挙げる。よもやまさか、この6年後に21世紀の感染症としてCOVID-19が出てくるとは…
そして、大流行については「過密社会の存在を抜きには考えられない」「移動手段が、徒歩、馬、帆船、汽船、鉄道、自動車、飛行機と発達するのについれて、これまでにない速度と規模で人と物が移動できるようになり、便乗した病原体も短時間で遠距離を運ばれる。しかも、人類は都市で密集して暮らすようになり、感染する側には絶好の条件が整った」と述べている点は、まさに2021年を生きていると痛感せざるを得ない。しかも、その生活スタイルを変えるのは非常に困難…。


そして、21世紀のコロナ禍で押さえるべきは「感染症の歴史のなかで最大の悲劇になったのは、20世紀初期の第一次世界大戦の末期に発生した『スペイン風邪』」。これは、インフルエンザのA・B・C型のうちA型であり「その後パンデミックを起こしたウィルスは、すべてこのタイプ」という記述を見ると、何とかならんかったかなぁ…と思う。
その念がさらに強くなるのは「今後の人類と感染症の戦いを予想するうえで、もっとも激戦が予想されるのがお隣の中国と、人類発祥地で多くの感染症の生まれ故郷でもあるアフリカであろう。いずれも、公衆衛生上の深刻な問題を抱えている」「特に、中国はこれまでも、何度となく世界を巻き込んだパンデミック震源地になってきた。過去3回発生したペストの世界的流行も、繰り返し世界を巻き込んできた新型インフルエンザも、近年急速に進歩をとげた遺伝子の分析から中国が期限とみられる」という筆者の予測。まさにドンズバで正解じゃないか!2020年、武漢ウィルスの情報を真面目にとらえず、春節の観光客を受け入れ続けた安倍政権の愚かさを感じずにはいられない。すでに、予測されていたのだから!!


感染経路についても「20世紀前半の集団発生は、学校や軍がその温床になったが、21世紀後半は高齢者施設がそれに取って代わるだろう」「国連などの予想では、世界的な高齢化で『非衛生な環境に住まざるをえない』『医師にかかれない』『栄養が十分とれない』『看病するものがいない』といった貧しい高齢者層が厚くなっていく。高齢者は外出が減って孤立しがちになり、他人から免疫を受け取るチャンスも少なくなる。発病しやすくなり、発病すれば重い症状に陥りやすい」と、これまたCOVID-19そのままである。緊急事態宣言とか幾度も繰り返す愚かな対応よりも、この本を読んで考えろ、と言いたくなる。


WHOとテドロスは今回のコロナ禍でまるで信用ならんなぁ、と思っているが「エボラ出血熱の時、国境なき医師団が2014年3月末の時点で世界に向けて警告したのに対し、WHOは8月に入ってやっと非常事態宣言をした。これは、2009年の新型インフルエンザの流行で、WHOは警戒レベルを最高の『フェーズ6』を宣言した時のトラウマと疑われても仕方ない。このときは、結果的に弱毒性のインフルエンザで大流行にはならず、WHOの判断ミスが俎上にのぼった」という記述をみると、判断ミスにはそれなりの経緯があるんだな、と感じる。また、ワクチン開発の遅れについても「実は、このとき非常事態宣言を受けて、各国が大手製薬会社のワクチンを競って輸入したが、多くがむだに終わった。日本は2500万回分を320億円で輸入したが、最終的に1600万回分が廃棄処分にされ、800万回分は90億円の違約金を払って解約した」ということを知ると、人間は体験という記憶の罠から逃れられない、ということを痛感する。


すべての人が一読する価値がある。感染症というものが猛威を振るった時の凄まじさは、2021年を生きているすべての人が痛感しているのだから。

【読了】中藤玲「安いニッポン」

今年68冊目読了。愛媛新聞社から日経新聞社に転職し、食品、電機、自動車、通信業界やM&A、働き方などを担当してきた筆者が、「価格」が示す停滞について斬り込む一冊。


