世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】松里公孝「ウクライナ動乱」

今年78冊目読了。東京大学大学院法学政治学研究科教授の筆者が、ソ連解体から露ウ戦争までを概観する一冊。


新書とは思えない分厚さ(物理的にも、中身的にも)。ついつい日本にいると「ゼレンスキーが善で、プーチンが悪。しかも勝手に暴走したのはプーチン」と単純化して捉えがちだが、全然違うということを痛感する…ものすごく勉強になる。


筆者は、現状認識として「私たちはまだ1989~91年に始まる社会変動の只中にいるのではないか。特にソ連継承国の多くは、1990年の経済水準を回復していない」としたうえで、ソ連継承国のみならず「ポピュリスト政治家は外交や軍事の知識がないので、安全保障問題を国内党派政治の延長に置く。『国内の右翼が騒がないように、プーチンに対して強硬なことを言っておけ』程度の発想で政策を決めていく。これは非常に危険」とその危なさを指摘する。


ウクライナ動乱の原因は「2014年にロシアがウクライナに対する全面戦争を開始しなかった理由の一つは、兵器・軍需品の相当部分をウクライナに依存していたから」「2014年以降のウクライナ危機の源泉は、クリミアとドンバスの分離紛争」「分離紛争の多くは、豊かな地域がこれ以上貧しい地域を『養う』のは嫌だと抵抗するところから始まる」にあると分析。まず、このあたりの理解が日本では(自分をはじめとして)甘いんだよな…


さらに、ロシアの暴走とみられがちな態度についても「ソ連継承諸国のご機嫌を取っていても、ウクライナグルジアも、結局、NATOに接近していく」「ソ連解体後のロシア外交の最大の転換要因は、ロシアが西側に対する自主姿勢を強めたことではなく、旧ソ連諸国に対する態度が変わったこと。旧ソ連諸国の盟主・長兄でありたいという願望を捨てれば、分離政体を承認したり併合したりすることも可能になる。プーチン政権は、ウクライナポーランドリトアニアにロシアがどう見られるかということには、もはや全く関心がない。そのかわり、中国やインドやトルコやアフリカ諸国にどう見られるかには細心の注意を払う」「プーチン政権が旧ソ連諸国への兄貴分的な態度を捨てたことが、西側に対抗する上での一定の抑止条件からプーチン政権を解き放った」と記述されると、やはり一定の合理性はあるように感じる(だからといって武力行使を是認するものではないが)。


そして、国対国の関係で捉えがちなウクライナ動乱も、「連邦構成共和国が内部に自治単位を有していれば三層構造になる。会自治体単位はソ連という国家への帰属を前提に、アゼルバイジャングルジアという上位共和国に服従していたにすぎない」「ソ連末期の沿ドニエストルアブハジア、クリミアなどは、ソ連からの独立を目指したわけではない。全く逆で、それらが帰属していたモルドヴァグルジアウクライナなどの上位共和国(連邦構成共和国)がソ連からの独立傾向を強めたので、自分たちは、それら上位共和国から分離して、ソ連に残ることを目指したのである」という前提を知っているか否かで全然見え方が違う。これは知らなかった…


クリミア問題についても「2014年のクリミア自治共和国住民投票は、ウクライナ憲法に定められた領土変更手続きを蹂躙している。ただし、ウクライナソ連からの独立も、当時のソ連の離脱法を蹂躙して行われたので、因果応報という印象は禁じ得ない」と、筆者はあくまで冷静に見る。なるほど、それはロシアにも一理あるように感じる。


さらにドンバスは複雑。「ドンバスは、2014年以降のウクライナ動乱で最も大きな被害を受けてきた地域である。プーチン大統領は、ドンバスを『ジェノサイド』から解放するというスローガンで露ウ戦争を始めたが、ドンバスは、まさにこの戦争により、最多数の戦争犠牲を出し続けている」「ドンバスとは『ドネツ川流域』あるいは『ドネツ炭田』という意味で、現代の行政区画としてはドネツク州、ルガンスク州からなる」「ドンバスの産業構造は『地元で採れる石炭を燃料にして冶金・製鉄を発達させ、そこで生産される金属を原料にして機械工業を発達させる』という垂直的なモノで、エリートを団結させるため、集権的な恩顧政治を生みやすい」「ロシアがクリミアに加えてドンバスを併合し、300万票から500万票のドンバスの親露票がウクライナから消えたとすれば、ウクライナ大統領選挙ではウクライナNATO早期加盟を掲げるような候補しか勝てなくなる」という背景なんて、新聞、ましてやテレビでは全然指摘していないよな…


