世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】武田砂鉄「わかりやすさの罪」

今年30冊目読了。フリーライターの筆者が、わかりやすさがもてはやされる現代に警鐘を鳴らす一冊。


筆者がひねくれ者なのはよくわかるが(笑)、それで片付けられない深さがあるように感じる。


現代社会の病理として「『どうしてこの私にわかるものを提供してくれないのか』という姿勢は『わかりやすさの罪』の最たるものだ」「今という時代は、こっちが理解できるもんを出してくれという生温い受動性と、こっちはそっちも理解してますから、という身勝手な能動性が、相手に対する最低限の尊厳さえ損なっているのではないか」「このところ、世の中のあらゆる場面で、話にオチをつけなければならない強迫観念がある」「正解を欲する。正解を共有できなければ怖くなる」のあたりは共感できる。
また、「理解のために、理解できないものを排除する、歓迎しない。この姿勢が『わかりやすさ』と抜群の相性を見せてしまうのは窮屈である」「どこまでも効率化が図られていく状態を、今を生きる人間として優れていると規定するのはまったく乱暴」という指摘も、行きすぎた社会の息苦しさをうまく掬っていると感じる。


わかりやすさに振り切らないほうがいい理由として「他者の創造や放任や寛容は、理解し合うことだけではなく、わからないことを残すこと、わからないことを認めることによってもたらされる」「人の心をそう簡単に理解してはいけない。そのまま放置することを覚えなければいけない。理解できないことが点在している状態に、寛容にならなければいけない」「わかりにくさを描くことの先に知は芽生える」「余計な話が含まれていたほうが、人と人は対話をしやすくなるはず。余計な話、無駄な話があるから、考える余白が生まれる」というあたりも、よく理解できる。


どのように、情報に触れるべきか。筆者の主張する「検索できるのは自分の知っていることのみ。そうならないよう、検索未満のうっすらとした記憶や興味を、特定の場所(新聞、本屋など)を徘徊することによって形にしたい」「偶発性をふんだんに用意しておかなければ、唐突な定義に翻弄されてしまう。情報を操作されてしまう。自分から検索サイトを翻弄させるくらいの気持ちで臨まなければ、あちらはこちらに『まるで偶然』を仕掛け続けてくる」「情報に対して受け身になりすぎることによって、思考の幅が萎縮する。あれとこれをこじつける力というのは、あくまでも自分で有していかなければならない」という姿勢は、自分も意識しているところで、共感できる。


そのほかにも「自分の放ちやすいように加工され、盛られ、整理された文句って、相手にはさほど響かない。人が読みたくなる文章というのは、これまで見たことがない、でも、それがあると知ってはいて、それについて語られているのを初めて見るもの」「本は、そして文章は、すぐには掴めないからこそ、連なる意味があるのだ」のあたりは確かになぁと思う。


筆者の結論が「結論を出す、というのは、そんなに優れたことなのだろうか。そう簡単にゴール地点を探さないほうがいい」というのは皮肉だが、なかなか頷けるところが多い。これは一読をお薦めしたい。

