今年45冊目読了。元フィナンシャルタイムズの記者である筆者が、世界の各地に葬送のかたちを訪ね、そこから死について考察する一冊。
出口治明お薦めということで、読んでみた。確かに面白いのだが、いかんせん、あまりにも記述が冗長すぎて、だんだん疲れてくる。
死についての「死は、混沌と悲しみの底に私たちを落とし入れるが、同時にまた書類の山と数々のうっとうしい手続きをも迫るものである」「死というものが苦痛に満ちて尊厳を失わせるという、陰鬱で容赦ない事実だけではない。それは同時に、人を絶望に陥れる」という分析は、実際に筆者が父の死から体感したことだけに、真に迫る。
死と文化の関係についての「死者の扱いは、人間という種について多くのことを明かす。葬送慣習と墓所の多様さは驚くほどに豊かな形をとって現れる。それらには来世に対する考え方が反響する。それは私たちの文化を映しだす」「悲しみの表現をかたちづくるうえで最大の役割を果たすのは、文化的な慣習と精神的な信条である。そのことから、ある人びとにとっては涙する状況でも、他の人びとにとっては涙と関連づけられない状況が生じる」のあたりは、各国の葬送を調べ上げた本書ならではの価値観だろう。
そして「死者儀礼に哀歌を用いる伝統は、20世紀半ばまでアイルランド、ギリシャ、ロシア、そして中国にまで及ぶ広い地域を特徴づけた。核心にあるのは、即興的な内容をひとつの形式に標準化することで極度の感情を抑制しバランスを取ること」「たとえ骨の成分がたんなる無機質だと知っても、私たちにはその物質とそれがかつて属した故人とのつながりを振り切ることができないようだ」と、死というものの悲しみと繋がりの分断というのもよくわかる。故に「私たちは死による決定的な終わりに怖れをいだき、どうにかその終わりを新たな始まりに変えようと可能なかぎりを尽くすのである」という感じになるのだろう。
死と向き合うことを忌み嫌う最近の風潮については「死の計画について大抵の人は肩をすくめて、話題を変えようとすることが多い。しかし食事や睡眠が必要なのと同じように、人が死ぬ運命にあるという事実は、人間存在にとってもっとも重要な側面でもある。食事や寝床についてはいそいそと支度し、たしかに、これらは自分の存在の消滅に向き合うよりも魅力的な活動ではある。けれども死もまた現実問題なのだから、同じように支度すべきではないだろうか」「『死の顕現化』に苦しむ私たちにとって、自身がもっともコントロールしたいこと、つまり命の終わりをコントロールできない現実に対して、自分の好きな形で別れを演出することは小さなせめてもの慰めにならないだろうか」と、敢然と疑義を呈する。確かに、メメントモリ(死を想え)が忘れ去られることで、かえって『生きる』ことが軽んじられている感覚はあるなぁ。
なるほど、と思ったのは「見方を変えれば、死こそが私たちを偉大にするのかもしれない。永遠の命を生きるとしたなら、後世に残すべく作品も偉業もめざすことはないだろう。だが終わりある命と向かい合ってこそ、儚いばかりの肉体よりも息の長い足跡を残そうとする」という点。確かに、もっと死と向き合う必要があるのかもしれない。
死を忌み嫌う現代に対するアンチテーゼとしては非常に面白かったが、読み疲れ感は否めなかった…