世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】柏井壽「京都の定番」

今年35冊目読了。歯科医院にしてエッセイストの筆者が、京都の定番を押さえて楽しむことを提唱する一冊。


京都観光の書籍は山ほどあるが、確かにこういう感じの本はあまりない。


筆者は、まず「何事も、定番を知らずして、深く理解することはできない。何事も、定番を知らずして、本当に愉しむことはできない。すなわち、定番を知らないと、その魅力は半減してしまうのだ」と主張。
定番の楽しみ方として「まず疑問を持ち、解明しようとし、そして答えが見つかったときの喜びは格別のものがある」「名所の名物のみに目を向けるのではなく、その周りにあるものにも心を留めてみたい」「名所へと辿る道筋、周辺にあるゆかりの地まで対象を広げると、様々な物語が浮かび上がってくる。これこそが名所再見の勘どころ」というのはなかなか共感できる。


京都の名所についての「東寺は平安京の景観を偲ぶことができる唯一無二の遺構」「本来、寺院の金堂や本堂は南面を向くのだが、浄土の思想で西方極楽浄土に向くよう、東向きの阿弥陀堂が数多く造営されるようになった。平等院鳳凰堂がその典型である。お堂の向きひとつで、建立時の思想背景が分かる。これが寺社巡りの面白さ」「<清水の舞台から飛び降りる>。重要な決断をするときの喩えに使われる言葉だが、本来の飛び降りは願掛けを目的として行われていた」のあたりは、知識として押さえておきたい。


また、京料理についても「雅な平安のイメージに厳かな形式を加味したもの。これが京料理の原型で、これを骨格として、様々な料理形式が肉付けされていった」「長い歴史を誇る京都の街は、<伝統>を重んじることで知られるが、一方で<革新>を受け入れる懐の深さも併せ持っている」「京都の料理は、決して薄味ではない。ともすれは大阪よりも濃い」「<おばんざい>という言葉を、標準語に置き換えれば、普段着の食」「看板に<おばんざい>と書く店が次々に現れ出したのは、京町家ブームが始まったのと時を同じくする。京町家という京都らしい舞台装置と、京都らしさを手軽に演出できる<おばんざい>とが合わさって、格好のビジネスモデルが出来上がった」と言及。なるほど、これは知らなかった…


京都は、四季折々の楽しみも良い。春については「京都で愛でる桜は本来<宴>と結び付くものではなく、もっと日々の暮らしに密着しているか、或いは日常と乖離した別世界のもの」「花は静かに見るべかりけり」「散りゆく桜と流れ行く水に、自らの人生を重ねる。それが京都の<花見>」「花だけを見るのではなく、後ろにある背景、花を包む空気をも合わせて眺めることが、京の花見の醍醐味。更には古人の歌や文、辿る歴史とも重ね合わせ、古きに思いを寄せてこそ、都の花をより一層味わい深くさせる」と述べる。
対比的に、秋については「桜と違って、もみじは長く目を愉しませてくれる。その味わいは季の移ろいとともに変わりゆくもの。秋半ば。長雨の後のもみじは、艶っぽく、或いは瑞々しく、その命を長らえている。人に喩えるなら壮年から熟年。もみじ葉には厚みもあり、輝きも見せる。一方で、秋の終わり。冬の足音が聞こえ始め、比叡嵐が都大路に吹き下ろす頃ともなれば、いよいよ、もみじは晩年を迎える。乾いた音は、敷きもみじが、石畳から風に踊り、宙に舞い始める兆し。掌がやがて、老いた手が閉じるように、皺を寄せ、軽く、軽く、まるで天に召されるかのように、風に舞い上がる。師走のもみじが切ない由縁である」とコメント。
夏の「五山送り火は、夏に引導を渡す役目を果たしている。赤い火は京都の夏のエピローグ」は、京都人でないと感覚として掴めないように思う


さらりと読めて、24年4月から京都に住むことになった身としてはなかなか勉強になる。そのほか「<弁えて用に当てる>のが弁当の語源」「京都人は『祇園祭』の間、胡瓜を食べない。それは、祇園祭を行う八坂神社の神紋が胡瓜の切り口によく似ているから。ただそれだけの理由」「<旨い>は<甘い>から派生したと言われているように、食事はある意味<甘み>を愉しむもの。<甘み>は人の気分を昂揚させるが、いつまでも昂ぶっているわけにはいかない。<食>から次の時間へと切り替えるための切っ掛け。<食>によって昂ぶりを抑え、心を鎮めていく。それが実は<苦み>の役割」のあたりはかなり驚いた。なるほどなぁ。やはり知るということは面白い。