【読了】鈴木勇一郎「国鉄史」

今年29冊目読了。川崎市市民ミュージアム学芸員の筆者が、国鉄通史を分析する一冊。


関係者ではないのに、よくここまで調べたなぁ…という細かさ、わかりやすさ。通史として見るにはわかりやすいと感じた。


そもそも国有鉄道について「一般的な国鉄のイメージである全国一体のネットワークは、明治初期の鉄道創業期からあったものではなく、日露戦争後の鉄道国有化にその直接の起源がある」「ヨーロッパの国で国鉄が誕生するのは、20世紀に世界大戦を経験してから。日本が1870年代に国鉄方式を採用したのは、ずいぶんと先走ったことだが、これは近代的な技術や大規模な資本が必要な産業は、政府が作るしか仕方なかった面もある」と指摘。
日露戦争後に鉄道国有化が具体化したのは「日露戦争後の恐慌と軍事的要請」があり「鉄道国有化で生じた巨額の資金が、電鉄や電力業というった都市化を背景として成立した新興の分野に再投資され、急速に発達する背景となった」から、というのは面白い。そして「戦時中の国鉄は、物資の不足や激しい空襲にもかかわらず、最後まで輸送ネットワークを維持した。さらにその収益も、戦費をまかなう臨時軍事費に強制的に組み込まれるなど、国鉄は戦争遂行に大きな役割を果たした。戦時中は、大きな犠牲を払って国家に貢献したという意識が、その後の国鉄関係者の意識に長く残っていく」。


戦後国鉄の問題について「戦後の国鉄(40万人)は平時の帝国陸軍(29万人)をしのぐ規模の人員を常時抱えていた」「戦後の国鉄が政府直営から公社形態となったのはまったく占領軍の意向によるもので、日本側の事情によるものではない。なので、このときには鉄道のあるべき姿については、ほとんど議論されなかった」「二万キロの路線網と数十万の従業員を擁する巨大組織のトップに立つ総裁、と聴けば非常に立派な役職だが、実際には予算は国会承認が必要で、設備投資計画も鉄道建設審議会での審議が必要と、重要なことを決める権限は何もないポスト」「膨大な従業員を抱えながら『能率的な運営』と『公共の福祉』の両立を求められる上に、運賃も給料も自分では決めることができないということ自体に無理があった」としているのは『仕組みの問題』を明確に認識できて、わかりやすい。
また、国鉄崩壊に至る道筋の振り返りも「昭和40年代に入って鉄道に対する政治の影響力が強まっていく過程が、国鉄の経営悪化とパラレルに展開した。それは同時に、都市交通とローカル線→地域交通のあり方、新幹線→ナショナルネットワークのあり方、という21世紀の日本で大きな政治課題となる様相が出そろってくる過程でもあった。そもそも鉄道網をどう構築・維持するかということは、政治そのもの」「鉄道事業の公共性を発揮するためにこそ、国鉄改革の目的がある。その上で、将来的にも鉄道が主要な役割を果たしていく分野を①中距離都市間旅客輸送②大都市圏旅客輸送③地方主要都市における旅客輸送、に絞り込んだ」「磯崎総裁の当初の目論見とは裏腹に、生産性向上運動は、後藤新平が苦心して作り上げた『国鉄一家』意識の崩壊を加速する結果となった」「スト権ストは、ふたを開けてみれば、政府はスト権を認めない上に、トラック輸送によって大都市への物資も止まることはなく、国鉄はもはや物流の大動脈を担っていないという冷厳な事実があらわとなった。このときに『国鉄の終わり』が始まった」「スト権ストとその直後の運賃5割値上げという『暴挙』は、利用者の国鉄離れを決定的なものにした」と、適切に解説している。


新幹線についての記述も興味深い。「島秀雄は、需要が多い→線増が必要→一挙に建設するのが合理的→新線に特急・急行を集約→最新技術の列車を走らせる→広軌の高速列車を走らせる、という形で徐々に順を追って新幹線構想を提案していった」「大蔵省は、新幹線の経費が当初の倍になったことについて『国鉄に完全にだまされた』『国鉄は信頼できない』と不信感を強めた。このことは、1970年代以降に国鉄の財政状況が悪化してから、大蔵省の国鉄に対する姿勢に影響を及ぼした」「あくまでも在来線の別線と位置づけられていた従来の新幹線とは異なり、全国新幹線鉄道整備法(全幹法)にもとづいて建設される新幹線は、全国の各都市をつないで国土開発の核となるという新たな使命を与えられた」「国鉄分割民営化の大きな目的は、政治の関与を避けることにあった。しかし、全幹法という法律に基づいた新幹線網のグランドデザインと基本的な政策の枠組みは、JRと関係ないところで決められる」「整備新幹線の事業が進むことで、JRは地域輸送機関としての色彩を弱め、長距離輸送機関としての役割を強めることとなった」のあたりのストーリーを知らないと、どうにも現代が読み解けないのも間違いない。