失われた30年とはよく言われるが、こうして諸外国との比較でまざまざと見せつけられると、非常に衝撃が強い内容だ。


日本の現状について「今の日本は『我慢して貯める』か『じり貧で使う』しかなくなってしまっている。『失われた30年』とまで言われるほど日本が立ち止まっていた間に、世界はどんどん成長し、日本のポジションも大きく変わってしまったのだ」と警告。それを引き起こしたのは「足元で企業の賃下げが鈍り、働く人の消費意欲が高まらず、物価低迷が続いて景気も盛り上がらない『負の循環』が、日本の購買力を落ち込ませた」ことによるとし、実際にビッグマックやディズニーランド、ダイソーの価格で「いずれも日本が最安」という事実によって「この購買力の落ち込みは、もはや凋落」と述べる。
物価が安いのはよいことでは?という疑問に対しては「『安さ』は生活者から見ると『生活しやすい』が、供給者の観点では収益が上がらない。すると賃金は据え置かれ、消費が動かず需要が増えない悪循環に陥る」「果たしてこれで、世界の秩序をガラリと変えるようなイノベーションが生まれるだろうか。個々の企業にとっては最適解でも、『安さ』はまさしく、日本の停滞と結びついているのだ」と、その罠の危なさを明かす。


では、なぜここまで安く売るのが当たり前になってしまったのか。その理由は「①日本は解雇規則が厳しくて従業員を解雇できないので、日本企業は『従業員の人件費を確保する』ことが第一目標になりがちで、そのため製品の価格を下げてでも、売上高の絶対額を確保しようとする②同質競争気質で、品質や性能、領域のユニークさで競うことができず、安さで勝負をする傾向がある」ことから「値下げでもなく『据え置き』というまさに日本流のデフレが確立してしまった」ことにある、とする。
他方、賃金については「①労働生産性が停滞している②多様な賃金交渉のメカニズムがない」、労働者が賃金について声を上げられないのは「①正社員は新卒で入社すると、企業の賃金制度に乗ってほぼ横並びで待遇が決まっている②雇用が流動化していないため、他社に比べて自分の賃金がどうなのか分からない」とし、「日本の生産性が低いという理由の一つは、日本の価格付けの『安さ』にある」「豊かさを語る時、賃金は避けて通れない。企業が発展しても賃金が低いと個人が幸せになれない。個人が幸せにならないいと企業は行き詰まる」と、安さと賃金の両輪が罠に嵌まっていることを明らかにする。


今まさに起こっている事態として「海外資本が入ってきた町では、安いニッポンに慣れている日本人にとっては高いけれど、その価格は世界標準なのだとも言える」「今後の競争力の源泉とも言えるIT人材が日本で圧倒的に不足する」「町工場などを運営する多くの中小企業が、続々とアジア国籍になっている」「インバウンドバブルによって、海外からの富裕層を相手にしたホテルや食事が高級路線をひた走ると、国内での『二重価格』が珍しくなくなる」などを実例を挙げて指摘。空恐ろしくなるとともに、暗澹たる気持ちになる。


安さによって「①個人が余裕をもって広い世界を見ることができなくなる②人材の流出が懸念される③人材が育たなくなる④その結果、将来国際的に活躍できる人材はどんどん少数になっていく」という要素は、日本の成長力を根本的にそいでしまう。ではどうすべきか。筆者は「突き詰めると結局は、おのおのがそれぞれの現場でもう一歩を踏み出せるのか、ということに行きつく。例えば終身雇用をやめて、年功序列ではなく成果に応じた給与体系になる事を、自分たちは受け入れられるのか。こういった私たち個人にとって身近なテーマから、解雇規則をどう見直すかという政治の決断まで、それぞれが選択を問われているのかもしれない」と述べる。システム的な問題であるが故に、誰が犯人でもなく、みんなで高い視座に立って考え、変化を受け入れる必要がある。これは難しいが、まずはこの現状と向き合うことから、だな。


21年3月に出版された本で、まさに現在の日本の「世界の中での位置」を今一度認識するのにいい本だ。衝撃が強いが、読むべき一冊と感じる。

【読了】パオロ・マッツァリーノ「エラい人にはウソがある」

今年67冊目読了。イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作家の筆者が、孔子の実像に迫りつつ、論語好きの孔子知らずを痛烈に皮肉る一冊。


これだけのモノがイタリア人の手によって織りなされたことも驚くが、そもそもイメージとして持っている孔子像をブチ壊される、なかなか痛快な一冊だ。確かに、後知恵的なところは多いだろうからなぁ。


孔子の実像について「なにも結果を残せなかったダメおじさんが、死後に伝説を捏造され、偉人・聖人としてまつりあげられ、儒教関係者たちに都合よく利用されてしまった」「世間の人から見限られた負け犬だったけど、ダメっぷりが人間くさくてどこか憎めないし、若い弟子たちと気軽に話す気さくさもあった。決してあきらめない打たれ強さを持ってるし、徹底した非暴力平和主義者だった。弟子たちは、そんなダメな孔子を慕っていたのではなかろうか」「孔子の職業を現代風に的確に表現するなら『葬祭ディレクター』もしくは『宮廷マナーコンサルタント』とすべき」と斬り込み「自分の才能を買いかぶりすぎて、頑張れば王になれるとカン違いしたダメな人。しかし、史上まれにみるあきらめの悪さで最後まで希望を捨てず、ダメっぷりとカン違いを貫き通した男」と断じる。


