世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】吉岡圭子「鉄道と愛国」

今年14冊目読了。朝日新聞記者として日中関係を取材したジャーナリストの筆者が、中国・アジア3万キロを列車で旅して考えたことをまとめた一冊。


鉄道立国・日本。しかし、それは現代アジアからの見方とは大きく乖離していることを痛感せざるを得ない。


筆者は「鉄道は、国家と個人、政治と経済、歴史と現在が交差し、越境し合う場所だ」と、その存在意義を高く評価するものの、日本の新幹線商戦について「新幹線商戦は、技術や価格だけでなく、外交や国際宣伝力も加味した『知的格闘技』」「新幹線には日本社会の『熱』が宿る。同じく巨額の資金がうごめく国家プロジェクトでも、ダムや橋とは違う」「新幹線を日本の『象徴』ととらえればとらえるほど、高速鉄道商戦と両国の世論は切り離せなくなる」と、冷静になることを提言する。


他方、隣国・中国の問題点は「中国では未知数な技術を用いて人を乗せて走る実験ができる。命の値段が安いのだ。同時に、この強引さが中国の科学技術の発展を速めている面もある」「スマホ決済システム、シェア自転車、ネット通販、そして高速鉄道。中国のネット上で飛び交う『中国の新四大発明』には、なぜか高速鉄道まで含まれている。かつては『師匠』と仰いだ欧州や日本の鉄道技術力への敬意は薄れ、いつのまにか自らの発明にすり替えてしまった」「中国の鉄道博物館は、いずれも列強に鉄道の利権を奪われて管理された屈辱の歴史を強調する。21世紀に入ってからは日欧など外国から技術を取り入れて基礎を固めたあと、独自技術を磨いて築いた高速鉄道網が驚異の発展を遂げる成功物語へと転じる。まさに、中国共産党による建国が、アヘン戦争以来の『国恥』を中華民族の復興へと塗り替えたとする歴史観そのもの」と記述している。本当に信用できない政権だなぁとしか思えない…
そんな中で、中国の高速鉄道モデルも危険だと指摘。「国内外を問わず、経済成長の継続が前提だ。巨額の資金を投じても、お客が増えていれば回収できる。周辺の不動産開発でも稼げる。その循環が止まったとき、負担を背負うのは誰か。危ういゲームが続く」は2024年2月時点でもそうだと感じる。経済成長にブレーキがかかると中国は一気に歯車が逆回転するような危うさがある。


新興国にとって高速鉄道は、ただの乗り物ではない。政治家は発展の象徴や自らの実績のレガシーとして、国民にアピールする道具に使いたがる。敗戦から復興し、高度成長期にあった日本が、新幹線に乗り物を超えた夢とプライドを託したように」


筆者は、取材に基づき、日本の援助というものについて「援助は感謝されるためにするものではないし、それはこだわりすぎの議論。そこに必要性があって、双方の依存関係の上に利益を受ける人たちがいるから援助する」「ODA円借款を投じるなら、日本政府は国民に向けてきちんと説明する必要がある。新幹線の輸出そのものを否定するつもりはないが、不透明な事業の進め方には問題がある」「日本自身がやるべきことがもっとある。自らの文化の発信に対して、どれだけの力を注ぎ込んでいるだろうか。せっかく親しみを持ってくれている人たちの関心に、どう応えているだろうか」と、地に足を着いた考え方を展開する。
そして、つらいことではあるが「日本あるいは日本人は自画像を更新する必要がある。日本がアジアで唯一の高速鉄道を造り、走らせることができた国であった時代は、とうの昔に過ぎ去った。中国や韓国もそれぞれのやり方で造り、走らせている」「アジアの国々にとって日本は『老いて硬直した』存在に見え始めている」という指摘は本当にそのとおりなんだろうな・・


そんな中でも「鉄道は、市民の足だ。国家のみえを張り合う道具ではない」「鉄道は自由で開かれた社会でなければ本来の機能を存分に果たせない」のあたりは、やはりどんなに世の中が移ろいゆきても、鉄道というものの価値を感じさせてくれる。

【読了】清田隆之「よかれと思ってやったのに」

今年13冊目読了。恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表の文筆家が、男たちの「失敗」の構造に迫る一冊。


筆者がいみじくも「自分の残念な部分が浮き彫りになって落ち込んでも、それが自分という人間の現在地なのだと認め、ここから出発するしかない」と言うとおり、男としては本当にダメージがでかい本。でも、故に向き合うしかないか…