ローカル線問題についての「特定地方交通線の廃止は、かつての日本の鉄道ネットワークのグランドデザインであった鉄道敷設法体制が、徐々に崩れていく過程」「都市圏での人口減少はまだ始まったばかりだが、地方の市町村ではすでに21世紀の初めから人口減少がかなり進んできた。地方のローカル線の沿線では、鉄道に乗る乗客が減るという以前に、そもそも住む人々が減っており、地域の課題を解決する力自体が衰えてしまっている」「地方ローカル線問題は個々の路線収支だけを考えれば良いのではなく、その地域の未来にどう向き合うのかが問われる」という指摘はそのとおりで『仕込まれた時限爆弾』をどうするか、はまさに国のあり方に関わる話。


余談ながら「1889年の東海道線全通は、1890年の初の衆議院選挙及び第一回帝国議会という画期的なイベントが控えていたから」「鉄道開業以来時刻の表記は、午前・午後で分けられていた。関門トンネル開業時のダイヤ改正の際に、24時間表記が採用され、現在までそれが続いている」のあたりは知らなかったなぁ…

【読了】孫泰蔵「冒険の書」

今年28冊目読了。インターネット関連のテック・スタートアップの立ち上げに従事している連続起業家の筆者が、AI時代のアンラーニングについて物語形式で書き記した一冊。


筆者は「教育と社会は両輪であり、社会を変えたければ教育も同時に変えないといけない」と主張し、その軸で数々の偉人との対話を展開していく。


現代に続く教育システムについて「義務感で学んだところで自分の身になるわけはないし、まんべんなくプログラミングなどを学んでも、実際のところつぶしなんてまったくきかない」「私達の心の中から追い出さなければならないのは、私達の心の中に巣食う『生存競争を勝ち抜かなければならない』という強迫観念」と批判。そもそも学校が「学校は、監視・賞罰・試験という3つのメカニズムの複合体で、生徒が自ら服従するよう、巧妙にできている」「学校が悪しきものであるのは、それが技能訓練と人間形成を無理やり結合しているから」「評価は、本人のやる気や励みになる限りにおいては好ましいが、それ以上になる時にはまったく好ましくない」と問題を抉り、解決策として「なにはともあれ、初めは自由に遊んでなれ親しむ。その後、深く極めたいと思った時に初めて『自分が基礎だと思うこと』を徹底的にみがく。このほうがよっぽど自然で、その世界に入りやすい」と提言する。


遊びの捉え方についても「本来、『遊び』と『学び』と『働き』はひとつのものだったのに、それがまったく別々のものだと分けられてしまった結果、すべてがつまらなくなってしまった」「遊びは、新しい学びや創造、発見などをするための本質的な活動だったにもかかわらず、ただの『エンターテインメント消費』になってしまった」と、斬新な視点で切り込む。


筆者は、能力信仰とメリトクラシー能力主義)を批判し、それを超える社会を作らねばならない理由として「①『学び』から『遊び』が分かれて、どっちもつまらないものになってしまっている②『能力』や『才能』という概念がやる気や自信を失わせてしまう③能力信仰やメリトクラシードロップアウトを生み出しやすい原因となっている④本来は必要のないペシミズムにおちいった不幸な子どもたちが生まれ続ける⑤最終的にはほとんどの人の仕事が人工知能にとってかわられてしまう」と指摘する。


問いと思考についての「思考には『これまで積み重ねたものを捨てることで、新たな思考が生まれる』という作用が根源的にひそんでいる」「今残っている複雑で大きな問題を解決するいとぐちは、答えようとすることではなく『核心を突く良い問いを立てること』」「イノベーションは、誰かがユニークな問いを立てて行動を起こし、あくなき探求を続けた結果、たまたま画期的な新しい発見や発明が生まれたもの」「小さな『問い』に始まり、『つくる』ことを通じて『わかる』ようになる。同時に『わからない』こともたくさん生まれ、そこからさらなる『問い』が生まれる。それを繰り返していくうちに、なにか『形になったもの』が生まれる 」という考察も、非常に共感できる。なるほどと思わされる。