論語が経営者や教育者に尊ばれている現状については「本来、孔子は敗者のアイドルであり、『論語』は敗者のバイブルだった。『論語』で仕事ができるだの、『論語』が道徳教育にいいだのと公言している連中は、誤解にもとづいて捏造された偉大なる孔子像をあがめているだけ」とし、あがめる裏の狙いを「社会的地位のある人が、自分個人の考えや倫理観を正当化するために孔子の言葉を都合よく切り取って引用しているケースが実に多い」と見抜く。「むろん、倫理観は個人の生き方には影響を与えるものなので、べつに『論語』を読むなとはいわない。でも、『論語』でビジネスがうまくいくだとか、『論語』で会社の人間関係がうまくいくなんて、夢にも思わないほうがいい」と述べつつ「孔子を偉人として盲信する連中と、孔子の思想は教育やビジネスに有効だとうそぶきながら、じつは自分自身の考えを他人に押し付けようとするだけの卑怯な連中が大嫌い」とバッサリ切り捨てる。


論語といえば、21年のNHK大河ドラマの主役にして新一万円札の肖像である渋沢栄一。筆者は、彼についても「明治末の『論語』ブームを支えていたのは、老人たちのノスタルジー。故きをたずねるのは、新しいものを受け入れられない古い人たちばかり」と時代背景を押さえてから「渋沢は、70歳近くなって現役を退くころから、『論語』の話をするようになった」ことから、「渋沢は、世間に『論語』ブームが巻き起こったとき、自らの来歴を振り返り、そうだ、私が理想としていた商業倫理は論語の精神とよく似ているではないか。私の行動は『論語』に基づいていたにちがいない、とさかのぼって当てはめた」と推論する。確かに「人間は、先に信念や鉄がを思いついて、それに基づいて行動をしたりしない。先に行動があり、それが成功をおさめると、あとからもっともらしい理屈をつけて、成功には理由があったかのように自慢したがる。それが人間の業」という筆者の指摘は至当と感じる。
渋沢栄一が数々のビジネスを成功させたのは、『論語』とはまったく関係ない。彼に類い稀なる天賦の商才があったのと、彼が仕事熱心な努力家だったから」「まちがいなくいいひとだった渋沢栄一の生涯において、『論語』に傾倒したことは、最大の汚点といってもいい」には、失礼ながら笑ってしまった。


ここまでこき下ろしておきながらも、筆者は孔子には別の価値がある、とする。「私も含め、大半の人間は立派じゃない。ダメな人。ダメな日が立派な人のマネをしてもうまくいきっこない。ダメの大先輩である孔子からなら、いい面も悪い面も学ぶべきところはたくさんある」「本当は弱い人間である孔子が、大きな理想と野望を追って、いいわけや強がりで自分を大きく見せている。『論語』は人間の弱さと悲哀をつづった書として読めば、とてもおもしろい書物である」という見方はなかなか斬新だし、そこに流れている「人間は基本的に欠点だらけの存在。ひとつでも光る長所があれば、それでじゅうぶん賞賛に値する、それが人間というもの」という哲学は、とても共感できる。


余談だが「意外かもしれないが、本来の大和魂とは、思慮分別のある行動をとれる精神のことだった。平安時代の人たちは現実的。人間にとって大切なのは、知恵を使って生き残ること。大義や正義なんてくだらないロマンのために命を守るなげうって戦うのは愚かな行為として蔑まれた」なんて、全く知らんかった…


かえって、新しい視点で論語を読みたくなる。そんな不思議な魅力あふれる一冊。いや、これは楽しめた。

【読了】三谷宏治「一瞬で大切なことを伝える技術」

今年66冊目読了。金沢工業大学虎ノ門大学院教授、早稲田大学ビジネススクール客員教授グロービス経営大学院客員教授を務める筆者が、「論理的な人になれる世界一シンプルな思考法」を提案する一冊。


筆者は、ロジカルシンキングの重要性は認めつつも、それが複雑すぎて使いきれないということに問題意識を持ち「『重要思考』=『重み』と『差』」というシンプルな公式ですべてを語りつくそうとする。これは、無駄な手法論ではなく、シンプルに本質を突いていると感じる。


