世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】竹内正浩「新幹線全史」

今年108冊目読了。地図や鉄道、近現代史をライフワークに取材・執筆を行う筆者が、「政治」と「地形」で新幹線の歴史を解き明かすことを目指した一冊。


この本は本当に興味深く読めた。それにしても、本当に政治と地形に翻弄されてきた歴史がよくわかる。全ての新幹線について緻密に供述しているが、やはりメインは東海道新幹線


もともとの弾丸列車計画との関係が強いので「戦前の新幹線計画が、戦後に実現した東海道新幹線と大きく異なる点は、貨物列車を多数運行する予定だったことと、機関車方式を採用したことである。機関車方式だったのは、電化が一部区間に制限されていたことによる要因が大きかった。静岡〜名古屋間は外洋に面した海沿いの区間が多く、敵艦船からの艦砲射撃による配電施設破壊の危険を避けたのである」「戦前の東京の駅計画は、市ヶ谷案に絞られつつあった。乗り換えの便利さ、防空上の問題、設計・施工の難易度、工事費など、どれを取ってもほぼ満足できる点が評価された」「戦後、東京駅の候補地は東京駅、品川駅、汐留駅の3案に絞られた。東京都と国鉄の溝はなかなか埋まらず、東京駅の八重洲口にホームを設けることで決着している」ということになったのだろうな。


新横浜について「戦前、横浜駅乗り入れを断念させた工事上の難点は①防空上不利②横浜の代表駅の位置として適当でない、現行の駅位置では発展が見込めない③密集地通過④半径1,500メートルの急曲線を生じ、距離も長くなる⑤東横線高架に阻まれ、貨物取扱設備設置困難」「戦後の新幹線計画では、東神奈川駅が新横浜駅の候補だった。これは、新幹線の始発駅が新宿付近になることが前提だった」というあたりは知らなかった…また、浜松も「天龍川から浜名湖にかけて、新幹線らしからぬ曲線が右に左にうねっているのは、路線を巡ってさまざまな微調整を重ねた結果。浜松駅の位置が二転三転した原因は、明治時代の東海道本線建設まで遡る。停車場が市街地から離れることを憂慮した地元住民の誘致運動により、不自然なまでに線路を城下町に近づけて設置されたのが東海道本線の浜松駅」という歴史があったとは…
政治駅と呼ばれる岐阜羽島駅についても「昭和39年までの開通厳守という強い縛りと、米原口の北陸本線の連絡からすれば、選択肢は米原を経由する関ヶ原ルートしかあり得なかった」「岐阜一区は、岐阜市を地盤とする立候補者が多かったが、県内第二の都市である大垣市にも当落を繰り返していた自民党の候補者がいた。もし大垣市内に新幹線駅が設置された場合、その人物が新幹線誘致の功績を誇ることは容易に想像が付く。大野伴睦にとっては、特定政治家の色のついた大垣より、誰も地盤にしていない(ということは大野色が強い)羽島のほうが都合がよかったのではないか」と、最新の調査をもとに供述している。
自分の中で疑問だったことについても「新幹線が琵琶湖岸を通らないのは、地質が不良で軟弱地盤が多いため、主として標高90m以上にルートを選定することとした」「当初、限られた駅しか停車しない『超特急(ひかり)』は京都駅を通過する設定だった。ところが市長や市議会、商工会議所などが陳情を繰り返した結果、開業直前の8月18日の国鉄理事会で京都駅への全列車停車が決定している」のあたりで明らかになるのはすっきりする。


山陽新幹線についても「戦前の計画では、東京~下関間のうち、東京~姫路間を昭和24年度に開業する予定だった。姫路までの先行開業を目指したのは、第十師団司令部の所在地だったこととおそらく無関係ではあるまい」「兵庫県内の新幹線駅の多さは、いわば、新幹線寝台夜行列車構想の『遺産』というか置き土産のようなもの」「戦前の計画のように、姫路以西の区間を一気に開業するのであれば、途中駅としての『新岡山』もありえたかもしれない。ところが山陽新幹線は新大阪~岡山の先行開業と決まり、岡山以西については開業が見通せない状況だった。そうした事情が考慮されて、既存の岡山駅に併設する方針になったのかもしれない」ということは知らなかったな…東北・上越・北陸・九州・北海道などの新幹線についても知らないことだらけだったが、あまりに膨大になるので興味のある方は本書をぜひ。


新幹線が大きく変容するのは列島改造計画によってである。「東海道新幹線の成功で、新幹線に対する見方が一変する。『新幹線の必要性』の中身が変質したといってもいい。輸送量増大という鉄道の厳しい現実を解決する手段としての新幹線ではなく、国土開発の牽引役としての位置づけである。鉄道の輸送量が増えたから建設するのではなく、その高速性に着目して、大都市からの人口回帰や工場移転の起爆剤としての効果を期待したのである」。しかし「21世紀に生きる我々にとってみれば、当時の新幹線計画が、うたかたに消えた大盤振る舞いの空手形だったことが見てとれるだろう。実現しようとすれば予算がいくらあっても足りないし、仮に建設できたとしても維持する費用を想像しただけで気が滅入る」。事実「昭和48年の秋、オイルショックを堺に、日本国内の雰囲気はがらりと変わってしまった。ここに新幹線計画は大きな曲がり角を迎えることになった。しかも国鉄自体が天文学的ともいえる巨額な累積赤字を抱え、新しい新幹線どころではなくなった」となってしまう。
本当に、新幹線というものが必要なのか否か。それは、当然、本来の目的である「輸送」が全てである。今一度、そこに警鐘を鳴らす良書だなぁと感じるし、緻密な調査には頭が下がる。


そのほか、なるほどなぁと思ったのは「鉄道新線の建設の是非や鉄道政策全般を左右する重要な諮問会議として、戦前の日本には『鉄道会議』なる存在があった。鉄道会議を主催する議長には大正期まで陸軍の参謀次長が代々就任していた。有事における鉄道と軍事(兵站)の関係が密接だったことを示す好例である」と、磯崎叡・国鉄総裁の「新幹線の新線建設は、交渉といっても、大部分はさまざまなルートで持ち込まれる案の断り役」「実際に断り役をやってみて感じたのは、代議士パワーよりも、地元の住民パワーの強さだった。東北の水沢駅の新設や広島県下の尾道か福山かなどでは、郷土愛が高じて感情論にまで発展してしまった。憂鬱な毎日だった」のコメント。鉄道というものが、いかに日本人に浸透していて、その上位機関である新幹線の影響力の大きさを改めて感じる…