否定的なコメントをした後で、筆者が前向きな言葉を投げかけてくるのは勇気が湧く。「『しなければならない』にしたがうのは思考停止のあらわれ。思考停止はかならず『手段の目的化』を生み出す」「何歳からでも、いつでも、今すぐにでも、自分を変えて行動することはできる」「『自分の人生は誰がなんと言おうと自分で決めるべき』。自分の頭で考え抜いて、自分で決めていれば、どんな困難があろうとも誰かのせいにすることなく、自分で乗り越えていくことができる 」「なにが役に立つかわからないんだから、世の中で良いとされているものに従わなくても、誰かが決めた評価軸に合わせなくてもいい」「世界は自ら変えられる。自分の人生をいきいきと生きていれば、それは幸せな状態。そのためには『未来に希望が持てること』と、『切りひらこうと思えば、実際に切りひらけること』の2つの条件が満たされなければならない」「『世界は自ら変えられる』とは『自分自身が変わること』」のあたりは共感できる。


人工知能時代だからこそ「人間が人工知能にひれ伏すことによって人間が『労働』から解放されれば良い」「物事をリフレーミングして新しい意味を見いだせるのは、動物でも人工知能でもなく、人間だけ。それこそが人間の役割。これからの時代の僕たちの仕事は、『社会にいかに無駄や余白を組み込むか』を考え、いつでもリフレーミングができるようにすること」という考え方は大事にしたい。


余談ながら「自立するとは、頼れる人を増やすこと」は、本当にそのとおりだと感じた。これは良書だ。

【読了】萩原さちこ「城の科学」

今年27冊目読了。フリーの城郭ライターで編集者の筆者が、個性豊かな天守の「超」技術を紹介する一冊。


城好きでないと、まず手にしない本だし、そうでないと読んでて楽しくないだろうな、という図書館で見つけた一冊。よくこんな本が出版されたものだ(笑)。


城と都市の関係について「新幹線が停車するような発展した都市には必ず城があるのは、城が領国の要であり、流通・経済・商業の中心地であったから。近世以降、城を中心に城下町が繁栄し、現代社会がつくられてきた。発展した都市だから城が残っているのではなく、城があるから都市が発展した」と述べるのはそうだし、「天守は壮麗なシンボルタワーであると同時に、それ以上に実戦のための防御施設としての役割を担っていた。見た目の美しさが大切なのは間違いないが、美観と実用を兼ね備えていることがとても重要だった」というのも納得。


他方、「軍事施設である城は、時間をかけて素材を厳選し、こだわり抜いてつくられる。ときには辻褄合わせのような技術を使い、ごまかしたりすることも。試行錯誤した、不完全さが詰まっている。生まれながら特別な存在意義を持って維持と管理がされてきた寺院建築とは異なり、天守は常にガタを抱えながら、時代の変化のなかでなんとか生き延びてきた建物」という観点は忘れられがちで、押さえておきたいポイント。


時代による変化についても、信長は「天主を建てただけではなく、城全体を高い石垣で囲み、恒久的な礎石建築を城に取り入れた。それまで戦うためだけにあった城には見せつけるという要素が加わり、存在意義までもがらりと刷新された」。それが家康の時代には「軍事施設であれば実用性さえ追求すればよく、絢爛豪華な天守など必要ないように思えるが、新領主の威厳と威光、さらには徳川政権の権力と新時代の到来を見せつけるため、強さと美しさを兼ね備えるのが、この時代の城のあり方」「家康の命により天下普請で築かれた城は、同一規格なのが最大の特徴。徳川の城は、統一化されているため実用がスムーズ。いつ誰が命を受けてもすぐに使いこなせる」となる、ということを頭に入れるとまた城の面白さが立体的になる。


