世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】松本創「軌道」

今年71冊目読了。神戸新聞記者を経てフリーランスのライターとなった筆者が、福知山線脱線事故の被害者となった人物が、JR西日本を変えた闘いに挑む様子を詳細に描き出す一冊。


ちょうどこの事故のときに大阪にいたこともあり、未だに記憶は生々しい。そして、被害者という立場から、その枠をのりこえて原因究明に全力を尽くす人物の精神力、使命感がひしひしと伝わってくる良書。


JR西日本の幹部の言葉・態度に対する被害者の気持ちは厳しい。「『誠心誠意の謝罪』『100%当社に責任がある』と口では言いながら、その実、被害者に与えた損失や苦しみや窮状を一つも理解しようとせず、自社の論理や組織防衛ばかりを優先する」「一言でいえば、彼らには事故を起こした当事者という意識がない」と断じ「後々になってJR西の幹部と一対一で会って話してみたら、意外と話せる人やったりもする。でも組織になると全然だめ。話しにならない。組織防衛なんでしょうけど、その意識が強すぎて、自分たちが加害者であることがまったくわかっていない対応。態度や言葉の端々から、傲慢さ、隠蔽体質、事故を解明する気もないことがにじみ出ていた」と、個人より組織の問題に目を向ける。


事故後に、緊急リリーフ的に社長になった山崎正夫は技術者であり、被害者と同じコンテクストでモノが語れる人物という位置づけに見られる。「僕の信条は現場主義と、もう一つは『率先垂範』なんだ。社長が現場の仕事を知らなくてどうする」という姿勢は、確かに素晴らしい。しかし、そんな彼も、異常時の人事がゆえに「信頼できるナンバー2を置かなかったのが失敗」と認める流れで退任を余儀なくされる。しかし、その後も真摯に向き合う姿勢は、リーダーシップとして学ぶべきところ大だ。


この事故については、国鉄改革の立役者であり、JR西日本の中興の祖である井手正敬のワンマンぶりが引き起こしたという見方も強いが、筆者は「井手個人を断罪して事足れりとするのも、また違うのではないか。トップや幹部が悪いせいでこうなったと問題を単純化するのは、会社側が運転士個人のミスに帰そうとする姿勢の裏返しに過ぎない。組織の中の個々人が自分の責任を棚上げし、誰かに押し付けて断罪する、その『切断処理』こそが、組織全体を無責任体質にしたのではないか」「複雑な問題を単純化し、責任を一か所に押し付ける思考が、事故調査にも伏流している」と異論を唱える。これは至当だろうなぁと感じるし、また組織にいる人間としては、規模は全く違うものの、自身のことを振り返って考えるべきだと思う。


そして、組織の陥りがちな罠という観点からすると「結局、経営幹部は現場の実感を知らない。データだけ見て、中央値がどうだ、数秒遅れだから問題なしとか言っている。でも、実際の現場には『マルにする』という隠語があるように、小さなミスを見逃して、報告を挙げないことだって日常的にある」「専門化・細分化が進み、ブラックボックス化する作業手順。現場を知らないために見過ごしてしまう経営陣。この現場と経営陣の分断は、80年代後半のバブル景気前後に原点があるという声も聞く。利益と経営効率ばかり追求し、バブル崩壊後は人員やコストの削減に走るあまり、日本の企業全体で安全や品質という『倫理』が軽視され、おろそかになった」のあたりは重い警句だ。


それにしても、この問題に立ち向かった被害者の方の精神の強さには頭が下がる。「表面的な言葉で、形式上の責任は認めて謝罪するものの、ホンネではさっさと金を払って解決したい企業側と、金の問題より前に、真に誠意ある謝罪、事故原因の究明と再発防止への取り組みを求める遺族の対立」の中で「無責任な哀れみの視線を向けられたくない、家族が犠牲になった事故を『たまたま起きた不幸なできごと』で終わらせたくない、社会全体の問題ととらえ、考えてほしい」とフレーミングして「いくら意見や立場が対立しても、対話のチャンネルを閉ざしてはならない。粘り強く交渉の席に着き、相手を見極める。そして味方を作り、合意点を探る」「最初はものすごく高い、一枚岩の壁に見えていた。組織を守ることだけを考えている相手に、まったく取りつく島がなかった。でも、壁を押したり突いたりしているうちに、決して一枚岩ではないことがわかってきた。人によって答えが違ったり、見解が共有されていないこともあった。それで僕は、話せる相手がどこにいるか、見極めようと思った。遺族対企業ではなく、お互い名前のある個人として向き合える相手をね」という取り組みは、生半可なものではない。


ミスということについて「ヒューマンエラーはシステムの中で働く人間が、システムの要求に応えられないときに起こるものなのだから、対策は設備を含めたシステム全体で考えるべき」「JR西は、確かに変わろうとしている。そのための投資や組織づくり、取り組みもさまざま行ってはいる。だが、それが成功するかどうか、カギを握るのは結局、現場を支える『人』、つまりはヒューマンファクターということになる」という総括は、本当にそうだなぁと感じる。


重たい中身ではあるものの、お涙頂戴のような流れはなく、真摯に向き合うという姿勢でものごとに挑むという姿勢に胸を打たれる。