世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】森岡毅「USJを劇的に変えた、たった一つの考え方」

今年38冊目読了。ユー・エス・ジェイCMOにして、窮地にあったUSJのV字回復の立役者が、成功を引き寄せるマーケティング入門を目指す一冊。


なかなか人気の本なので、図書館で相当順番待ちしたが、ようやく手にすることができた。なるほど、それだけ売れるわけだ、と思わされるわかりやすさと熱さを感じた。


マーケティングの基本として「消費者視点の会社になれば、自ブランドの価値を上げて業績を好転させることができる」ことを挙げ、「日本企業の多くがマーケティングのキャリアを伸ばすような構造ではない」「日本でマーケティングが遅れた理由は、日本の技術志向、規制による競争阻害、終身雇用制などの事情」と、日本でのマーケティングの遅れを指摘。他方、「売れたものが良いもの、という時代に生き残っていくためには、会社はマーケティング優勢で技術力を活用する」「技術力があるのにマーケティング力に問題がある、と自覚することから反撃は始まる」と、日本の将来は逆に明るいと言い切るのは凄い。


そもそも、マーケティングを扱うマーケターについては「マーケターの最初にすべき最重要な役割は『どう戦うか』の前に『どこで戦うか』を正しく見極めること」「先にブランド価値を高めておいて、価格弾力性をできるだけ小さくしておく」「マーケターに向いている特性は①リーダーシップが強い②考える力が強い③EQが高い④精神的にタフ」と考えを述べる。


そのうえで、売れるということについて「『売れる仕組み』は消費者とブランドの接点をコントロールして作る。『消費者の頭の中を制する(自ブランドの認知率を高め、ブランディングする)』『店頭を制する(購入を最大化するため、配荷率、山積率、価格の展開に注意する)』『商品の使用体験を制する(消費者価値を上げる商品開発をマーケティングがリードする)』」と、3つのポイントを挙げる。


戦略、戦術については「戦略的に考えるとは、目的→戦略→戦術の順に沿って大きいところから考えること」「最終的な結果を大きく左右するのは、消費者との最前線である戦術の強さ」「戦況分析を本気でやる理由は、市場構造に逆らって確実に失敗する『地雷』を避けるため、そしてできれば市場構造を自分の味方につけられるような戦略がないかを考えるため」のあたりの記述が興味深い。


日本の特性を「日本という奇跡のような高信頼社会を支えるのは、『お互いに分かち合う』価値観と、日本が豊かである事が柱」「日本人は、情緒的に戦えることで戦術は強いが、情緒がはいり込むことで逆に戦略が弱い」と書いているあたりは凄く共感できる。が、「合理的に準備してから、精神的に戦う」は、実際にはかなり難しいことだ…


理屈っぽいだけかと思うが、さにあらず。「自分起点で周囲を説得し倒して、人を動かすことが重要。自分が信じる正しい方向に、自分以外の全員を説得して巻き込んでいく気概が必要」「目的は、誰かから与えられるものではない。自分自身で考えて目的を提案できるようになっておかないと、自分起点で組織を動かす人間にはなれない。できるだけ目的設定に関与していく姿勢が大切」のあたりは、筆者の熱量を感じる。
そして、仕事への向き合い方として「『好き』な仕事でなければ成功することは難しい」「会社はあなたの強みに対して給料を払っている。強みを伸ばして成功する」「克服すれば自身の強みを大きく活かせる弱点は積極的に改善に取り組むべき。多くの人にとって弱点克服が難しいのは、意識変化と行動変化のタイムラグに耐えられないから。本当に変わりたいのであれば、すぐには変われないことを最初から織り込んで覚悟を決める」のあたりは参考にしたい。


「自分の人生の主役は自分しかいない。失敗を恐れず、目的を持ってポジティブに人生を歩んでいく。そうすれば、きっと我々は自分が思っているよりも高く飛べるはず」この言葉、胸に留め置きたい。

【読了】安田元久「北条義時」

今年37冊目読了。元学習院大学学長の歴史学者が、北条義時の一生を読み解く一冊。


大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にハマっているので、ついついこの本も読んでみた。「義時の生涯を語ることは、武家政権の基礎確立の歴史を見ることに他ならない」というコンセプトを、1986年に書き上げていたのが凄い。


