世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】ビョンチョル・ハン「透明社会」

今年99冊目読了。ベルリン大学教授の筆者が、透明性があらゆる場面で要求される社会の現状を批判する一冊。


文章自体は短いのだが、その中身の深さに圧倒される。簡単に割り切れる話ではないだけに、筆者の知見の深さ、洞察の鋭さを痛感させられる。


世の中では、透明性が是とされているが、「事物があらゆる否定性を払い落し、なめらかにされ平らに均されて、資本とコミュニケーションと情報のなめらかな流れのなかに無抵抗に組み込まれると、その事物は透明になる」「透明性はあらゆる社会的事象をとらえて深刻な変化にさらすシステムそのものに内在する強制である」と言われると、確かにそうだなと感じる。そして「肯定社会はあらゆる否定性を避ける。というのも、否定性はコミュニケーションを停滞させるからだ。コミュニケーションの価値を測る尺度は情報交換の量と速度だけである」というのが、現代の平板化したコミュニケーションの根源であるとしたら、その対処は相当に難しい。


デジタル社会について、デジタル写真を例に挙げ「デジタル写真のうちではいかなる否定性も抹消されている。デジタル写真は暗室も原像も必要としない。デジタル写真には、それに先立ついかなるネガも存在しない。デジタル写真は純然たるポジである。生じること、老いること、死ぬことは消し去られている」「デジタル写真は透明な写真である。そこには誕生も死もなく、運命も出来事もない。運命は透明ではない。透明な写真には意味や時間にかかわる濃縮が欠けている。それゆえに透明な写真は語らないのである」としているあたりは考えさせられる。
結果「デジタルな近隣性がユーザーに提供するのは、当のユーザーの気に入る世界の切り抜きにすぎない。遠さがまったく取り除かれた近さというのもまた透明性の表現形式である」となっていることは否めないからなぁ。


きれいに肯定系で割り切りたがる現代の風潮に対しては「苦悩と情熱は否定性がとる姿かたちである。苦悩と情熱は一方では否定性を欠いた享楽に道を譲る。他方で、苦悩や情熱の代わりに現れるのは、疲弊、疲労抑鬱といった、過剰な肯定性にその原因を帰することのできる心理的な障碍である」「思考にはある否定性が内在している。この否定性ゆえに、思考はみずからを変容させる経験を耐えるのである。みずからとは別のものになることという否定性は思考にとって本質的な構成要素である。この点に、つねにみずからと同一であり続ける計算との違いがある」と、敢然と反旗を翻す。これもまた人間にとって大事な観点だと思う。


透明社会、というものについては「透明社会は情報に空白があることも視界に空白があることも許容しない。しかし、思考もインスピレーションも空虚を必要とするのだ」「想像力は遊びにもとづく。想像力は、いかなるものもしっかりと定義されたり明確に輪郭を描かれたりしない、遊び空間(余地)を前提とする。それは不鮮明さと不明瞭さを必要とする」と、その窮屈さ、苦しさを述べる。
そして、ものごとの真理として「光と闇は根が同じである。光と影は一体である。善が定まるとともに悪も定まる」「光とは反対に、光なき反射はあらゆるものに浸透し侵入する。それは均質化し平板化する作用がきわめて強い」「情報の塊は真理をもたらさない。より多くの情報が放出されるほど世界は雑然となる。過剰な情報と過剰なコミュニケーションは暗闇にいかなる光も当てない」という主張は確かに肯んじ得る。


では、どうすべきか。「信頼することは、知ることと知らないこととのあいだの状態でのみ可能である。信頼するとは、他者のことを知らないにもかかわらず、その他者と積極的な関係を構築することである。信頼することによって、不十分な知識しかなくても行為することが可能になるのだ」「透明社会とは、信頼が消えてなくなりつつあるために管理に全幅の信頼を置くようになった、不信と疑念の社会である」「消費者が享受しているように思われる自由は、システムの内部を問いただすであろう外部をもはや形成しないのである」ということを留意すべき、という観点は非常に大事だと感じる。


旅行業に携わる身としては「観光の道のりには固有の意義深さなどまったくない。なぜなら、途中の道は見る価値のあるものではないからである。観光客にとって、道のりに含まれる豊かな意味や物語性は無縁である。道は物語を物語る力を失い、空虚な通路になる」の一文が気になる。逆に、いかに『道のり』に意味を持たせるか、が今後の旅行業なのかもしれない。