男が小さな面倒を押しつける構造について「①小さな面倒を回避しようとする姿勢②他人事感と性別役割分業意識」「自分が楽になった分だけ相手の中にネガティブなポイントがたまっていく」は納得。さらに「イキる背景には『手軽に快感をゲットできる』という動機があるが、代償として『信用を食い潰す』」は、自分に自覚がなくても、いや、ないからこそ気をつけないと…


筆者は「いくら聞き手が『自分は話を聞いている』と思っていても、話し手のほうに『ちゃんと相手に話が届いた』という感覚が生まれない限り、それは話を聞いたことにならない」と指摘。相手の話をしっかり聞くためには「①話されている内容を論理的に読解する②想像力を働かせながら相手の感情に寄り添う③自分の言いたいことはいったん我慢し、口も挟まず、価値判断も下さない」はそのとおり。本当に自分は聞けていない…


男女の違いについての「男性は『思い通りにならない』ことが原因で不機嫌な態度を取ることが多いのに対し、女性は『思いが伝わらない』ことが不機嫌な態度の理由になることが多い」「女性は概ね、話し合いを『目の前の問題(あるいは潜在的な問題)について互いの意見を述べ合い、そのすりあわせを図る行為』と捉えていたが、男性は話し合いを『相手の機嫌をなだめるための行為』と考えている人が少なくない」も、肌感覚として理解できる。


では、どうすればよいのか。筆者の提案の中で「『やれる人がやる』の原則に立ち返り、自分がやるべきこと、人に頼ってもいいことをしっかり見定め、手間や面倒を誰かに押しつけていないか、そのつど、想像力を働かせていく」「真摯な謝罪とは『あなたと関係を続けていきたい』という意志を示すこと」「ともに生きていくためには調整やメンテナンスを逐一していかなければならない」のあたりは非常に心に刺さる。


そのほか、「感情体験とは『できごとに感応する身体的把握』と『社会的文脈に基づく言語的理解』のふたつが結びついて成立する」「変化を嫌うことは『豊かさへの無関心』」という指摘が鋭いと感じる。恋バナベースではあるものの、一般生活にも置き換えやすく、とにかく耳は痛いが世の男性たちは一読すべき一冊だ。テイストはとても軽いが、中身は重い…

【読了】林健太郎「否定しない習慣」

今年12冊目読了。リーダー育成家にして合同会社ナンバーツーエグゼクティブ・コーチの筆者が、いつも『いい人間関係』をつくることを提唱する一冊。


畏友がお薦めしていた本なので楽しみにしており、期待通りの面白さ。


否定を「『相手の言葉や考え、行動の結果を認めない』『相手の話や意見を打ち消す、聞かない、奪って違う話をする』『相手のミス・失敗を責める』『悩みの相談などに対して真剣に向き合わない』」と定義。「『否定』の前提は、『よかれと思って』。この考え方が、否定を正当化する」と、その問題を解き明かす。


否定が悪いのは「もっともやってはいけないのは、相手の存在そのものを否定すること」であり、日本人が否定されることに慣れていないのは「①ムラ社会的な考え方によるもの②NOと言う直接的な表現がない」と指摘する。


否定しないマインドの考え方を「①『事実だから否定してもいい』という考え方はしない②『自分は正しい』という思考はしない③『過剰な期待』はしない」として「意見の違いは否定せずに、目的を共有する」「『相手を責める』という行動の選択肢はキッパリ捨ててしまう」「コミュニケーションは『感情』ではなく『未来の着地点』で考える」「否定は『上から目線』が生み出している」と解き明かすところはとてもわかりやすい。


では、否定しないテクニックはどういうものがあるのか。「肯定して、そのときの自分のポジティブなプラスの感情を伝える」「言葉を返す前に能動的に黙る。相手の言葉が終わった後の数秒は、相手を否定しないためのリスクヘッジの時間」「『相手がそう言っている』事実は承認しても、同意する必要はない」「もし否定してしまっても、『否定するつもりがなかったこと』を伝えてリカバリーする」「相手の言葉に対して『わかる、それ』と言い切るのではなく『わかるような気がする』と言うようにする。だって、あなたはその人本人ではないから、相手の気持ちの全部なんてわかるはずがない」のあたりは参考にしたいし、相手に否定を感じさせない伝え方として「①面白おかしくする②逃げ道を残す③期待をほのめかす」というのも実体験からして納得だ。