平家政権の崩壊については「平清盛は彼を支持した新興の武家勢力そのものによって崩壊の一途をたどっていた律令体制を否定せず、むしろその枢機にたつことに努めた」「貴族政権内部にその政治的地位を求め、貴族社会の中でその政権を確立することに努めた平氏は、その目的を達したとき、もはや地方に成長した在地武士、とくに豪族的武士を、直接的にかつ強力に把握する途を失っていた」が原因と指摘。
それが「義時ばかりでなく、北条一門が頼朝を支援したのは、たんに平氏を追滅して源氏の政権を樹立するためではなかろう。頼朝を利用することによって、真に武士階級の利害を代表する政権を作り上げることこそ、彼らの終局の目的であった」という坂東武者の動きとなる。


義時の気質については「北条氏の事績を称揚するため粉飾をまじえる傾向が強い『吾妻鏡』にも、少壮気鋭の義時の武勇、あるいは戦場における彼の武勲が見当たらないという事実は、むしろ義時がはじめから戦略家、あるいは政略家としての資質を具え、一般の東国武士の如く武威の顕現のみをこととするものとは、性格を異にしたことを物語る」「冷静にして果断、大事件に際しての沈思の深さと、断行の迅速さなど、その天性の故に、頼朝に信頼された。しかしこのような天資に、一層の磨きがかかるには、頼朝との日常における親近関係が大きな役割を果たしたのではなかろうか。また義時におけるすぐれた政治的洞察力、あるいは、まさに陰険とまで見られるところの政治的謀略の能力は、少なからず政治家頼朝の影響力のもとで培われたもの」と分析。「義時が頼朝の信頼を得たのは、御家人の分際を充分にわきまえた上で、将軍頼朝に対する忠勤を励んだから」と述べる。


源氏政権の危うさについては「豪族的領主と、文筆を主とする側近職員は頼朝の独裁制の中で互いに相矛盾し、御家人の相互間も個人的対立があった。すべての矛盾と対立は、頼朝という結び目に結集することで一応の安定が保たれていた。それ故に、その頼朝自体の存在が失われたとき、その矛盾・対立が表面化し、また激化するのも必然」と、頼朝のカリスマぶり故の不安定さを指摘。二代目の「頼家にとって、時政や義時は祖父及び叔父であるばかりでなく、将軍が寵愛するグループとも密接に繋がり、他方、東国の豪族的武士層の利害を代表すべき立場を示すところの、きわめて扱い難い存在」であったり、三代目の「北条氏としては実朝を将軍として、幕政を自由に行うために、頼家の存在を否定しなければならなかった」「実朝の初政において北条・大江両氏が他の御家人に抜きんでて、幕政の枢機に任ずる地位を占めていた」と、冷静に見抜く。


そして、執権として「義時が執権となったときの問題は、一つには武家政権内部における統制力の復活、一つには武家政権を公家政権に優越させ、名実ともに全国的政権として確立させること」という状況にありつつも、「義時が成長していったのは、峻厳な態度と、温情ある人間性との見事な調和」という力で実権をゆるぎないものとしていく。


承久の乱に向かう際に「京都貴族たちの偽らざる本心は、政治権力機構としての鎌倉政権の存在を否定するところにあった」という思いがあった以上、この対立は不可避だったのだろう。「軍事力の上からみれば義時の勝算はまず間違いないであろう。しかしここに一つの、しかも最も重大な障碍があった。それは『一天万乗の君』に向かって攻撃をしかけることの不利である。中世の武士たちの意識の中にも、天皇上皇に向かって弓を引くことを、道徳的な悪であるとする傾向は強く、決定的であった」という中においても、敢然と立ち向かった義時の精神力には感服する。
戦後処理においても「幕府が後鳥羽上皇の罪を考えていたことは明らかであるが、皇室を正面の敵とすることは赦されない。幕府としては、あくまでも君側の奸を除くのが第一次的な目的である」と、配慮をにじませる。


