世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】小泉悠「『帝国』ロシアの地政学」

今年98冊目読了。東京大学先端科学技術研究センター特任助教の筆者が、勢力圏でユーラシア戦略を読み解く一冊。


2022年のウクライナ侵攻というあまりにも衝撃的な事件が、この本を読むと「なるほどロシア側から見るとそうなのか」となんとなく見えてくる。これは良書だ。


特に秀逸なのは「古典的な国家観においては、境界とはフラスコのようなもの。硬いガラスの殻があり、その内部には『主権』という溶液が詰まっているが、これを他の液体につけたとしても、内部と外部が混じり合うことはない。しかし、ロシアの国家観においてイメージされる境界とは、浸透膜のようなものだ。内部の液体(主権)は一定の凝集性を持つが、目に見えない微細な穴から外に向かって染み出していく。もしも外部の液体の方が浸透圧が高い場合、膜の内部には他国の『主権』がグラデーションを描きながら染み込んでくる」というロシア国家観の比喩。「ロシアの言説では、『国民』という言葉が法的な意味のそれではなく、民族的なロシア人と読み替えられ、政治的・軍事的介入の根拠とされることが少なくない」ということでは、国際法に則っても全然話が通じないわけだ…


ソ連時代との違いについては「ソ連崩壊によって『ロシア的なるもの』は国境で分断され、新たに出現したロシアの国境内には『非ロシア的なもの』が抱え込まれることになった」「冷戦後のロシアが抱え込んだ大問題は、多様な民族・文化・宗教がなぜロシアという一つの国家の下にあるのかを説明する原理がなかなか見出せなかったこと」があるとし、「現在のロシアに暮らす諸民族に対して『共にナチスと戦った仲』だという意識は一定の同胞意識を育む効果を果たしている。ロシアの社会が日本では考えられないほど軍隊好きなのも、単に国民性というだけでは片付けられない」ということにも言及する。


さらに、主権国家の概念についても「ロシアの国際法理解における主権とは、すべての国家に適用される抽象的な概念ではなく、大国のそれを特に指すものであり、大国の周辺に存在する中小国の主権に対しては懐疑的」「ロシアは、より弱体な国々の主権を制限しうる『主権国家』=大国であり、その『歴史的主権』が及ぶ範囲はおおむね旧ソ連の版図と重なる。その内部において、ロシアはエスニックなつながりを根拠とする『保護する責任』を主張し、介入を正当化してきた。一方、ロシアの『歴史的主権』が及ばない旧ソ連圏外においては、ロシアは古典的国家主権の擁護者を以て自らを任じてきた。しかし、これは明らかな二重基準である」と思っているのであれば、行動は理解できるが、とても共感はできない。


この本は2019年に書かれているのだが、クリミア併合について「ウクライナを勢力圏内に留めておけるかどうかは、ロシアがアジアから欧州にまたがる『ユーラシア帝国』でいられるのか、それとも『アジアの帝国』になってしまうかの分水嶺」「バルト三国ソ連併合とクリミア併合は、電撃的な軍事作戦による占領、シンパシーを抱く現地住民の動員、住民投票、そして併合という手順が概ね共通する」と書いているのは、2022年のウクライナ侵攻でも狙われたところなのだろう。


歴史観の難しさは「元々ソ連としては冷戦に敗北したという意識は希薄であり、むしろ冷戦の終結は、人類の破滅を避けるために米国と成し遂げた『共通の成果』であると見られていた」「ソ連への併合を『占領』と位置づけているバルト三国歴史観は、ロシアにしてみれば現在のアイデンティティを否定するものと映る」のあたりでも痛感する。これをすり合わせるのは非常に難しい…


日露関係はどう見るか。「ロシアの秩序観からすれば、安全保障を日米同盟に依存する日本は完全な主権を有さない『半主権国家』であり、日本が日米同盟の下にある限りロシアの不信は払しょくされない」「前世紀から続くロシアの対米不信を考えるならば、北方領土をめぐる安全保障上の懸念は、単に日露二国間のそれにとどまらず、よりグローバルな米ロ関係の影響を受けたもの」という筆者の見解からすると、非常に難しさを抱えている。
北方領土については「ロシアは『ロシア人の帝国』として極東にまで拡張してきたのであって、北方領土はその拡張が日本との衝突によって『一時停止』した地点」「『北方領土でロシア化が進んでいる』とメディアで言われるが、『進んでいる』というよりもロシア化は『完了している』」という厳しい現実があり、本当に許しがたいが、何ともできず歯がゆい。


現代について「人々の認識を戦場とし、情報を武器として戦う時代」としているあたりは、最近の戦争論の本とも相似形をなしており、この認識が今や常識なんだな。


とにかく、理解しがたいロシアの思考回路を読み解くには絶妙の良書だ。本当に一読をお薦めしたい。