そのほかの技術として「相手をその気にさせる潤滑油の言葉は『さすが』という3文字」「会話のとき、自分は『いるだけでよい』」「相手の目を見るのは『話し始め』『相手の話の句点のタイミング』『話しおわり』で十分」のあたりもなるほどなぁと感じる。


心がけとして「相手の否定のうち、いらない部分はすべてザーッとこぼしてしまう」「見聞きしたものは『解釈』であって、事実情報とは違う」「実際にやってみることが『学んだことを本当につかむこと』につながる」は参考にしたいところ。とにかく、実践あるのみ、だな…

【読了】馬田隆明「解像度を上げる」

今年11冊目読了。東京大学FoundXディレクターの筆者が、曖昧な思考を明晰にする『深さ・広さ・構造・時間』の4視点と行動法を解き明かしていく一冊。


ついつい適当に仕事をしがちな自分にとっては、これは大きなヒントになるかと思って手にしたが、なるほど非常に奥が深く、勉強になる。


そもそもの問題として「解像度が低い状態で業務や意思決定をするのは、霧のかかった中で射るべき的が見えないまま、当てずっぽうに打ち手という矢を射るようなもの」「疑問がない、質問ができないのは、解像度が低いときの典型的な症状」「私たちはシステムの複雑さから目を背けて、因果関係や法則を単純化して観たがる」と指摘されると、もう何も言えない…そのとおりだ…


解像度の構成要素を「『深さ:原因や要因、方法を具体的に掘り下げる』『広さ:考慮する減員や要因、アプローチの多様性を確保する』『構造:深さや広さの視点で見えてきた要素を、意味のある形で分け、要素間の関係性やそれぞれの相対的な重要性を把握する』『時間:経時変化や因果関係、物事のプロセスや流れを捉える』の4つの視点 」とし「まず深さを確保することで、解像度を上げるサイクルが回り始める」と説かれると、自分の浅さを指摘されているようでとても痛い…


まず、解像度を上げるためには「日常的な認識の『自動運転モード』をいったんオフにして、『マニュアルモード』で物事を見なければいけない」「高い解像度には『情報』と『思考』と『行動』の組み合わせで至る」「解決策の善し悪しは課題に大きく依存する」とする。
そして、ポイントは「『まず行動する』『粘り強く取り組む』『型を意識する』」とし「行動量を増やすことで、質の高い情報と思考を獲得するサイクルが回り始める」「少なくとも200時間を情報と思考と行動に使わなければ、最初のそこそこ良いアイデアに辿り着くことはできない。優れたアイデアに到達するには1000時間必要」「まず解像度を上げるべきなのは顧客の『課題』とそれに応じた『解決策』」だと言及する。


よい課題の条件は「①大きな課題である②合理的なコストで、現在解決しうる③実績を作れる小さな課題に分けられる」とし『深さ』の視点については「課題を捉えるとは、症状でなく、病因を突き止めること」「内化(読む、聞く)と外化(書く、話す、発表する)を繰り返すことで深めていく」「細部にこそ、深い洞察のヒントがある」と述べる。
そのために「事例のサーベイには、最低100の事例を集める」「インタビューでは、顧客の意見ではなく事実を聞く。50人に聞いてようやく入口」「解像度は一気に上がることはそうない。そのため、モチベーションの維持が重要な要素」と、『やりきる』ハードルを指摘。確かにそうだよな…


広げる上での基本は「『前提を疑う』『視座を変える』」とし、視座を高くするには「①2段階上の人の視座から観る②視座の高い人と会話する」「『体験する』『人と話す』という広さの探索にきちんと時間と資源を割り当てておくことで、中長期的な生産性は最大化される」だと言うが、これが難しいんだよな…
構造を見極めるには「渾然一体となっているものを要素に『分ける』、それぞれの要素を『比べる』、要素間を適切に『関係づける』、重要でないものを『省く』」「目的に合った適切な行動ができる単位まで分ける」「抽象度を合わせることで比較が可能となる」「物事にどのような構造を見出すかは、どれだけ多くの構造のパターンを知っているかが大きく影響する」とし、「時間は『変化』『プロセスやステップ』『流れ』『歴史』の視点で解像度を上げる」とする。


具体的レベルにおいて「課題の解像度を上げるとは、その課題の研究者やマニアになるということ」「実験という行動をすることによって、解像度を上げるための独自の情報やきっかけを得られる」「行動することで、周りの環境が変わり、新しい機会を作り出す」「理想を生きなければ、行動しなければ、未来の解像度は上がっていかない。未来に生きて、欠けているものを作る」というアドバイスがあるのも、とても心に響く。