結局、義時とはどのような人物だったのか。「一か八かの関頭に立たされ、そこには天皇に敵対する恐怖感と、政治家的理性との内心における争いを克服したのちの、かえって冷静な判断が生まれていたのではなかろうか」「義時追討の宣旨の前にも、ほとんど動揺を示さなかった幕府の統制力は、この軍事行動を通じて、一層強固なものとなった。しかも、今や幕府の統制の中心が、形式的な将軍よりも、むしろ実際の政治的独裁者たる執権義時であることが、現実に示されたのである」「義時は、すぐれた武家政治家であり、変革の時代に、新興の階級を指導していく政治的指導者にふさわしい、真面目な人間であった。彼には政治家に必要な長所ばかり目立って、人間的にどこか間が抜けるとか、大きな欠陥は見当たらない。それだけ、彼は人間味の乏しい、また面白みの感ぜられない人物として印象付けられる」というのは、面白い洞察だ。


大河ドラマと並行して、ぜひ、押さえておきたい一冊だ。

【読了】井沢元彦「義経はここにいる」

今年36冊目読了。歴史作家にして推理小説家の筆者が、現代に起こる架空の事件をもとに、義経北行伝説への新しい解釈を試みる一冊。


分厚い小説で、ちょっと読むのに重さを感じたが、読み始めてみると歴史好きにはたまらない内容。現代劇のような話と歴史とのクロスオーバーが楽しめて、グイグイと引き込まれてしまった。さすが、三谷宏治お薦め。


一応、推理小説でもあるので、ネタバレは回避しつつ、気になったフレーズを。


源平合戦当時の時代認識として「12世紀後半には、京・鎌倉・平泉の三つの地方政権が鼎立していたのだ」「義経は三つの大罪を犯した。その一、壇ノ浦の合戦において幼少の安徳帝をこともあろうに入水せしめてしまった。そのニ、皇位継承に欠かすことのできない三種の神器のうち、神剣をこれまた海に沈めてしまったこと、その三、本来非戦闘員である水夫・船頭を、合戦のルールを踏みにじって射殺すよう命じたこと」を述べるのはなるほどと感じる。


義経の悲劇とその後の判官びいきについては「王朝の創始者を補佐した英雄というのは、末路が悲惨。優秀な軍人、戦略家というものは、戦乱を平定し権力を確立するまではぜひとも必要な道具だが、一旦平和になると邪魔な存在になる。必要なのは国家を運営する官僚の方だ」「言い伝えは二つの型がある。一つは、いわゆる真相はこうだ、権力者が嘘の発表をしたのに対し、民衆の側で真実を口伝に伝えているという型。もう一つは、逆で、真相は違うのだが、何らかの理由で真実が伏せられ、別の、わかりやすい、他人の納得しやすい話が伝えられていくという型だ」などと考える。
そして、歴史を後知恵で捉える危なさについて「学者の考え方というのは、まず公文書を信じる。そして、それに反する説というのは確かな証拠が無い限り信じない」「自分が幽霊や死後の世界を信じないのはかまわん、それは個人の自由だ。だからといって、過去の人もそうだったと勝手に断定するのはいかん」のあたりは確かにそうだと感じる。


日本人の死生観「罪なくして無惨な死を遂げさせられたものは必ず怨霊になる。日本史を貫く原理といってもいい」「鎮魂しない限り怨霊は祟り続ける。怨霊が出そうになったら何らかの鎮魂措置をとる。これは当時の常識だったんじゃなきかな」「無実の人間は死ななかったと考える。死ななければ怨霊にはならない。したがって祟りもない。もっとも安上がりで確実な怨霊排除法じゃないか」のあたりは興味深い。また、宗教観についても「仏教は悟りを求め、キリスト教絶対神による救済を求める。悟りというのは、心の完成された状態だ。だからそれを求める方法はいくつもあるし、それにたどり着いた者が釈迦の他に何人いてもいい。ところが、キリスト教の神は絶対神で、他に神はいない」は納得できる。


そして、大胆な仮説として「金色堂は、藤原四代によって栄華の象徴として営まれた後、頼朝によって霊廟として完成された」「鞘は刀身保護のため、確かにそれもあるだろう。しかし、使う人間の側から考えれば、それがあるのは抜き身のままじゃケガをするからだ。つまり、鞘は人間保護のためにも存在する」のあたりはとても面白かった。


ストーリーのカギとなる部分「もし本当のことをいっているのにあ、周囲の人間からウソつき扱いされたら、冷静さを失う。物事を客観的に見られなくなる」は、筆者の人間洞察力に共感できる。


