世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】黒川祐次「物語 ウクライナの歴史」

今年135冊目読了。駐ウクライナ大使、衆議院外務調査室長などを歴任した筆者が、ロシアに次ぎヨーロッパ第二の広い領土を持つ「知られざる大国」の素顔に迫る一冊。


もちろん、ウクライナ侵攻という悲劇があったから手にした本。発行は2002年なれど、歴史的経緯を押さえるにはうってつけだ。


ウクライナという『国』について「ウクライナには歴史も文化も科学技術もあるが、それはすべてロシア・ソ連の歴史、文化、科学技術として括られてしまい、その名誉はすべてロシア・ソ連に帰属してしまっていた。そして、ウクライナはロシア・ソ連の中での穀倉地帯としてしか世界に紹介されてこなかった」「ウクライナ史の最大のテーマは『国がなかったこと』。国家の枠組みなしで民族がいかに生き残ったかが歴史のメーン・テーマ」「モスクワから勃興してきた国が後に大国となり、ロシアと名乗ってキエフ・ルーシを継ぐ正統の国家と称したため、ウクライナの歴史は『国がない』民族の歴史となった」という曖昧な状況であるということは、恥ずかしながら知らなかった…


そして、その沿革である「スキタイ人の特徴は、遊牧生活を営んでいたことと、勇敢さを尊ぶ民族性と巧みな騎馬術によって戦士としてきわめて優れていたこと」「スキタイ芸術の特徴は、動物意匠と黄金への偏愛」という血が流れ、かつ「ウクライナの地は、古代からクリミアを通じてギリシア・ローマ世界および海の世界とつながっている。この開放性は、他のスラヴ諸国の歴史が内陸的な印象を与えるのとは対照的に、ウクライナの大きな特色である」という地政学的特徴もある。


ところが、そこから占領の歴史が始まる。「14世紀半ばにハーリチ・ヴォルイニ公国が滅亡してから、17世紀半ばにコサックがウクライナの中心勢力になるまでの約300年間、ウクライナの地にはウクライナを代表する政治権力は存在しなかった。この間はリトアニアポーランドウクライナを支配した」「リトアニアはルーシの文化を受け容れてルーシに融け込んでいったのに対し、ポーランドはルーシにおのれの文化を押し付けた。結局ウクライナの地に後々まで長く居座り、ウクライナの歴史に決定的な影響を与えたのは、リトアニアよりもポーランドのほうであった」「カトリックと正教に分離したキリスト教会を合同させようと、ウクライナ支配下に置いたポーランドは画策した。結局一部正教のみがカトリックと合同することになり、正教は分裂し、従来の正教とは別に、『ユニエイト(合同協会)』なるウクライナ独特の新しい教会が生まれることになった。ユニエイトはギリシア正教カトリックの折衷版であるという意味から『ギリシアカトリック』とも呼ばれる」などは、ユニークながらも非常に複雑さを感じさせられる。


そして、ロシアとのかかわりが始まる。が、それも「15世紀ごろからウクライナやロシアの南部のステップ地帯に住み着いた者たちが、出自を問わない自治的な武装集団を作り上げた。『コサック』(ウクライナ語でコザーク、ロシア語ではカザーク)とはその集団や構成員のことである」「17世紀、フリメニツキーのコサック国家は当時事実上の独立国を形成したのに、あえて外国の庇護を求め、自治を守るためにこそモスクワの保護を求めたのであり、モスクワも協定締結当時は併合までは考えていなかった。当時の東ヨーロッパでは国家の主権の観念はまだ存在しておらず、あったのは正統な君主個人に主権があるとの考え方であり、その点フリメニツキーには人気はあったが、かかる正統性はないので、部外に君主を見つけざるを得なかった」「1765年エカテリーナ二世は『スロボダ・ウクライナ(コサック自治組織)』の自治を廃止した」「18世紀末のポーランドの分割及びトルコの黒海北部からの撤退によって、それ以降第一次大戦までの約120年の間、ウクライナはその土地の約8割がロシア帝国に、残りの約2割がオーストリア帝国に支配されることとなる」と、なかなか一筋縄ではいかない。