そのほかで心に残ったのは「インターネットの普及やデータの増大、数字で議論することが高く評価されるにつれて、足で稼ぐことの価値が相対的に高くなっている」「独自の情報は、自分の現場での経験から生み出されるか、人からもたらされることが多い」「上達のためには、行動しなければいけないし、本気で行動しなければなかなか身につかない。思考は運動のようなもの」のあたり。とにかく、実践しないと何にもならない。ある意味、とても厳しい本だと感じる…

【読了】尹雄大「聞くこと、話すこと。」

今年10冊目読了。テレビ制作会社を経てライターになった筆者が、人が本当のことを口にするときはどういうときか?を考察する一冊。


とにかく洞察が深い部分が多く、すぐに活かすノウハウではなく、染み入るような深みがある。噛み締めながら読むべき本だと感じるし、一読で追われるのか?とも感じる。


言葉の罠について「多くの人が気にしている『うまく』『ちゃんと』が落とし穴だと思う。何かができないとしたら、できないだけの理由があるのだから、『うまく』『ちゃんと』を取り除いた方が自分が何につまづいているかはよく見えてくるはずだ」「技法に寄りかかってしまうと、話されたことそのものではなく解釈に基づいて話を聞いていることに次第に気づけなくなる」「言葉の使いどころを知らなければ、本領を発揮できない」という指摘はそのとおりだと感じる。
ある意味、現代の生きづらさを「私たちはいつの頃からか意味や理屈が見当たらないことに耐えられなくなっている。なんでも情報に置き換えないと不安で仕方ないからエビデンスや客観性を求める。それらをたくさん集めたら足場を固められるから自信がつくはず。そう考えはしても、それらを手にすればするほど、常に外部の意味や根拠に依存していないと落ち着かない自分になっていくので、実際にはますます自信を失っている」「慎み深さの裏側には『そうしないと罰される』ことへの恐怖が張り付いている」「聞く側にとってわかりやすい筋立てを語り手に求めるとき、ひとつの線的な物語に収斂されることのない無数の人たちの声の厚みが聞こえなくなる」という切り口で抉るところは本当に感銘を受ける。


言葉を文字面で捉えることの危険は普段から感じているが、「意味は『言っていること』であり、意味以前の心中に鳴り響く音は『言わんとしていること』。このふたつの違いに明敏であるには、意識的『集中』の聞き方では追いつけない」「互いが『あなたを知りたい』と重い、だからこそ相手に何かを率直に尋ねるとき、そこに信頼が生まれるのではないか」「『相手から相手を観る』とは、その人の話をその人の話として聞くことである。私の予見を通してではなくして」と綺麗に言語化されると圧倒される感じだ。


また、共感をもてはやす風潮も「その人が共感を望んで話していることは、必ずしも切実に聞いて欲しい願いではないのではないか。共感では届かない、もっと深いところに自覚しきれない訴えがあるのではないか」「本人は感情移入しているつもりでも、実は自分を投影しているに過ぎない。相手ではなく鏡を見ているのに等しい。そうなってしまうのは、共感することを理解だと思っているからではないか」と一刀両断。「感情移入は、自分の中にあるものと自分とは異なる相手に似たものを見つけたときの『同じだ!』という驚きと喜びがある」という『似て非なる』指摘も鋭い。


怖れという強い感情についても、深く「怖れとは、職業や地位、あるいは自分や周りがこしらえたイメージにふさわしく『こうであらねばならない』と振る舞うときに、あるいは、それらの社会的立場を失うのではないかと思うときに生じる」「私がものごとを決める。このシンプルさに立ち返るとき、人は恐怖から離れ、人生は開かれる」「不安は対峙する相手ではなく、浸りきることで決して不安そのものに自身がなれない体験を通じ、不安から離れていけるのかもしれない」と考察する。他方、「新しいことを怖れるのは本能のなせる業だ。ただし、人間は安定性と同時に好奇心、つまり不安定さを得ることに自由を見出す生き物でもある。だからこそ怖れからくるドキドキと未知へのワクワクは、身体としては胸の高まりという現象として同じでふたつは区別がつきにくい。どちらを選ぶかによって怖れか期待かの解釈は変わる」もまた事実。そうなんだよなぁ…