新幹線「ひかり」のグリーン個室で電話をしたり、寝台特急「あかつき」が走っていたり、と、なかなか時代を感じながらも、今読んでも非常に楽しめた。

【読了】香取照幸「教養としての社会保障」

今年35冊目読了。厚労省で年金局長や雇用均等・児童家庭局長等を歴任し、内閣官房内閣審議官として「社会保障・税一体改革」を取りまとめた筆者が、社会保障とは何か、そして日本社会の直面する課題と解決の道筋について解き明かしていく一冊。


出口治明お薦めの一冊だったし、そもそも社会保障はわかっているようで全然理解していないので、読んでみたところ、相当読みごたえがあった。
 
そもそも、社会保障とは何か。「社会全体の活力が自己実現を目指す一人ひとりの市民の営為によってもたらされるものだとすれば、個人の自由な人生選択と、リスクを恐れずに持てる能力を最大限に発揮する機会を公平に保障する社会こそ、我々が目指すべき社会」「年金制度や医療制度を始めとする社会保障の諸制度は、市民一人ひとりの自立と自己実現を支えるための制度」と、その設計思想をまとめたうえで「近現代国家の社会保障の機能をひとことで表現すると『民生の安定』」「社会保障という形で、所得を再分配することが社会全体の安定につながるから、この制度がある」と、その意義を説く。


日本の皆保険制度は奇跡だ、として「復興時期にいち早く皆保険・皆年金制度をつくった先人の先見性、社会保障制度が社会の分裂を防ぎ、格差の広がりを防ぎ、社会の安定と経済の発展を支えている」と指摘。「現行の社会保障制度の基本的な哲学は『自助』を基本に『共助』で補完する、ということ」であるが、「制度の全体像=マクロの風景と、市民一人ひとりにとってのミクロの風景画、物凄く乖離している。そこに難しさがある」とも述べる。


そんな日本の奇跡は「もともと、地域社会や家族の基盤がしっかりしていて、企業も福利厚生を手厚く手当していた。そのため、日本の社会保障の給付は現役世代には薄く、高齢者中心となった」とのことだが、社会が変化してしまい「今後20年から30年という期間が、労働力人口が減るのに高齢者は増え続けるというもっとも難しい時代」に入ってきてしまった。結果「子供も生んで、子育てもして、仕事もして、と、とにかくなんでもかんでも女性にやってください、と言っているのが今の政権」という状況になってしまっている。
結果「人口減少社会に直面している我が国がいま考えなければならないことは、経済縮小への対応と消費縮小への対応」という状況においては「社会保障だけではなく、経済政策も成長戦略も、若い世代の可能性を支える、という考え方を中心に組み立てたほうがいい」という状況に陥っている。さらに悪いことに「世代で見ると高齢者層に資産が集中し、高齢者層の中でも特定の富裕層に集中している。しかもそのお金が動いていない、世の中に出回らない、というのが現状」「縮小する一方の消費を促すには、将来の生活の不安を取り除くことが一番の特効薬で、それが社会保障の本質的な役割。が、それが適切に機能していなければ、過剰貯蓄という事態に陥り、今の日本はまさにその状況」と、出口が見えない状況。


財政規律の点では「一般歳出の半分が社会保障費、ということは、毎年の財政赤字の半分は社会保障が原因」「日本の危機的財政のことを考えずに社会保障の議論はできない」という点にも触れる。


では、どうすればよいのか。「3つの視点①世界の中での日本:同時代=共時の視点、②日本の独自性:歴史=通時の視点、③官と公の視点、が必要になる」としつつ「社会を覆っている、経済や社会の将来への不安、拠り所の喪失・目的と役割の喪失が生む日常の中の不安、政治不信・アンビバレント志向が生む制度や政策に対する不安が強い」「不安の背景にあるのは安心社会の揺らぎ、グローバル化構造改革、社会の不安定化、危機に瀕する国家財政がある」という状況では一筋縄ではいかぬ。
必要なことは「転換期にあるという自覚、経済と社会保障を対立的に考えずに安心と成長の両立を目指す、人への投資・知識集積による社会・産業・経済の活性化」だと主張。
今やるべき、ということについては「日本という国に信頼というブランド力があるうちに、人への投資を重視する仕組みを早く実現しなければならない」「ポピュリズムのような一点突破ですべてが解決することはない。確実に、一つひとつを積み上げ、全体の改革につなげていく。それこそが本当に改革」と悲痛な叫びともとれる言葉を述べる。


