世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

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【読了】呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」

今年4冊目読了。信州大学特任助教の筆者が、戦国武将の評価の経緯とその背景を抉り出す一冊。


これはなかなか面白い切り口。「『大衆的歴史観』の変遷を追うことは、日本人の価値観、日本人の自己認識、さらに言えば日本人の(理想化された)自画像の変遷を明らかにすること。それを知らずして、日本社会の未来を描くことはできないだろう」という問題提起も秀逸。


明智光秀への評価の変遷については「江戸初期までは光秀が野心家・策謀家であるというイメージが強かった」のだが、江戸中期から「光秀謀反の動機として、野望より怨恨が重視されていく背景には、社会の価値観の変化があったと考えられる。天下泰平の世になり、武士の主従関係が安定すると、己の野望のために恩義ある主君を裏切るという戦国武将の価値観が理解されなくなったのだろう。怨恨による謀反の方がまだしもリアリティを持つようになったと思われる」となっていく。「暴君に反逆することすら許されない社会に生きる人々にとって、己の野望のために主君を殺すという発想は理解の範疇を越えていたのだろう。だが明治になり、主君を絶対視する思想が力を失うと、野望切にたどり着く者が出現した」。そこからさらに戦後になると「儒教的な主従関係はさらに衰退する。軍国主義への反省に基づき、明智光秀の謀反を倫理的に評価する論調は後景に退いた」。
そして、ここで出てくるのが司馬遼太郎国盗り物語」。「信長と光秀を対照的な人物に設定し、怨恨説を採用した方が、作劇上、都合がいい」ため「物語としての面白さが優先された結果、野心家イメージは定着せず、江戸時代以来の通俗的な光秀像へ回帰していった」。結果「司馬の光秀像が世間に広く浸透した。これもまた一つの『司馬史観』であり、その克服が求められている」。


斎藤道三については「江戸時代において、主要な逸話集ではさほど取り上げられていない。登場するときは、主君土岐氏を裏切った下克上や息子義龍との骨肉の争いが語られることがほとんどなので、道三に良い印象を持つ人は少なかっただろう」。さらに「斎藤道三織田信長の親密な関係性が描かれることは、戦前には有り得なかった。信長は正義の人であり、道三は大悪党で、水と油だったからだ。敗戦を契機に信長像が転換したことで、道三と信長の絆が重視されるようになる」。
そして、ここでも司馬遼太郎だ。「野心をみなぎらせた男が天下取りに向かって邁進していく『国取り物語』は高度成長期という時代の雰囲気と合致したからこそ、大衆に師事された。そして同作によって、道三像は確立した」。「司馬が道三の先進性を強調したのは、信長の師匠という設定に基づく。いわば作劇上の都合である」となると、どうなんだろうなぁと感じる。


織田信長については、江戸時代は「儒教的な考え方から、光秀が謀反を起こしたのは、信長に徳がなかったからだという理解だ」であり、明治になっても「信長は、悪役的な人気すらなかった」。徳富蘇峰の顕彰によって人気が出るが、「信長の最大の功績は『日本をして、天皇の御国たらしめたこと』。勤王精神という点で信長の天下統一事業と明治維新は共通する」と、全く現代と違う形である。戦後、「既存の価値観が完全に崩壊し、焼け野原となった敗戦直後の日本では、良く言えば死を達観しているような、悪く言えば刹那的な織田信長像が生み出された」「戦前は勤王家扱いだったのに、戦後には天皇の権威に挑戦する革命児へと180°転換した」というのは驚きだ。