個別にも「平成27年松江城天守天守としては67年ぶりに国宝指定された。大きな理由は、独自の建築技法が明らかになったこと、その建造年が判明したこと」など面白い記述は多いのだが、あまりにもマニアックすぎるので割愛。余談ながら「天守閣という呼称は明治以降の造語。おそらくは楼閣建築から天守が発展したという解釈から生まれたようで、俗語」は知らなかった…


間違いなく一般受けしないが、一般の人はこんな本を手に取るわけもない、か(苦笑)。

【読了】長谷川ヨシテル「ポンコツ武将列伝」

今年26冊目読了。タレントにして歴史マニアの筆者が、ポンコツと評される武将の実態と魅力に迫るちょっと変わった一冊。


かなりマニアックな本なのだが、そこから見える人物像、人の成功は何なのか、ということなど、なにげに考えさせられる。


小田氏治について「9回も城を落とされるなど敗戦を重ねたが、戦場で命を落とすことなく戦乱を生き抜いた」「何度も城を落とされているということは、何度も取り返しているということ」「百姓たちは、氏治以外の大名が城に入れば姿を隠し、年貢を納めなかった」。


源行家については「合戦では負け続けの武士人生を送り、軍事においては『無能』と称されてしまうが、『以仁王の令旨』を受けて源氏の挙兵を促し、理想の通りに平家を打倒してしまうあたり、交渉人や工作人としては『有能』」。


佐久間信盛については「困難を極める殿軍を得意としたが、名誉よりも自分の命や財産を大事にしたため、武者の道を外れた卑怯な者という評価を下され、最終的に織田家を追放されて寂しく亡くなってしまった。立場ある者である限り、勝負をしなければならない場面で退いてはいけない」。


織田信雄については「武将としてはポンコツだけど、どこか憎めない優しい人。そういう人物だったからこそ、『越中征伐』や『小田原攻め』で和平の交渉役を勤め上げられた」。


薄田兼相については「「ミスを犯して、職場や社会から叩かれた。それでも折れずに挽回のチャンスを待った。その一度のチャンスをものにして見事に名を残し、後世に物語のヒーローとして語り継がれていった」。


織田有楽斎については「武将としてはポンコツな部分が多かったが、有楽流という茶道の流派や国宝となった茶室を現代まで残し、文化人としては大きな功績を残した。自分の好きなジャンルをとことん突き詰める生き方は、現代人の我々に欠けている、豊かな生き方を提示してくれている」。


三英傑についても面白い。信長は「名将ではあると思うが、時々『大丈夫、大丈夫!だって俺だぜ』というような強い自信からくる脇の甘さがある。『俺に限ってそんなことは起きない』という自負心故に戦国時代を駆け抜けていくが、その自負心故に身を滅ぼしてしまう」。秀吉は「とにかく女好き」。家康は「追い込まれると切腹しようとする癖がある。一種の現実逃避ともいえるのでは。周囲の声を聴いて、もうひと踏ん張りした」とする。秀吉の酷さ(苦笑)。


軽いトーンながらも、なかなか心に響く指摘として「小さな目標や個人の目標ばかり気になって、大きな目標やチームの目標を忘れてしまう。また『怒られないためにやる』というような変なモチベーションで動くべきではない」「人間は複数のコミュニティーに所属して成立する生き物。物事の優先順位はもちろん大事だが、何かを絶対だと思ってのめり込んでしまい、他をおろそかにすると、身を滅ぼす結果を招く」「『諦めるな!』と口で言うのは簡単だが、それを具体的に行動に移すのは難しい」のあたりは鋭いなぁと思う。


