世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】仲尾宏「朝鮮通信使」

今年55冊目読了。日朝関係史を専門とし、京都造形芸術大学客員教授の筆者が、江戸日本の誠信外交を司った朝鮮通信使について掘り下げた一冊。


壱岐対馬に関心が強くなって読んでみたら、なかなかこれが面白い。国境の島であるが故に、しっかりと日本史が息づいていることを感じる。


朝鮮通信使は歴史教科書に出てくることはなかなか少ないが「朝鮮国王と徳川将軍の間に交わされた文言を見れば、双方が少なくとも建前として、互いが対等で信義を通わす相手として認識していた」というもの。
そして、江戸の外国窓口といえば長崎だが、「江戸時代の対外窓口は、琉球、長崎、松前対馬であったが、対馬の『朝鮮口』には、他には見られない多様で多彩な儀礼の交歓や情報・文化の往来があった」「中国に通ずる東アジアの文物交流の回廊を形成していた。長崎とは別の東アジアの情報ルートを形づくっていた」というのは知らなかった。やはり対馬というのは本当に歴史の交差点だ。


秀吉の朝鮮出兵にあたって「対馬の宗氏は朝鮮側に、秀吉の要求は『入明のために仮に道を借りる』ものだと説明したが、中国と冊封関係にある朝鮮国が承知するはずもなく、1592年の文禄の役が開始された」「この戦争が悲惨を極めたのは、非戦闘員である無数の民衆を巻き込んだことである。朝鮮側では、在地の貴族である両班に鼓舞された各地で決起した『民衆の義兵』が戦闘に加わったこととにもかかわって、略奪・放火、民衆の略取と拉致連行、そして鼻霧などの残虐な行為が日本軍によって行われた」。
しかし、二度の侵略は失敗し「倭寇の跳梁とヨーロッパ勢力の狭間で動揺し始めていた東アジア世界に進出して、明帝国の覇権に挑戦しようとした秀吉政権の目論見は無残に打ち砕かれた。それとともに、日本と朝鮮の間には容易にいやしがたい傷跡が残された」。


このような独裁者の横暴は、後処理のほうが大変である。「対馬では領主の宗氏も、配下の家臣団も、朝鮮との交易による利益を主たる財源にして財政が成り立っていたから、国交回復とまではいかないとしても、何としても朝鮮との貿易再開の交渉が急がれた」は、本当に切実だっただろう。
そして、その中でも「朝鮮側は戦後処理の使節ではあるが、威儀と礼儀をつくした使節を送り出した」「徳川政権にとっては、いわゆる戦後処理をひとわたり終えることになった。それは当時、家康が構想していた東アジア全域への通商・通交関係の拡大を一歩進める上で足手まといになる課題が消滅したことになる」と、それぞれの思惑はありつつ、国交回復に近づいたのは冷静な姿勢が双方にあったからだと感じる。


虚々実々あった朝鮮通信使との交流で活躍したのが対馬藩雨森芳洲である。筆者は、彼を高く評価している。「雨森芳洲といえば、対朝鮮外交の表の立役者などといわれることなきにしもあらずだが、目立たぬ陰の立役者であり、また気苦労のいる地味な仕事を忍耐づよく積み重ねて、相手の信頼を得ることができた人物」「彼の行動原理の第一は、まず相手をできるだけ正しく認識するということである。かつての武威をふりまわすことなく、対馬のおかれている厳しい現実にそって、冷静に対応することを求めている。自国の文化を基準にして、他国・他民訴区の文化をあれこれ批評する事はよくない、と断言している」「芳洲が説いた『誠信の交わり』は『実意と申す事にて、互いに欺かず、争わず、真実を以て交り候を、誠信とは申し候』という説明がついている」などは、現代にも繋がる冷静な姿勢だと思う。


正直、ほとんど知らなかった『朝鮮通信使』と日本の交流。しかし、「朝鮮通信使が往来した二百年間は東アジア地域、とりわけ日・朝・中の関係が相対的に長期にわたって安定した時代であった。それはいくつかの不整合を残しつつも平和・不戦の回廊であり、自国・自民族中心の小中華意識とあらがいつつ相互の自他意識を克服していった過程でもあった」「国と国との信頼関係の醸成には、人と人との交わり、文化の相互理解が大切」というのは、今の複雑怪奇な21世紀の国際社会においても、基礎となる部分であろう。歴史に学ぶことの大事さを、改めて感じた。そして、知識がないと考えられない…浅学を恥じるばかり。