世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】沢木耕太郎「テロルの決算」

今年86冊目読了。人気作家が世の中に出ることとなった、大宅ノンフィクション受賞作。社会党委員長・浅沼稲次郎と、その暗殺を行った山口二矢の二人について、人生の背景と当日、その後を描き出した一冊。


正直「深夜特急の筆者」というイメージしかなかったのだが、たまたま佐藤優のお薦め書籍のリストに入っていたので読んでみた。そしたら、あまりの深さに、グイグイ引き込まれていった。


犯人の山口二矢が右翼活動に傾倒していく背景を「彼には『強いもの、流行するもの』に対する反発心が強かった。彼にとっては左翼こそが強者であり、流行に便乗するもの、と映っていく。それらのものに対する反発心は父親が自衛隊に勤めている、ということの負い目をはね返すために、さらに屈折した、さらに鋭いものになっていった。自衛隊を批判する人、それを二矢は左翼と見なしたが、彼らは強者だった。自分が少しも傷つかぬ位置から自衛隊を否定し、父親を否定し、だから一家を否定していると思えた。深い被害者意識が、逆に攻撃的なものに転化した」「『右翼の団体に参加して左翼と対決する』学園で深い孤立感を味わいつつあった二矢に、そのことはかつてないほど魅力的なものと映った」と読み解く。
そして、右翼の中でも満足できず、個人テロに走る流れについては「右翼運動の中で次第に孤立感を深めていた二矢には、支えになる絶対的な何かが必要だった。それを探し求めていたといってもよい」「彼はテロルを夢想する中で、しだいに運命論的な世界に搦め取られていった。彼がテロルと死をこれほど直截に結びつけたのは、他者の死を自らの命によってあがなうという古典的なテロリストの倫理以外に、自分の運命は定まっているのだという強い予感があったからである」などの記述が興味深い。


浅沼稲次郎については「ある意味で哀しすぎるほど哀しい浅沼の一生を、二矢は『戦前左翼であったが弾圧されると右翼的な組織を作り、戦後左翼的風潮になると恥ずかしくもなく、また左翼に走り便乗した日和見主義者』としか見ようとしなかった。彼の指摘の中には、浅沼の奇跡の不思議さの、その一端を突いている部分が確かにある。だが、それはあくまでも『一端』にすぎなかった」とし、彼が二度も精神を壊したことについては「かつて抱いていた純粋な社会主義者としての魂が、現実を是認し追随しているだけの彼を撃った。やがて、その矛盾を、浅沼はひとりで支えきれなくなる。彼の内部の精神のきしみは、次第に他者の眼にも明らかになってくる」とみる。
そんな彼が「人間としてですね、悩みを持ちつつ生きるということは尊いものだと私は思っています。悩みがない人間というのは、ウソなんじゃないでしょうか。生き方にウソがあるんじゃないでしょうか」と述べたところには、その苦しみを感じ取ることができるが、他方「浅沼の眼には、建国の意気に燃えた中国六億八千万の民の姿が、強烈に映った。とりわけ彼らと共に同じ道を歩むことのできる指導者たちの幸せが羨ましかった。かつて戦前のある時期、彼にも大衆の中で大衆と共に闘えばよいという日々を迎えたことがある。それは単純で、明解で、だから至福の日々だった」ということから中国共産党への共感を深める様は、あまりにも不足の補いであり、幼すぎるという気がする。やはり、それではいい方向には向かわない、ということだろう。


浅沼委員長死後の社会党が「のちに構造改革論と呼ばれるその構想は、委員長のしかばねを乗り越えて、という全党をおおったヒロイックな気分の中で、空虚な認知をされる。それは、構造改革論者ばかりでなく、社会党にとっても不幸なことであった。やがて、それは党を二つに分断する派閥抗争の最大の火種になっていく」という状況に陥ったことは、組織論としては警句になるだろうと感じる。


筆者の「現実の出来事に本当の意味での終わりが訪れることはない。映画のように、一篇の最後に《完》とか《END》と字幕が出るとそれですべてが終わる、というわけにはいかないのだ。当事者が生きているかぎり、いやその人びとが死んでからも、現実はその続篇とでもいうべき物語を持とうとする」「ひとつの作品はその作者に見合った身の丈しか持つことはできないもの」という世界観には非常に共感できる。題材の事件自体が1960年(奇しくもプロ野球日本シリーズ第二戦の最中であり、大洋ホエールズ大毎オリオンズというカードがその旧さを物語る)であり、相当過去のことではあるが、人間の本質に迫る筆致は全く色褪せない。ぜひ、一読をお薦めしたい。