ゆるい表紙のイラストと軽妙な筆致にかかわらず、意外な奥深さがあって楽しめる。これは当たりな本だった。

【読了】中川浩一「プーチンの戦争」

今年25冊目読了。元外務省交渉官の筆者が、ウクライナ動乱を分析しながら、日本のあり方を思考する一冊。


タイトルと、筆者の肩書きから期待して読んでみたが、自分にとっては期待外れ。冷静な分析と言うよりも、筆者の妄想をぶちまけるために表題で『釣った』ような中身だな…


戦争について「日本は三方で、海を隔て日本を敵視し核兵器保有する専制主義の覇権国家と対峙している。地政学的にも逃れようのない、世界で最も危険な国」「感情や思想を超えて、自分を護るために、家族を護るために、国を護るために戦う。それが戦争」「戦争を起こさないためには、私達の日常に、すでに平和を脅かす様々な要素やリスクがあることに気づく。そのリスクを見つけたら、すぐに声をあげ、皆と共有し、その芽を早めに摘むことが肝要」と触れているあたりは納得できる。


また、昨今の情勢につき、ウクライナ動乱について「ロシアが始めた戦争を止められない理由は、ロシアが安保理常任理事国として拒否権を行使できること、ロシアに武力で対抗できる旗振り役が今の国連加盟国にいないこと、アメリカやイギリスの民主主義の押しつけに反旗を翻す国々の台頭」としたり、「『民主主義国家が増えれば戦争がなくなる』との国家観は、『民主主義のために戦争をする』という恐るべき悪弊とジレンマを生み、そのジレンマの渦の中に日本も含めた世界中が巻き込まれ、逃れられなくなっている 」と述べているあたりも共感できる。ただ、そこに深い分析はないように感じる。


筆者が中国について述べる「中国製アプリは、必要以上にユーザーのデータを集めて、本人に許可なく中国にあるデータセンターに送り続けている」「日本で不動産を持っていれば、日本の永住権を得やすいというのは、不動産を買う中国人の間で半ば常識化している」のあたりの脅威は確かにそのとおり。で、どう対抗するの?という点は弱い。


筆者が領土について「領土問題を曖昧にして平和主義外交を続けるのは、リスクが大きく、そこが戦争の着火点となる恐れがある」「領土は『力』の源泉。国民が命を守り、生き抜く『基盤』」と主張することは分かる。また、「真の意味での専守防衛とは、相手の善意に期待する受け身の消極的発想ではなく、敵視する国の最高指導者に『侵略の意志を放棄させるだけの軍事能力と国家意志』を見せつけることのできる、実行力のある抑止力を持つこと」「民主主義国家は、専制主義国家に睨まれたら最後、隷属するか、呑み込まれまいと毅然と対峙するかのどちらか」「政府の役割とは、国民の間に広がる不安をやわらげ、安心を与えること」と言う国家観も理解できる。


しかし、日本の安全保障のロールモデルイスラエルだとして「①一家に一個核シェルター②培養肉で有事に備えた食の安全保障③水は技術で作る④食糧自給率は90%以上⑤中東のシリコンバレー⑥先進国第一位の出生率」とするのはあまりにも突飛すぎるし、そこに向けたロードマップも何もなく理想論をぶち上げでもどうなんだ?としか思えない。自分はお薦めしないな、という一冊。

【読了】橘玲「バカと無知」

今年24冊目読了。作家である筆者が「人間、この不都合な生きもの」について様々な観点から考察する一冊。


名古屋時代に知遇を得た人生の大先輩がお薦めしていたので、だいぶ時間がかかったが読んでみた。なかなかエグい内容で圧倒されつつ、疑問も持ちつつ。


筆者は、ヒトは徹底的に社会的な動物としたうえで「家族や会社、地域社会などの共同体に埋め込まれているから、わたしたちはこの社会的な制約の中で、なんとかして『自分らしく』生きられる物語を作っていくしかない」「ヒトは、自分が批判されることを過度に警戒すると同時に、集団からの逸脱行為をつねに監視し、自分より上位の者がそれを行うと、『正義』の名の下によってたかって叩きのめす。それと同時に、劣ったものに対しては、自分の優位を誇示するように進化した」とする。