そもそも、「ヒトの思考回路はかなり曖昧かつ非理性的。実は『意識的、理性的に考えてモノゴトを決める!』なんて1日に何回もない」ので「言葉そのものが、曖昧。つながりが原因なのか結果なのか相関なのかが曖昧。何が前提で何が結論なのか、曖昧。一番ダイジなコト、が曖昧」というコミュニケーションに陥ってしまう。


そんな中で、ロジカルの超基本として「塊」と「つながり」であるとして「塊をはっきりさせるには、程度と範囲に注意。つながりをはっきりさせるには、向きと太さに注意」と留意点を述べ、「そのコトがダイジかどうかはその付加価値やコストでの『重み』でハカれる」とする。
その重要思考の実践方法として「何か策を思いついたら、すぐもう一度『重み』はどれくらいか、よりダイジなことのために役立っているかを考えよう」と提唱するが、これは相当トレーニングが必要だろうな…ただ、手法がシンプルなので、その点は取り組みやすそうだ。


よく悩んでしまう自分にとっては「悩みは感情で、脳の作用の一つ。思考が堂々巡りをして前に進まなくなっていることを、脳が私たちに教えている(たぶん)。そしてそれが危険で無益であることを伝えるために、悩みはこんなにツラい感情の形をしているのだろう。でもそれが重すぎるがゆえに、ヒトはすぐその悩みの海に沈んでしまう」と定義したうえで「言語化するだけでも、悩みは減るが、伝える努力で考えが整理される」と処方箋を出してくれるのは、非常に心理的負担が減って助かる。


言いたいコトを相手に伝えるには「丁寧に短いメッセージを、短冊に書き、それを読み上げながら相手に渡すイメージ」で「5ワード以下で区切りながら、短く話す」「言い直さない」「相手に結論を言わせる」をポイントとして挙げる。
他方、相手の言いたいコトを理解するには「相手に『重要思考』をしてもらい、それを伝えてもらう。そのために、受容(頷き、アイコンタクト、あいづち)・明確化(繰り返し、質問)・確認(言い換え、要約)で聴き取る」「相手の話に潜む、ダイジなコトや面白い差を『発掘』するのが聴くことだと割り切る」ことを薦める。


価値を認めるにあたっても、誉めるに際しては「相手のダイジなところで、相手の他との差(卓越度合い)を明確に示す。それがほめるということ」、お客様への価値提供では「『重要思考』で言えば、お客様として一番『誰』がダイジで、そのヒトたちにとってダイジなコト(価値)は何かを考え、その価値を『差』のある方法で提供する」と整理。


かみ合う会議の5つのルール「①プレゼンターは簡潔な文章でまとめ、みなは終わりまで聴く②質問する前にみなで3分考える③勝手に話さない、ダイジなコトからずらさない④賛否を示し、『コメント』などに逃げない⑤決め方を決めておき、雰囲気で決めない」は、そりゃそうだが、実践は難しいなぁ…としか思えない…


「百聞不如一見 百見不如一考 百考不如一行」という言葉を引用して「百万回聞いたって1回の試行錯誤に及ばない」と読み下しているのは、なるほどなぁと感じる。確かに「体得」することでしか理解できない、というのは体感としてよくわかる。


最後に出てくる「子どもたちの未来は、大人が『教える』ものではない。子どもたちが自ら、切り拓いていくもの」は、子育て世代の一人として、心に刻みたいところだ。


全般的に、シンプルでわかりやすい。かつ、その実践しやすさも優れていて、必読の一冊だ。これはいい本を読むことができた。

【読了】宗田好史「インバウンド再生」

今年65冊目読了。京都府立大学副学長・和食文化研究センター長の筆者が、コロナ後への観光政策をイタリアと京都から考える一冊。


旅行業に関わる者として、興味深く読んだ。色々な場面で「コロナ禍は、それまでの課題を顕在化させただけ。元々、どこかで取り組む必要があった課題が、それぞれの業界にインパクトを持って現れてきた」という話は出てくるが、本書もその論調で、まぁまぁ納得できる。


そもそも、観光とは何か。「観光の本質は文化交流。我々日本人が海外旅行を楽しみ、留学で何を学んできたか、何を手に入れてきたかを思い出してほしい。今、われわれは迎える側になった。日本を見たい人、知りたい人、愛する人、憧れる人を拒んでいいのか?」「観光市場では常に消費者が若返るため、歴史都市の事業者は日々の変化に対応することが必須になる。観光があれば、地方の都市でも自宅に取り残されることなく、変化に対応し続けていける。人口は少なくても、その何十倍もの観光客が押し寄せ、外の世界の新しい価値観を運んでくる」と、そのインパクトを強調する。


