世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】垂水雄二「悩ましい翻訳語」

今年31冊目読了。主に科学分野の翻訳を行う翻訳家の筆者が、科学用語の由来と誤訳を探る一冊。


なかなかマニアックな中身だが、案外読み応えがあって面白かった。確かに、翻訳語は魔窟だよなぁ。


翻訳語の難しさについての「訳語の選択は異文化コミュニケーションの根幹にかかわるもので、歴史的にも漢語から日本語への翻訳に際して、多くの先人を悩ませてきた。しかし西洋語から日本語の翻訳は、言語学的・文化的な背景がまるで異なるため、さらに大きな困難がともなう」「学者にとっての文献は基本的に漢文だった。杉田玄白の『解体新書』の翻訳はオランダ語を日本語に訳したのではなく、漢文に訳した。そこには、同じ漢字を使うことによる誤解の可能性が常に存在した。さらに厄介なのは、最初の英華辞典をつくったのも、英和辞典をつくったのも、宣教師たちであったこと。中国語と日本語に関しては同じ文字を使っていることからくる安易な流用が、誤った訳語の定着に関与していた可能性は非常に大きい」という指摘はなるほど納得だ。


動物系で知らなかったこととして「英語のlocustは、バッタ類のほかにセミの意味もある」「dolphinは、イルカと訳してなんの問題もないように思えるが、英米文学では魚のシイラ(ハワイではマヒマヒと呼ばれる高級魚)を指すことが多い。ヘミングウェイの『老人と海』の初期の翻訳では、シイラがイルカと訳されていた」「リムスキー・コルサコフの楽曲『クマンバチの飛行』は本当は『マルハナバチの飛行』が正しい」「バンドウイルカは正しくはハンドウイルカ。字は『半道』で、古くから中国から能登半島までの日本海沿岸で使われていた呼称だが、鯨類教授の提唱が誤ったこと、言葉の響きがいいことから広く受け入れられるようになった」「ホンソメワケベラは、ソメワケベラより細めの体なのでホソソメワケベラという和名がついたが、この『ホソ』が誤植によって『ホン』となり、いつのまにか定着してしまった」「ゴキブリは、『ゴキカブリ』が脱字によって『ゴキブリ』となっていて、それを教科書が採用してしまったために、正式な和名として定着してしまった」のあたりはなかなかびっくり。
さらに「抗生物質antivioticsは、実際には細菌にしか有効でなく、ウィルスやその他の病原微生物にはほとんど効果がない。本来なら抗菌物質(antibacterial)とすべきだった」「マニュアルというのは、ラテン語のmanus(手)を語源としており、手動、手作業という意味で、もともとは、精神的、理論的なものへの対語だった」のあたりも、そうなのか、と驚嘆する。


漢字にも罠がある。「中東地方から中国に渡来した産物には、胡(正しくは北方や西域の異民族の総称であるが、こうした用法では、現在の中東地域を指す場合が多い)の字がついている。胡瓜、胡桃、胡麻といったものはみんなそうだ。だが、地名がいつも正しい産地を示しているとは限らない。日本で唐の字のつく作物、唐黍(トウモロコシ)、唐辛子、唐芋(サツマイモ)、唐茄子(カボチャ)などは、すべて中国を経て日本に伝わったが、どれも中南米の原産で、大航海時代にヨーロッパにもたらされ、そこからインドなどを経てきたもの」「和名はもともと漢字で表され、場合によって読みがルビで付されていた。戦前の漢字カタカナ混じりで書かれた論文では、地の文と区別するために、生物名はひらがなで書くのが普通だった。戦後、国語改革によって漢字ひらがな混じりの文章が推奨されるのについれて、動植物名はカタカナ書きが通例となった」は、なるほどと思う。
ドイツ語も難しい。「キューティクルは、ドイツ語でクチクラ。そのほかにも、ドイツ語でオルガナイザー(英語ならオーガナイザー)、エネルギー(エナジー)、ヒエラルキーハイアラーキー)などもそうだ」って、まぁ確かにそうだが、普段は気にしない…
人名でも「エルキュール・ポアロは、フランス語を話すベルギー人なので、こう表記されるが、英語ではハーキュリー・パイロットという発音になる」「Hepburnは、当時の日本人にはヘボンと聞こえたのだろうし、自らもそう記しているのだが、この同じ綴りを持つ題詠が女優はヘップバーンと呼ばれた」「映画監督のイングマール・ベルイマン映画女優イングリッド・バーグマンはどちらもBergmanである」は言われれば…という感覚。かくも翻訳は難しいといことか。


余談ながら、脳科学好きとしては「ニューロンのfireを『発火』と訳すのは、どうみても誤訳。このfireは映画などで軍隊の指揮官が大砲や銃の一斉射撃を命ずるあの『ファイアー』に他ならない。『発射』と訳すべきところを誰かがfireの字面にとらわれて、発火と誤訳し、それがまさに燎原の火の如く脳科学者の間に燃え広がってしまった」が笑えた。そうなんだ…