そして、人間の思考の特性として「わたしたちは当然のように、被害と加害をセットで考えるが、被害者と加害者では同じ出来事をまったく異なるものと認識している」「わたしたちはつねに、『自分は正しい』という前提で生きている(『自分は間違っている』という前提に立つようになると、重度のうつ病と診断される)」は、確かにそうだよな…


バカの問題について「自分がバカであることに気づいていないことだ」は非常に厳しい。
が、筆者がそれの帰結として「地位をめぐって競争しているときに、高い地位につく資格がないことを自ら認めるのは致命的だ。こうして能力の低い者は、その事実を相手に知られないように、自分の実力を(無意識に)過大評価する。一方、能力の高い者は、相手も自分と同等の能力を持っているだろうと(当初は)想定する。なんの情報もないときに相手を見くびると手ひどいしっぺ返しを食らうことがあるし、共同体のなかで目立ちすぎると、多数派によって排斥される危険性があるからだ。その結果、能力に大きな違いがある二人が話し合おうと、賢い者が、バカにひきずられ、間違った選択をしてしまう」「バカを排除する以外に『バカに引きずられる効果』から逃れる道はない」と述べるあたりは絶望しかない…


自尊心についての記述も鋭い。「自尊心を巡る闘争ほどやっかいなものはない。面と向かって罵倒されたり、SNSで罵詈雑言を浴びせられることは、能の生理的反応としては、殴られたり蹴られたりするのとまったく同じに感じられる」「自尊心というのは、そのひと固有のパーソナリティというよりも他者との関係性で決まる」「私達はものごころついたときから、周囲に同調しつつも、自分を目立たせるという複雑なゲームをしている。わたしたちはみな自尊心が低く(同調する)、同時に自尊心が高い(競争する)ように『設計』されている」「ひとはステイタス=自尊心を守るためなら死に物狂いになるから、いくらでも自分を正当化する理屈を思いつく」のあたりは、本当に耳が痛い。


集団についても「人種差別は人間の本性ではない。本性は内集団と外集団に分割すること、すなわち『社会(帰属)による差別』」「脳の認知の限界を超えて、相手が匿名でも社会を成り立たせるためには、これ以外に方法はない」と鋭く分析。「内集団が成立するためには、原理的に、外集団が存在しなければならない。保守であれリベラルであれ、すべての共同体主義は『排外主義』の一形態」「殺し合いがもっとも残酷になるのは、遠く離れた集団同士ではなく、近親憎悪だ。日常的に接触のない相手は脅威にはならず、同盟や交易をした方がお互いにメリットがある」も、残念ながら人間の限界かもしれない…


人間の限界として述べられている「相手のことをとりあえず信用するのがデフォルトになっているのは、ヒトの本性が性善説だからではなく、能の認知能力に限界があるから」「人間は匿名の陰に隠れるとかぎりなく残酷になる」「夢の実現を強く願うと、脳はすでに望みのものを手に入れたと勘違いして、努力する代わりにリラックスしてしまう」「なにか悪いことが起きると、脳は、そこには原因があるはずだと(無意識に)考える。なぜなら、理由もなく不吉なことに出合うのはものすごく不気味だから」「記憶はある種の『流れ』であり、思い出すたびに書き換えられている」のあたりは、自分の実体験からも非常に納得できる。向き合いたくないことをズバズバ書いているな…


いろいろ思うところはある本だが、「わたしたちが無知なのは、現代社会がものすごく複雑だからだ。日常のあらゆる疑問に対して厳密な知識を得ようと思えば、2つか3つで人生が終わってしまう」は真実だと思う。
そして、生きる参考として「ぎすぎすした世の中に煩わされず、他者に『不道徳』のレッテルを貼って安易に批判せず、イヤなことがあっても『そのうちいいこともあるさ』と楽天的に考える。すくなくとも研究では、こらであなたの幸福度はずいぶん高くなるらしい」は大事な考え方。


良薬かどうかはわからないが、口に苦いし、考えさせられる一冊だ。