世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】内田樹、釈徹宗「聖地巡礼 熊野紀行」

今年15冊目読了。思想家であり武道家と、浄土真宗本願寺派如来寺住職にして相愛大学教授の筆者が、実際に熊野古道を歩きながらその気づきを織りなしていく一冊。


この本が述べようとしている「聖地巡礼のテーマは『場と関係性』。単に宗教性が高い場所へと赴きだけではない。そこで展開されている儀礼行為や舞台装置にも注目している。また、その場に関わってきた俗信や習慣、権力や政治的要素も合算して、全体像に向き合おうとしている」「聖地巡礼というのは物語。物語がないと心が震えない」のあたりが興味をそそって読んでみたが、平易なやり取りで書かれているのでとても読みやすく、かつ理解が進む。


そもそも熊野については「『熊野』の『熊』の語源はクムであり、籠るや隠れるの意味。また、カミの語源でもあり、熊野は原初から籠る場所であり神の坐ます場所」「歴代上皇法皇たちは、熊野に生命の源流を求めていたのかもしれない。そしね彼らは宗教的感度も成熟していった」という場であると説明。


熊野古道の特徴については「熊野のいちばんの特徴は『信不信を選ばず、浄不浄を嫌わず』というところ。これぞ正に宗教が生み出すコミュニタス。つまり日常的・社会的な枠組みが外れる状態」「そこに行くことで生命力、戦闘力が高まる。熊野詣というのは、そういう力を身に帯びるためのきわめて実践的な行為」「土俗の信仰や古神道に比べると、仏教は饒舌。熊野は仏教と出会うことで高いストーリー性を手に入れ、熊野比丘尼のような半僧半俗の人々を輩出することで拡散していった」「熊野九十九王子と呼ばれる参拝ポイントがあって、熊野三山を目指す。重要視されたのはプロセスで、それは熊野詣が修行である証拠」「古道の入口が、さり気なく日常とつながった場所で、しかも東に向かっている。死なないで生まれ変わる、西に行く巡礼とは全く違う」と、その信仰との絡み合いを読み解いていく。


仏教については「身体と精神とを分けて考えないところに大きな特徴がある」「あらゆる関係に固執しない、我々はどこかですべてを捨てていかなきゃいけないと説く」「シーンとして何もしない神社に対し、仏教は僧侶のお勤めとか何かとしてしまう」ことを特徴として挙げる。


身体性についての「身体と場は密接なものがあって、場に身を置かないと身体性は賦活しない」「山に登るのは身体を素にする点で非常に良い。呼吸をリズミカルに整えて、足下だけを見ることは、余計なことを考えないなて。自分の内側へと入っていって、足裏や膝の細部に精神を集中することが一種の瞑想になる」のあたりは、体感としても納得できるものがある。


そのほかにも「開かれた空間と恒常的な守り手がいることが共同的な空間が持続するための条件。継続するためには共同体の『物語』が必要」「ボーダーを引くのは、そこに二項対立があったほうが知的に生産的だから。その線上に感じのいいインターフェイスが生まれる。ものごとを切り分けることが目的なんじゃなくて、ものごとを切り分けることで、人間の知性を活性化することがボーダーの存在理由」「自分についての物語を他者と共有できないと、自我って立ちゆかない」のあたりの提言が興味深い。


現代人への警鐘として「日本人はだんだん知的な負荷に耐えられなくなっている。Aが駄目となると『じゃあ、B』となる。論理の整合性やデータの検討よりも、わかりやすい結論を好む。日本人全員が何かにせかされているように見える」「『大地の持つ豊かな霊力に祝聖された空間は、そこに生きる人たちの生きる力を賦活する』という自明のことを現代人は忘れてしまっている」「『微かなシグナルの変化を感知できる能力』はすべての社会的能力の基盤。目に見えない、耳に聞こえない変化を『感じ取れる』力によって人間はさまざまなリスクを事前に回避し、デリケートなコミュニケーションを立ち上げることができる」という指摘は、耳が痛い…


熊野を通じて、日本の自然と日本人について「日本列島の自然は温和で、融和的で、共生可能なものとして人間を受け容れてくれる。自然と人間世界のインターフェースがとても柔らかい。だから、自然の大きな力を取り込むんために使ったインターフェースは機械ではなくて、身体だった。感受性を高め、運動精度を高めて、自然と人間世界の間を架橋できるだけの能力を開発しようとした」と述べるくだりは、共感できる。自分も身体性を一定度合い高めていきたい。