さらに、人が同じ事を繰り返す罠について「『どうして言われて傷ついたことを言ってしまうのか』と言っていることでその人が言わんとしているのは『言われて傷ついたからこそ言わざるを得ない必然性が私にはある』ではないだろうか」「反省が本当に反省になっているのか。切実な願いが葛藤への道に通じていないか。真摯な反省のはずが、これまでの自分を改めることには実態としてなっていなかったり、切実な願いを抱くほどに、そうはならない自分により深く苦しむというのはよくあることだ」「誰があなたに『それが正しい』と教えたのだ?」「同じ事を繰り返しながら異なる結果を求めるのは狂気の沙汰」と述べているあたりは嘆息させられる。すごい示唆に溢れているな、この本。


それ以外にも気になったのは「禁止と抑制の言葉から信頼は生まれない」「自身の身体のありようを『言葉で話す』ことができるようになると、コミュニケーションが上手にはかれるようになる。言語化にはそういう効能がある」「個別具体のものを見てそれに囚われて、善し悪しをつけるのではなく、全体を観る」のあたり。とにかく刺さる言葉が多く、さらりと読もうとすることは避けた方がいい。理解した風も、絶対に勿体ない。そんな良書だ。お薦めいただいた先達に、改めて深謝。

【読了】マリア・レッサ「偽情報と独裁者」

今年9冊目読了。ノーベル平和賞を受賞したフィリピンのジャーナリストである筆者が、SNS時代の危機に立ち向かうことを力強く提唱する一冊。


とても分厚い本だが、フィリピンが独裁者に占拠されていく様、そしてそれにソーシャルメディアが恐ろしい役目を果たしていることがまざまざと浮き彫りになっていて、一気に読んだ。これは目を背けてはいけない。


筆者の基本価値観「法律を盾に、正義の名前を借りて行われる暴政以上に非道なものはない」「記憶がいとも簡単に書き換えられてしまう、過去のなかのいまこの時、あなたが何をするかが重要だ。真実のために、あなたは何を犠牲にしますか?」「沈黙したまま、周囲に迎合しているだけでは何も変わらない。声をあげることこそ、何かを作り出す行為」は、本当に心揺さぶられる。
やるべきこと「1)つねに学ぶという選択をせよ。2)恐怖を受け入れよう。3)いじめっ子に立ち向かう(『沈黙は共謀と同じ』)」「重要なのは、成長し続けることなのだ」も、言うのは簡単だが、実際にやっている筆者だからこそ心に刺さる。


独裁者とその取り巻きについての指摘「独裁者の戦術は、軍や、反軍事組織の勢力が、民主化運動に潜入し、運動を骨抜きにしてから暴力を扇動する」「怒りと憎しみは、道徳的憤怒とひとつになったとき、暴徒の支配に変化する」「無限に繰り返された嘘は、ある問題についての大衆の見方を変える。世界の指導者たちは、ソーシャルメディアの個人ユーザーを通じて、権力闘争を有利に進める方法を発見した」「権力を重視する人々は、ここぞという正念場で責任を回避しようとする。何より助けが必要とされる場面で、支援を引き上げる」は、実際に戦っている筆者の言葉なので重みが強い。


それに立ち向かうために「透明性、説明責任、一貫性は、機能する民主主義を構築し、独裁者のカルト的な力に抵抗するうえで欠かせない」「ジャーナリズムがあるからこそ、事実は生き延びられる。しかしそれには共同体が応えなくてはならない」「独裁者に立ち向かうには、正直になり、鎧を外し、相手の立場になり、感情に流されず、恐怖を受け入れ、善を信じるのだ。チームを作り、自分の影響力がおよぶ範囲の足固めをする必要がある。明るく輝く点と点を繋いで、網を編んでいこう」と述べるところは本当にそうだが、やるには勇気が必要だなぁ…


ソーシャルメディアとテクノロジーについて「どういうわけか、テクノロジーのおかげで、私たちは時間を節約できるようになると同時に、時間を奪われてしまった」「偽情報に操られるのは、たいてい、十分な教育を受けておらず、インターネットの仕組みにあかるくない人々」「報道機関はテック系企業に取ってかわられ、テック系企業は、事実・真実・信頼を守るという門番の役目をほぼ全面的に放棄している。これらの企業は権力と手を結ぶことを歓迎した。そうすれば市場へのアクセスと成長が保証されるからだ」「ソーシャルメディアにかぎらず、現代社会におけるあらゆるテクノロジーの干渉は、『客観性』よりも『センセーショナリズム』を好むように私たちを条件付けしていく」「嘘は、そのあとで行われるファクトチェックよりもはるかに拡散される。そして、嘘が暴かれるころには、嘘を信じる人々はたいてい自分の意見を変えようとしなくなっている」と触れているところは、自分が組み込まれてしまわないように留意したいところ。知っていないと巻き取られてしまう。