さらに、近代においても「第一次世界大戦では、ロシアは英仏側の『協商国』となり、オーストリアはドイツ側の『同盟国』となったため、同じウクライナ人が敵味方に分かれて戦わなければならなかった」「キエフ二月革命の方が伝わると、三月ただちにウクライナの諸政党や社会・文化・職業団体の代表が集まり、『ウクライナ中央ラーダ』が結成された(ラーダは会議、評議会を意味するウクライナ語)」と、苦しみながらようやく独立を勝ち取る。
しかし、ロシア・ソ連はそれを許さない。「ボリシェヴィキ政府は、ウクライナは当然ロシアの枠内に入るべきものとし、したがって中央ラーダのナショナリズム反革命ブルジョワ・分離主義者と見なした」「1919年及び20年のウクライナは、北や東からは赤軍、西からはポーランド軍、南東ドン川からは白軍、南西ドニエストル川方面からはルーマニア軍、南部オデッサ方面ではフランス軍、加えてアナーキスト軍やパルチザンの反乱で、近代のヨーロッパ史においても例を見ないような無秩序な内戦状態に陥った」。その結果、第一次大戦後「ウクライナソ連ポーランドルーマニアチェコスロヴァキアの四か国に分割統治されることとなった」となってしまう。
これは「ウクライナではロシアに比べインテリの比率は低く、そのインテリもロシア文化にどっぷりと漬かっていた。多くのインテリにとって社会革命か民族独立か迷うところとなった。したがって自治・独立の機会が訪れたとき、戦略もイデオロギーも十分でないまま政府作りにかからねばならなかった」という難しさによる。インテリは色々と問題もあるが、やはり存在しないと独立には難しいと感じる。


その後も「ロシア帝国からソ連に名前は変わっても、同じロシア人の支配という展では結局革命の前も後もほとんど変わっていない」「「スターリンはロシア中心の中央集権主義者で、かねてから民族の自治拡大に反対であった。また彼は農民を信じておらず、農民は革命の担い手というより克服すべき対象と考えていた。彼は、農民の国で民族主義の強いウクライナにとりわけ強い猜疑心を抱いていた」ことから、ウクライナの大飢饉を招いた。ソ連崩壊までロシア人支配は続くが、ゴルバチョフ軟禁のクーデター失敗から「ウクライナ再興会議はほとんど全会一致で独立宣言を採択し、最高会議は共産党をクーデターに加担した廉で禁止した」と、ようやく独立を勝ち取る。
しかし、2022年においては、またもやそれが脅かされている。本当に豊かなのに苦難を運命づけられているような歴史だが、全く知らなかった…


この国のアイデンティティとして「『ウクライナ』という語の語幹にあたる”krai”という語は、もともとスラヴ語で『切る』とか『分ける』という意味であった。現在のロシア語・ウクライナ語でも”krai”という名詞は『端』『地方』『国』という意味を有している」「現在のウクライナの国旗、国家、国章はいずれも1918年中央ラーダが定めたものであり、現代のウクライナ国家は自らを中央ラーダの正統な後継者であると認識している」のあたりの記述はなるほどと感じた。


そして、2014年のクリミア半島併合と2022年のウクライナ侵攻を同一視しがちだが、「フルシチョフは、1954年、フリメニツキーがロシアの宗主権を認めたペレヤスラフ肯定の締結300周年記念の際に、これまでロシアの一部だったクリミアが『ウクライナに対するロシア人民の偉大な兄弟愛と信頼のさらなる証』としてウクライナ共和国に移管された。これは対ウクライナ懐柔政策であったが、他方ロシア人が人口の70%を占めるクリミアをウクライナに帰属させることによってウクライナの中でロシアの比率を高める意図もあったとされている。いずれにせよ当時はウクライナが将来独立するなど毛頭考えられていなかったので、行政上の措置程度の軽い気持ちでなされた決定であっただろう」という歴史的経緯を踏まえると、両者は全く別物である、とわかる。


とにかく、人物などがわからないので読みづらいが、本当に勉強になった。国に歴史あり。それを踏まえないと、今が議論できないことを痛感した。