最後に、筆者は行政官に必要な力として3つを「実態把握能力:①現場と接した『経験』から生まれる『人や社会に対する想像力』、②相矛盾する様々な事象を分析・理解し解を導く『専門知』、③人間としての『感性』」、「コミュニケーション能力:『人の意見を聞く能力』+『自分の意思・意見を人に正確に伝える能力』=『言論による合意形成~人を言論で説得する能力』。大前提は、相手を認め、信頼すること」「制度改善能力:問題を正確かつ客観的・包括的に理解する能力、最適解を見出し実効ある具体的解決策を組み立てる能力、関係者の合意を形成する能力、それを確実に実施に移していく能力」と読み解く。これ、社会人なら誰でも必要で、自分は全く至らないところだらけ…深く反省する次第。

【読了】砂川文次「ブラックボックス」

今年34冊目読了。自衛隊勤務経験のある筆者の2022年芥川賞受賞作。


コロナ禍で働くバイシクルメッセンジャーが、自分の衝動と向き合うのだが、途中から一気に転調する。あまりのことに、にわかについていけないが、それでも読み進めると、コロナ禍における閉塞感、無力感、その中で人はどう生きるか、というテーマを投げかけてくる非常に力強い小説だと感じる。


ネタバレ回避で、心に残った言葉を。


鬱屈したコロナ禍の日々の中では「この道をこう行くぞ、と決めるよりもなんとなく走っていた方がうまく回るときがある」「こんな日々を積み重ねた先にあるのは、やっぱりゴールじゃないという気がしている。どんな日々を積み重ねたら納得できるゴールがあるのかは分からない。ひょっとすると積み重ねるという行為はゴールから遠ざかっていくことなんじゃないか、とも思える」「だいたいこの気分というやつはほとんど生理と連動している」「遠くに行きたいというのは、要するに繰り返しから逃れることだった」「似たような一日を積み重ねていると、何か事件でもない限り特定の日を思い出すのは難しい」のあたりが共感できる。


生きるにあたっては「優劣の基準は中身ではなくて外側に占められていたのかもしれない」「痛みに耐える方法は、そこから目をそらすのではなく、直視することだ。見れば見るほどにだんだんと痛みは分解されて客観視できるようになる」は、確かにそうだろうな。


そして、窮極「どうなるかは誰にも分からない。それでいい」というところに立てるかどうか。本当に難しい世の中を生きている、ということなんだろうな…

【読了】L・カッソン「図書館の誕生」

今年33冊目読了。図書館の起源と、その発達について書き著された書物。


記述が詳細すぎるので、読んでいて疲れたのが事実なのだが、図書館ユーザーとしてはかなり興味深いことが多数書かれていて、面白い。


本の始まりについて「ナイル川の土手沿いにパピルス草が生えていた。その葦からエジプト人は一種の紙を作った。それは質的に優れていたが、脆かった。メソポタミアの川では、土地が良質の粘土を産した。結果として粘土板が標準的な材料になった。扱いにくく、かさばるものの、持ちが良い」「1000年紀の半ばほどになって中世初期に時代の幕が上がったとき、現代の本のように作られた形態上での綴じ本が、巻子本に取って替わっていった」のあたりは、背景があって発達するということを学ばせてくれる。
そして、今のような書籍になったのは「キリスト教徒による綴じ本の愛好は、おそらく、綴じ本そのものが始まったと思われる場所、すなわちローマで始まったのであろう。巻子本をしのぐ利点は容量だった。つまり、巻子本の外側の面は空白のままでああったのに対し、綴じ本の各紙葉は、現在の書物がそうであるように、その両面に文字が書かれていたという事実から生ずる利点である」ということ、と述べられると、確かにな…と思う。