フェイスブックの恐ろしさについて「フェイスブックの言動は3つの前提が下敷きになっている。①情報は多ければ多いほど良い②情報は速ければ速いほどよい③悪しき行いは、フェイスブックのより大きな目標(金を儲けろ)に資するのであるなら、許されるべきである」「『より多く』『より速く』という考え方に内在する危険が、私たちをディストピアに導いた。私たちの心はがらくたであふれかえり、思考の明晰さは失われ、集中力は散漫になり、集団としての考えより個人の考えが優先されるようになった」「フェイスブックは、プロパガンダの広告塔にプラットフォームを提供して、暴言を吐き散らかすことを可能にしたばかりでなく、彼らを優遇した。なぜなら、怒りこそが、フェイスブックが収益をあげるからくりの伝染性通貨だからだ。暴力がフェイスブックを金持ちにした」は、実際にフェイスブックを使っており、裏切られた筆者の強い思いを感じる。そして、こんな企業が様々なデータを押さえていることに恐怖を感じる…


では、どうすればよいのか。筆者が提唱する「感情を揺さぶり、すぐにでもシェアしたり、行動に移したくなったりする投稿を読んだら、心を落ち着かせよう。速くではなく、ゆっくり考えよう」「弱みをさらけだせば、最強の絆と、心を奮い立たせる可能性が作り出せる」「正直であることは、自己評価、自己認識、他者への思いやりの深さを知るところからはじまる。この世であなたがコントロールできるのは、自分だけだ」ということを実践できるか。難しいが、やるしかない、ということか。


がんと闘病する親友の言葉「あなたが生きた一日は、決して繰り返されることのないあたらしい日。だから、自分に残された日々を大切に過ごして欲しい」は、本筋ではないが非常に重い。

【読了】茂木健一郎「IKIGAI」

今年8冊目読了。脳科学者の筆者が、日本人だけの長く幸せな人生を送る秘訣「生きがい」について深く考察する一冊。


もともと英語で書いた書物を和訳するという逆輸入版だが、なかなか興味深い。ただ、共感できる部分とそうでない部分がそれなり明確にあるので、少し気をつけて読みたい本だと思う。


筆者は、生きがいについて「<生きがい>を持つことで、成功につながることがあるのは事実だが、成功は、<生きがい>を持つための必要条件ではない。<生きがい>はどんな人にも開かれている」「<生きがい>を持っていることは、幸せで活動的な人生を築くことができると感じる精神状態にあることを指す」「結局人生は、一回しか起こらないことで満ちている。人生の出会いにある一回性の認識とその喜びが<生きがい>という日本語が作られた基礎」と、その力を指摘。
さらに、生きがいと関わりの深い「<こだわり>は本質的に私的なものであり、自分がやっていることへのプライドの表明で、<生きがい>の中心的要素を構成する。<こだわり>は、ものすごく小さな細部を尋常でなく気にする、その方法のこと」とする。


生きがいの特徴「<生きがい>にとって、誰かとつながっているという感覚があること、バランスの取れた食事をしていること、何かに対して信仰心を持っていることは重要」「勝者だけが<生きがい>を持っているわけではない。みんなが強調して踊っている人生という現場では、勝者と敗者は、全く対等に<生きがい>を持つことができる」「<生きがい>を持つことで良いことは、強靱になり、立ち直る力がつくこと」のあたりは、非常に理解しやすいところ。


筆者の述べる<生きがい>の五本柱「①小さく始めること②自分からの解放③調和と持続可能性④小さな喜び⑤<今ここ>にいること」は概ねそうだと思う。③だけ微妙かな。それだと人の目を気にすることになってしまうし、持続を考えると⑤に支障する。


そのほか、原則論として「生産的で創造的な仕事をするためには、朝が一番良いということは、脳の生理状態の知見に照らしても理にかなう」「幸せになるためには、自分自身を受け入れる必要がある」「自分の<生きがい>を追うときは、好きなだけ、自分らしくいればよい」のあたりはシンプルなんだけど、故に難しいんだよな、との念を禁じ得ない。


共感できる部分は多いが、「人生は、首尾一貫性が必要なのだ。一貫性と人生の目的意識を持つことが、最終的に、小さな<生きがい>を輝かせる」は全く共感できない。そんなに人生は単純じゃない、寄り道こそが人生だと思うのだが…