世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】千田嘉博「城郭考古学の冒険」

今年5冊目読了。奈良大学文学部文化財学部教授にして、城郭考古学者の筆者が、自らの研究フィールドの奥深さを語る一冊。


筆者の「城のかたちの変化は、戦い方・守り方だけでなく、城を生みだした社会と政治とを反映した」という価値観と城郭愛が溢れていて、時にやり過ぎ感もあるが、基本的には歴史好き向けの本だ。


築城を大きく変えたのは織田信長と指摘。「戦国期拠点城郭から近代城郭への変化を推し進めたのは、織田信長だった。信長は、はっきりと大名中心の権力を目指し、城のかたちを変えていった。だから信長の城は、いち早く本丸を中心とした階層的な城郭プランを達成したのだった」「信長の城は、一貫して家臣を一元的に編成し、社会を変えていく手段だった」「今ではあたりまえのように考えられている近世の身分制に相応した城と城下の構造は、信長の城に端を発した」のあたりは、恥ずかしながら知らなかった…
面白いのは明智光秀。「丹波攻略後に光秀は、地域を治める城を建設していった。当時の城は軍事優先で山城が多かったのに、光秀は城と町を一体化できる平山城を選んだ。自然の要害で城を守るのではなく、人々が集まり物資が行き交う豊かさによって城と国を守ろうとしたのである。次の時代を見据えた光秀の発想は、信長と共通した」としつつも「すべての人を見下ろそうとした信長の安土城と大きく異なり、福知山城は光秀の中心性を担保しながら、家臣の一定の自立性をも認めた『ほどよい大名と家臣との関係』を模索した。城づくりから見ると、信長が目指した近世と、光秀が目指した近世は、根本的に異なっていた」は、思いもよらない観点だ。
さらに、豊臣秀吉については「天皇を補佐するにしては、大坂城は京都から離れすぎで、政権の本拠とするには適当な城とはいえなかった。そこで秀吉は政権の『公』の城として京都に聚楽第をつくり、その城を関白秀次事件で壊してしまうと、次に伏見城を表向きの政権本拠地とした。その一方の大坂城は豊臣家の『私』の城であった」「秀吉が秀頼を伏見城から大坂城へ移したこと、そして家康だけを伏見城に残したことは、結果として豊臣政権にとって大きな選択の誤りとなった」「秀吉は長浜城から大坂城聚楽第伏見城へ、合戦で勝つたびに豪華絢爛な巨大城郭を築き上げてきた。秀吉の成長サイクルを続けられなくなったときが豊臣政権の分岐点だった」と、城郭との関連を読み解く。
徳川家康についても興味深い。「家康は武田氏と戦う中で馬出しを知り、城の攻防において馬出しがどう機能するかを熟知した。効率的な守りと反撃を実現した馬出しを、家康は徳川の城に導入した」「江戸城は、西国の城づくり(外桝形・石垣)と、東国の城づくり(馬出し・土づくり)の両方のすぐれた要素を取り入れた城だった」などは、知らなかった…


世界の城との比較という視点は驚き。「世界の城郭の出入り口の発達は、時代を問わず『平入り』から最終的に『外枡形』『馬出し』に到達した。この出入口形態は、防御と出撃のバランスを高度に達成した人類が見つけ出した最適で普遍的なかたち」「敵の進撃を食い止めるために堀を掘るという行為も、人類に普遍的なもの」とし、「日本の城の発達を日本の空間的枠組みのなかで考えるだけでなく、アジアや世界の城と比較することで、これまで無批判に日本の城の独自性と捉え、あるいは日本の政治史的観点から説明してきたことも、別の視点から捉え直せる」と主張する点は納得だ。相対化、大事だよな。


保全についても筆者は提言する。「文化財建物と復元建物の耐震強化とともに、石垣の安全確保の基準づくりは、これからの城の整備で避けられない課題」「城はそもそもの成り立ちがバリアであり、それゆえに史跡整備においてバリアフリーを最初からあきらめた事例が多かったように思う。しかし、私たちは21世紀に軍事施設として城を復元しようとしているのではない。文化と歴史を体感できる対象者を仮に健常者に限定するような城の整備があったとしたら、真摯に反省すべきではないか」は一つの見識だと感じる。


城郭の衰退理由「17世紀初頭の慶長期に日本の築城は極相を迎えたが、天下統一をめぐる大名間戦争の集結によって、城は軍事施設としての政治的意義を失った。また、大坂の陣や島原・天草一揆原城攻防戦が示したように、攻城戦の主力兵器として大砲が大きな役割を持つようになり、高層の天守は砲撃の標的になり、火縄銃には有効だった幅30~40mの堀も、大砲による長距離射撃には意味がなく、軍事施設としては十分でなくなった。さらに一国一城令に代表される江戸幕府の城郭統制によって、城は政治的にも軍事的にも急速に象徴化していった」も、納得。


それにしても、本当に知らないことだらけでビックリ。「姫路城は、天守や櫓を白漆喰で覆って、当時最高の防火対策を徹底した。つまり純白の姫路城の美しさは、見せかけではなく機能美だった」「『天守閣』という名称は、近代以降の俗称で、史料用語としては『天守』あるいは『天主』が正しい。『天守』は『天主閣』の略称ではないのである。天守に閣をつけるようになったのは、近代以降に通天閣のように高い建物に閣を付して呼ぶようになってからである」「野面積みの石垣が、加工石材を積んだ、たとえば布積みの石垣に強固さや耐久性で劣っていたわけではない。それどころか野面積みの石垣は、相対的に隙間が多かったため、土砂による目詰まりがしにくく、石垣背後に回り込んだ水の排水も容易であった。そのため野面積みの石垣は水圧による石垣の変形や崩壊によく耐えた」「一般的に天守といえば軍事的な建築をイメージするが、畿内で戦国期に成立していた天守は、御殿的機能を強くもっていた」「信長の金箔瓦は瓦の凹部に、秀吉の金箔瓦は凸部に金箔を貼るのが原則だった」などは、本当にオタクの世界ではあるが、実に面白い。


復元についての「いくらイメージが湧くとしても、史実と異なる誤ったイメージを与えるのは問題である」という提言は、首肯できる。多面的に考えさせられた。