図書館の起源について「図書館の設立者は、前12世紀末のアッシリアの支配者、ティグラト・ピレセル一世」「公共図書館は、ギリシア人の登場を待たなければならなかった。ギリシア人は図書館を成立させるための要件、つまり高いレベルの読み書きの能力と、知的努力への持続的関心という要件を備えていた」などは、全く知らなかった。
そして、「文化的不毛地帯である場所に人を集めるには、知識人たちをうまく説得することが必要だった。プトレマイオス家がアレクサンドレイアの図書館を設立したのは、彼らのためであり、プトレマイオス一世の創案」「公開図書館は、市民からの寄付によって支えられていた」「今日、図書館が書籍を入手するのは、大部分が購入によっており、若干のものが寄贈によっている。ローマの公共図書館では、若干は寄贈によったが、ほとんどは写本を作ることによってであり、購入は、仮にあったとしてもごく少数」という『知への希求だけではない』図書館の成り立ちについても、なるほどと感じる。


図書館で本を検索することの多い身としては「アレクサンドレイアの図書館の学者たちに我々がお陰を蒙っていることの一つは、組織づけの方法としてのアルファベット順」「キュレネのカッリマコスの『目録』は包括的である点でまさに最初。彼はギリシア語のすべての著作物の体系的な紹介を、一揃いの巻物で提供した」「個人図書館しかなかった時代、自分の所有していない本を見る必要の生じたときには、仲間の蔵書群を頼りにした」のあたりも面白い。


そして、娯楽として「文字の嗜みのある人びとは、読書を実利的な目的には限っていなかった。エジプトには時間つぶしのために読書する人びとが数多くいた」「浴場図書館の読者層はまず第一には、そこでの娯楽として、つまりボール投げをしたり、くつろいだ会話に耽ったりすることの代わりとして本に向かう人々からなっており、入浴をなんらかの勉学と結びつけることを好都合とみる専門家や知識人は、単に二次的な読者層にすぎなかった」という読書の歴史も感じることができた。


良書だとは思うが、万人受けはしないだろうな…

【読了】永井路子「北条政子」

今年32冊目読了。ベストセラー作家の筆者が、北条政子の人生を通じて鎌倉初期を描きつつ「一人の女性」である主人公の心の揺らぎを描き出す一冊。


NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に感化されて読んでみたが、主人公が「北条政子を、一般的な女性として描こう」とした意図が強く出過ぎて、歴史好きとしては逆に感情移入できず、なんとなくモヤモヤした読後感。


 とはいえ、このあたりの歴史を物語調でおさらいするには十分な内容。ネタバレも何も、歴史ものだから当然の流れなのだが、実朝殺害で止まってしまう(尼将軍の、承久の乱に際しての演説がない)のは非常に消化不良感が強い。


北条政子については「人に悩みをうちあけたりする政子ではないのだ。その強い気性だからこそ、数年間の波風をしのいでここまできたのだし、それが爆発すれば、こんどのように、とんでもないこともしでかしてしまうのだ」「おろかなまでにひたむきで、またそのゆえに多く傷つかねばならない…。考えてみれば、これまでの自分の生涯は、つねにその連続ではなかったか」という人物像として描き出す。


鎌倉幕府についての「長くおいでになってはいけません。鎌倉というところはね、いったん疑ったり憎んだりした人のことは、決して許さないのです」「ときには俺の情を殺してまでも、武士のこの集まりを守らねばならない。他のどの肉親であろうとも、その集まりを乱そうとしたものには、俺は死を命じるだろう。それが棟梁のつとめである。あるいは冷たいやつと言われるかもしれない。が、それでもよいと俺は思っている」「権力は妥協を許さない」のあたりの言葉も、なかなか重たい。


「ぎりぎり追い詰められたとき、---くよくよしてもはじまらない。ふしぎと腹がきまるのだ」


結果的に鎌倉幕府を仕切ることになった北条氏については「機敏さ、周到さのおかげで、北条氏は、みごとにチャンスをわがものとした。彼らはあえて非情な策をとった」の言葉がズバリと評している。現代から見ると、盤石な執権体制に感じられるが、鎌倉初期にはどう転ぶかわからなかった、ということがよくわかる。


人生訓としては「意地はいけない。意地で生涯をきめちゃいけないな。あとできっと後悔する」「人間の約束ほど、心もとないものはないんだ」「われ知らず目をそらせてきたものと、まともにむきあうことのおそろしさ!」「失敗を繰り返し、悔いを重ねながら生きていく―それが人生なのかもしれない」が個人的に心に響いた。