コロナ後の観光については、インバウンドについては「日本は、世界的に人気が高い観光地になった。だから外国人観光客の回復は比較的早いだろう。ただ、急激なインバウンドの増加とそれに伴い急増した新規参入事業者がもたらした混乱を上手に収める必要がある」「ただ受け入れるのではなく、観光客を制御する仕組みが要る」とする。その上で「若くもないのに新しもの好きで、お金もないのに贅沢な観光にいそしんでいた日本人は、不急不要な旅行を控えることを学んだ。だから本当に必要な旅の姿を模索し始めた。急増したインバウンドに反発し、コロナショックで自らの観光行動を見直し、外国人観光客を受容しつつ、新たな観光文化を求めていくのだろう」と述べるが、これはいささか楽観的すぎないか。抑圧は、むしろ解放を生んでしまい、そんなに簡単に内省に向かうとも思えないが…
だが、「『都心シフト』に支えられた『高価格・高品質化』と『デジタルシフト』『アジアシフト』はコロナショックからの回復とその後の持続的な観光に繋がる道」というのは理解できる。


第二次世界大戦後の観光の歴史についての詳細な記述は、やや読み疲れるものの、「1989年8月にハンガリーオーストリア国境の町ショブロンで起こった大きなピクニックは、国際観光の意味を大きく変えたのかもしれない。それぞれ異なった文化を持った人々が、国境を越えて互いの文化を触れ合わせることで社会を変える大きな力を得る。社会が変わり、国境を越える人が増えると、それぞれが少しずつ発展していく」は、社会文化論としてもとても面白い見解だ。


昨今の観光地の問題として「一般の観光客はインターネット、あるいはテレビで一方的に紹介され、混雑している観光地に誘導されている。今では安いからというよりも、簡単に手に入るネット上の情報に踊らされているからだろう」「景観政策がなければ、外国人観光客を当て込んで建てたホテルが景観を壊してしまう。無謀な事業者は秩序を知らず、まして景観の価値も知らない」と警告。「観光客をこれ以上増やせないとなると、経営戦略を変える必要がある。観光客を分類し、大量に買ってくれる中国人では回転率を上げて稼ぎ、違いの分かる欧米人の日本人にはよいものを選別してもらう代わりに利益率を上げる。中国人客の回転率を上げるために、もちろん値段は下げる」ことを提言する。


では、今後どうすればよいか。筆者は「人々の創造性を生むプロセスをデザインすることが、観光ビジネスを巡る政策になる」「下手に観光プロモーションをして初心者を増やさないほうがいい。観光客の制御もできないのにプロモーションしてはいけない。龍笛制御、質的制御それぞれの方法で上手にバランスを取るから、責任をもって誘致できる」として、8つの戦略を提言する。
「①正確な観光統計による把握と観光客の制御②人口減少に即して施設は縮小しつつ再生する③地元の人が働く職場を優先する④小ささを活かすなら厚利少売⑤観光とネット通販で世界と結びつく⑥お洒落に暮らす地元住民の生活文化で惹きつける⑦町のヘビーユーザーをつくる⑧観光と交流から新しい生活文化を生み出す」がそるだが、総花的に既存の概念を整理したぢけで、目新しさはない。また、京都というメガ観光地を前提としており、これを当てはめられる観光地は少ないだろう。


観光の魅力は理解しているつもりだったが「そこに生まれ、住んでいるからといって、その都市の歴史や文化に詳しくはなるわけではない。文化はモノではなくヒトに宿る。その場所に暮らす人々の心の中にある。だから文化とはその文化を持つ、より多くの人々と交流し、歴史文化を語り合うことで身につくものである」「観光とは日々変化する多様な人々の文化的行為、精神の活動である。その変化を詳しく、丁寧に捉える視点が必要になる。都市に暮らすということは種に他人から見られることでもある。その都市で、それも外国人観光客が多い都市で、自分と他人から両方からどう見られるかを意識することが文化変容のきっかけになるだろう」という視点は盲点だった。それは本当にそのとおりだ。


最後の「日本で楽しく過ごしてもらおう。そして、リスペクトされるホストであろう。ルールをつくり、上手に受け入れられる観光まちづくりを進めよう。世界の人々とともに、彼らとわれわれの文化を発展させようという機運が高まることを期待したい」という筆者のメッセージに耳を傾けて、「日本の良さを磨き上げるための観光」という産業を、単なる消費財ではなく、育む未来への扉としたいものだ。