豊臣秀吉については「江戸時代から現代にいたるまで一貫して人気がある。その人気の源泉は、足軽から天下人になったという日本史上、空前絶後のサクセスストーリーにある」が、時代による変化もある。江戸時代「徳川家は豊臣家から天下を奪ったので、、秀吉人気は江戸幕府の正当性を傷つけかねない。したがって、公式の歴史観では、秀吉の評価は非常に低かった」「秀吉を貶めようと考える江戸幕府にとって、秀吉の第一の悪行は、主家である織田家から天下を奪ったという事実である。しかしこればかり言い募ると、豊臣家から天下を奪った徳川家はどうなるのだ、というブーメランが返ってくる。そこで幕府が目をつけたのが、朝鮮出兵の失敗である」「けれども、朝鮮出兵を批判する声は、もっぱら体制擁護者たる儒学者から挙がるにとどまった。民間ではむしろ、朝鮮出兵を称賛する意見が主流だった」と、複雑な状況であった。明治になると「政府は、秀吉を、立身出世・攘夷・尊王という明治政府の政治理念の体現者として位置づけた。秀吉の事績のうち、特に朝鮮出兵を重視していた」。ところが、敗戦後、「高度成長期の豊臣秀吉像は、ナポレオンに比肩する武人という戦前のそれとは対照的に、経済人の相貌を色濃く帯びていった」。
人たらしのイメージについても「確たる史料はない。たたき上げの人間が弱者に冷淡であることは珍しくない」「秀吉の調略は基本的に利益で釣るものであった」と言及されると、だいぶ気持ちが揺らいでくる。


石田三成については「江戸時代の基調は『奸臣』であった。三成は家康の天下取りを阻止しようとした人物だから、家康が正義で三成は悪という評価にならざるを得ない」「明治維新によって、江戸幕府が亡びたことで、徳川家康に刃向かった三成を公然と称賛することができるようになった」「明治末以降の三成論では家康の”好敵手”ちおう評価が目立つ。このあたり、日清・日露の両戦役で小国の日本が大国の清・ロシアを打ち破ったことを念頭に置いての評価かもしれない」と変遷をたどる。
そして、ここでも司馬遼太郎。「石田三成が徹頭徹尾、豊臣家への忠義の念で動いていたかどうかは疑わしい。三成にも野心があったと見るのが自然であろう。けれども、三成を主人公にした歴史小説を書くという観点に立てば、理想主義と現実主義との争いという司馬遼太郎が示した構図が”正解”なのだろう」と、作劇上の都合が最優先されている指摘がされる。


真田信繫については「本名すら正確に把握されていないにもかかわらず、『真田幸村』は江戸時代から現代まで一貫して人気が高い。実像が明らかにされないまま虚像が異常に膨れ上がってしまった真田信繫は、実像と虚像が最も乖離した歴史上の人物といえる」。江戸時代は「『徳川史観』における低評価をよそに、民間での真田幸村人気は過熱する一方」で、明治維新からは「徳川関係のタブーは証明津市、真田幸村が活躍する物語を堂々と出版できるようになり、また芝居も掛けられるようになった」。結局、活劇向けとなり「真田十勇士を活躍させると、いかにも講談調の荒唐無稽な話に見えてしまう。かといって幸村の傍らに十勇士がいないと、何か物足りなく感じられる」という自体に陥っているのは、なるほどと感じる。大河ドラマ真田丸で、真田十勇士を使わずに盛り上げたのは三谷幸喜の脚本力故、というところなのだろう。


家康像についても、戦前は豊臣家をだました狸親父という流れがあったが、戦後は山岡荘八によって「万人の夢であった恒久平和を実現した偉人と賛美した。戦後の平和主義が色濃く繁栄された評価といえよう」となっていく。


司馬史観の強い影響については「織田信長にしろ、斎藤道三にしろ、明智光秀にしろ、石田三成にしろ、司馬遼太郎の人物造形は極めて明快で、彼らは作中で活き活きと躍動する。あたかも現実の彼らがそのような人物であったかのように、読者は錯覚する。けれども、それはあくまで小説としてのリアリティであり、史実とは異なる」「『司馬史観』の問題としては、専ら明治時代の美化が話題に挙がるが、戦国時代の評価、戦国武将の評価についても検証が必要だろう」と警鐘を鳴らす。


筆者が総括として述べる「新しい歴史的事実が解明されたからではなく、歴史上の人物を評価する尺度が変わったから、人物像が変わるのである。その時代、時代の理想の英雄像を信長や秀吉、家康に当てはめているだけだから、彼らのイメージがコロコロ変わる」「戦国武将の人生訓として人口に膾炙している話は、たいてい江戸時代の軍記類・逸話集に載る逸話・美談・名言であり、これらの大半は真偽が疑わしいものである。後代の創作かもしれない話に依拠して人生訓を語る『大衆的歴史観』は危うい」は、非常に納得がいくものであった。


本当に興味深く読めて、歴史好きの端くれとしては気をつけないといけないな、と感じさせられた。歴史に興味があるなら、ぜひ一読をお薦めしたい。