世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】司馬遼太郎「街道をゆく 壱岐・対馬の道」

今年53冊目読了。ベストセラー作家の、歴史や文化を考えながら街道を歩いて考察するという、紀行文と歴史考察の入り交じったシリーズ。


壱岐対馬に興味がわいてきたので読んでみた。20代の頃は司馬遼太郎が大好きだったが、最近はその書きっぷりがあまりにも偏っている感があって敬遠していた。実際にアラフィフで読んでみると、あまりにも「こうではないか」「こうだということは疑いがない」というような書きようが多く、これにだまされていたんだな、と思うと心中穏やかでない。


ただ、勉強になる部分もある。地政学的に「対馬は良田無し、ということで、この島民が室町に倭寇になり、朝鮮沿岸の米倉をねらって荒らした。李朝はこれをやめさせるために島主宗氏とその重臣に官位をあたえ、毎年いくらかの米を送った。この関係はときに断絶したが、江戸期もつづき、幕末までおよんでいる。対馬藩宗氏は三百諸侯の一つでありながら、同時に朝鮮との関係では両属のかたちをとった点、琉球が中国との関係において中国によりつよく力点を置きつつ両属のかかわりを結んだことに似ている」「済州島耽羅国とよばれた。ふるくは百済に属し、のちに新羅に帰付した。歴とした朝鮮である。他方、対馬上代から倭人世界の濃密な一地域であり、朝鮮世界に属したことがない。両島の歴史地理の関係は、ふしぎといえばふしぎである」という分析はなるほどと思える。


また、不思議なもので、日本と朝鮮がお互いを警戒する意識として「室町期から戦国にかけて東アジアの沿岸に出没する倭寇のうち、朝鮮沿岸を専門とした者のほとんどは、対馬人であった。朝鮮で子どもがあまりしつこくむずかると『対馬島(テマド)に流すぞ』とおどされたという。日本にもある。戦前まで地方によっては残っていたが、九州から津軽のはしまでおこなわれていたおどし文句として『ムクリ・コクリが来るぞ』がある。ムクリとは蒙古、コクリとは高麗のことで、元寇の傷跡が土俗のなかにのかったとみるべきだろう」という言葉があるのは歴史だなぁと思う。


筆者の儒教嫌いは「中国、朝鮮が凄惨な停滞におちいったのは儒教のためであった。古を尚ぶという停滞こそ儒教的には正しい姿であり、相手を正視する視点をもたずに野蛮国でもって片付けてしまわねば、自分の礼教が立たない。国家儒教とはそういうものである」のあたりの記述で露骨に出てくる。


土地の特徴として「九州島の北方、朝鮮にむかい、波濤を浴びてうかんでいる壱岐対馬は、古くから『国』の処遇をうけてきた。上代、国郡の制ができたとき、壱岐対馬、それに多褹(種子島)といういずれも小さな島が、それぞれ一国として遇せられたのは、九州が畿内政権にとって特別な地域だったことを想像させる」「ただ二つの島国は、農耕者からみた地理的形態がまったくちがっている。対馬は海面からいきなり鋸の歯を乱立させたような山国で、水流もすくなく、ここへ貴重な鉄農具を持ち込んだところでいい耕地ができるはずがない。それにひきかえ壱岐は、全島のすがたがカレーライスの皿を伏せたように平たく、多少の水流もあり、どこをとっても田畑ができる」というのは行ってみたくなる。地図だけでは見えないものが、そこにはある。
その他、「壱岐人と対馬人は、仲がよくない。あるいは口先だけの楽しみとしてやっているのかもしれないが、互いに相手の悪口を言い合う。なにしろこの大海にうかんでいるのは二つの島だけしかなく、両島でもって一つの世界がつくられている。水田農耕の社会では水の問題などもあって、隣の集落が原型としての敵であった」「十八世紀ごろの壱岐島の米の穫れ高は二万四百九十一石だったという数字がある。平戸藩松浦家の表高は六万一千石である。壱岐島がこの小藩の財政にどれほど重要であったかがこのことでもわかる」などは興味深い。


知らなかったことだが、「李氏朝鮮は、家康と徳川幕府に好意的であった。当然なことで、前代の豊臣政権が朝鮮に対して悪すぎた。何の名分もなく朝鮮に出兵し、前後7年間、朝鮮と朝鮮人に与えたうらみと惨禍は深刻というていどのことばでは言い表せない」は言われればそうだな。故に、朝鮮通信使という仕組みができたわけだし。


学ぶべきところも多いのだが、「古来、日本の歌もしくは上代日本人の詩情は悲しみを陳べるときにかえって大きな生命感を感じさせる」「イキに壱岐という漢字をあてて定着するには、多少の時間がかかった。『延喜式』では壱岐と書くからこれが定まったところだろうが、『万葉集』ではほかに由吉とある。『和名抄』では由岐の例があげられており、他に伊支、などという文字もつかわれている」のあたりは自己都合に合わせすぎ(特に、壱岐一支国と呼ばれていた)。司馬文学の空想と限界を感じながら読まないとだまされるなぁといみじくも思った。