世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】宮脇淳子「世界史のなかの蒙古襲来」

今年54冊目読了。東京外語大・常磐大・国士舘大東京大学などの非常勤講師を歴任した筆者が、モンゴルから見た高麗と日本について考察する一冊。


壱岐対馬に関心がわくと、いろいろ読んでみたくなる。その一環で読んでみたが、いささか思想主張が激しすぎて、途中うんざりした…事実ベースでモノを語らないとおかしくなるよな…


確かに、モンゴルについて「モンゴルの男は出自について悩んだりしない。誰の子供でも皆同じだ」「モンゴル人にとっては女こそが部族連合の大事な結節点。地縁のない遊牧民にとって、嫁に行く女性は血のつながりを広げていく存在。女の子たちが別の部族に嫁に行きこちらの部族に嫁に来ることで、異なる部族の首長たちが互いに親戚になり義兄弟になって、祖先を同じくする人間が増え、結束が固くなり、大家族になって一緒に戦争に行く」と言われると、日本の価値観では判断してはいけないんだな、と思う。まさに「史実に現れる、ありのままのモンゴル人、満州人の姿を見るのではなく、そこに投影された日本人的なものだけを見るようなことをしているから、日本人はいまだに相手を見誤る」という言及のとおり。
かつ、「元はモンゴル帝国そのものでもなければ、シナの王朝でもない。あくまでも遊牧騎馬民の帝国の伝統を受け継ぐ国で、国内にはモンゴル人だけでなく実にさまざまな人たちがいた」「モンゴルは最初から、税金さえ徴収できて自分たちが儲かればそれでいい。『あがり』が取れればいいと思っているので、支配した土地のやり方や伝統を否定して、変えようとしたことはない。そのほうが摩擦も少なく、摩擦が少なければ反乱などもそうそうは起こらない」「モンゴル軍の進軍に沿海は好まれない。沿海は水量の多い河川が多く、草原の騎馬民であるモンゴル人にとっては慣れないところ」というモンゴルと元の峻別・そして特性を理解することは大事だなと感じる。


そもそも、なぜフビライ・ハーンは日本に攻めてきたのか。筆者は「日本征討を担当したのは女真人と契丹人、金の漢人、そして高麗人だったと考える。自分たちの領分で、自分たちの仕事として日本征討を行なって功績を上げれば、自分たちの取り分が多くなり、地位も上がるというのが理由」と推察する。「元軍の戦い方を見ると、モンゴルらしいところが見られない。モンゴル特有の、敵を取り囲んで攻撃をかける戦術は、海を渡ってきて一方向からしか攻撃できないから使えず、これまでモンゴルが得意としてきた戦法、作戦とはまったく違っている。モンゴル人の司令官がいたとはとても思えない戦い方」と言われると、確かにそうだなぁと感じる。
元寇前の朝鮮は相当に混乱していたようで、「高麗は日本への使者としてもフビライ・ハーンの満足するような役目が果たせない。その一方で、高麗国内も高麗人どうしのあいだで対立が深まり、さらに状況は混沌としてくる」というところも遠因となっているのかもしれない。


日本側についての言及も、大きな視点から見ると面白い。「『日本』という国名も、『天皇』という称号も、日本が大陸からの独立を宣言したことにほかならない。白村江の敗戦のあと、日本は朝鮮半島から引き揚げて、半島とも大陸とも関係を持たないという意志をあらわした」神風の正体について、文永の役では「日本軍が粘りを見せたので、元軍の兵糧が尽きる前に、どうやら『矢が尽きた』よう」。弘安の役では「台風で破損し沈んだ船と、ほぼ無傷で合浦まで帰れた船の差は、新造船か旧造船の違いだったのではないか」のあたりは寡聞にして知らず…


ただ、思想的に右寄りの自分が読んでいても、ちょっとやりすぎ感は否めない発言がそこここに。「朝鮮半島の人たちは、いつの時代も強い相手を探しては組む、ただひたすらその繰り返し。自立しようという意志もなければ、その能力に欠けるといっても過言ではない」「今のコリア民族は高句麗人も高麗人も渤海人でさえ、みなコリア民族だったといい、あたかも血がずっとつながっているかのように言いたがるが、夢物語であり絵空事」「朝鮮半島では、危機に際しては真っ先に逃げるのが王や高官など、上に立つ人たち」「朝鮮半島に暮らす人たちにとっては上下関係は国の中だけではなく、対外的な関係においてもそのような見方を持ち込む。それゆえ、日本に対して常に優位に立とうと、日本を見下す」は定型化しすぎている気がする。もちろん「戦後に日本人が度を越した自省をするあまりに朝鮮人を甘やかしてしまった」「対外的に反省しすぎると、"弱い"とみなされる」のあたりは否定しないが…
筆者は中露についても「『中国人』のなかには、ウイグル人チベット人、モンゴル人等々、実にいろいろな中国人がいる。それに加えて、中国人自身がそのときどきの自分たちの都合によって、中国人と考える範疇を変えてしまう。中国のみならず、ロシアなども同じような振る舞いをする。世界の民族には、全くのご都合主義を臆面もなくやってしまう人たちがいる」と批判を加えるが、日本だって外から見たらどう感じられるか?というところもある。なんとなく、結論ありき感が強すぎる。


違いを認めるのは大事。ただ、「いつしか史実と創作が曖昧になったイメージの内容が独り歩きを始め、皆がそれを本当だと思い込むのが怖いところ」「中国、ロシア、朝鮮の人たちは歴史的事実からではなく、勝手なナショナリズムで物を言っている。かれらの歴史に対する態度も、かれらの歴史自体も、日本とは全然違うのだ。元寇を『蒙古襲来』だからモンゴル人が来たとだけ言っているのと、今の中国、ロシア、朝鮮を正確に把握できないのとは根が同じ」という主張はいささか辟易する。


事実関係としては面白い記述も多かったが、あまりにも思想信条に寄りすぎると気持ち悪くなる、ということを痛感する。理性的な感じじゃないんだよな…