ウクライナ側の問題についても「露ウ戦争に至る政策決定過程では、一極世界の終焉という楽観論と、まさにそのため西側がウクライナをロシアとの戦争に駆り立てているという悲観論が結合した」「ユーロマイダン後のウクライナにおいては、共産主義思想と共産党が非合法化され、ソ連時代が全否定され、それに変わってウクライナ史の独特の理解が国家イデオロギーになった」「国民が貧困にいらだっているときに政治家がアイデンティティ政治ばかりやっていると大変なことになる」「文化的帝国主義、左翼的な『人民の力』への信頼、そして西側の情報技術やソフトパワーへの憧憬、この奇妙な三位一体が『ロシアの春』を導いたイデオロギー」と指摘。確かにそう言われればそうだ。
さらに筆者は「戦闘で劣勢なウクライナ武装勢力は、自分たちが優位にある火器に頼り、しかも銃後の民間家屋、民間施設を狙うようになった。当然、戦時国際法は無視することになる」「ゼレンスキーは大国の指導者と、外務省レベルの準備も何もない状態で会いたがる」「アゼルバイジャンと同じ問題を抱えていたゼレンスキーとそのスタッフは、分離紛争は軍事的に解決できるということ(これは正しい)と並んで、無人機とドローンがあれば戦車や榴弾砲に勝てると確信した(これは誤り)」と、ウクライナ側の非を指摘。これを認識せずに安易にどちらが是でどちらが非とは言えないな、と感じる。


ウクライナについてのプーチンの認識は「1)ウクライナは、レーニンの民族領域連邦主義のおかげで生まれた。2)ソ連は、ウクライナに、歴史的・民族的にウクライナでなかった広大な土地を与えた。特に歴史的ロシアの土地が多く割譲された。ドンバスはその一つである」「ロシアが対ウクライナ戦争で実現すべき目的は、ロシアの安全保障上の脅威除去(NATO拡大の阻止)、ドンバス住民の救済、ロシア語系住民の保護、ウクライナの脱ナチ化」と、彼の眼から見ればそうなんだ、ということを指摘。ただ単に暴走したわけでもない、ということがわかる。


戦争の早期終結の失敗は「戦闘の最初の三日間は、ウクライナ軍は本気で抵抗しないだろうという想定の下、ロシア軍は力を誇示することで、ウクライナに早期降伏を促す作戦だった」が「最初の三日間の戦争で完敗し『ロシア軍って案外弱いじゃん』と思われた時点で、力の誇示によりウクライナの自壊を誘う作戦は失敗した」というのはよくわかる。
しかし「ロシアの戦争目的は、体制変更から領土獲得に替わった。しかし、領土獲得戦争に移行することは、戦争付加の顕著な増大を伴った」「国際社会の反応も、体制変更戦争なのか領土獲得戦争なのかで全く違ってくる。体制変更戦争は、いわば日常茶飯事である。これに対し、国境線の変更がかかると国際社会の反応は遙かに厳しくなる」と切り込まれると、なるほどなぁと感嘆するしかない。そういう見方か…


ウクライナの現状を激しく非難するあたりはかなり驚く。「勝利への道は、政府の情報独占を破ることから始まる。こんにちテレビ局は政府支持の一局しかない。つまらないので誰も見ず、敵であるロシアのテレビを見るようになってしまう。なぜ明日にも反転攻勢が始められるような嘘を、国民につくのか。国家と権力は別物だ。これらが別物であったことが、ロシアやベラルーシにはない、ウクライナの強みだったのだ。いま、この強みが失われようとしている」「ウクライナの再生に協力したいと考えている日本の市民には、ウクライナについて知ってほしいと思う。善意は知識の代わりにはならないし、プーチン政権を打倒しても、ウクライナは良くはならない」「残念ながら、独立後30年間のウクライナは、市民的な国家ではなく、民族的な国家を作ってきた。特に、いわゆる親欧米政権においては『経済実績が悪いので、選挙が近づくと民族主義=国民分断に頼る。その結果、ますます経済が悪くなる』という悪循環も見られるようになった」という見方は、やはり歴史学者。さすがだとしか言いようがない。


筆者が最後に述べる「国や民族が画然と分かれた東アジアに住む我々にとって、旧ソ連空間はわかりにくい。だから日本人は、太平洋戦争時の日米関係や、今後あり得る日中戦争のアナロジーで露ウ戦争を認識する。大統領の下、国民は団結してロシアと戦っているというイメージは、判官贔屓の私たち自身にとって心地よい。しかし、これは事実ではない。ウクライナ住民の戦争評価は地域により様々である」が非常に重い。すべての日本人に読んでもらいたいが、さすがにしんどい本なんだよな…これこそ漫画で入門編が出てほしいレベル。