世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】沢木耕太郎「冠 OLYMPIC GAMES」

今年101冊目読了。深夜特急を代表作として持つ筆者が、1996年アトランタで開催された「商業化に決定的に舵を切った」オリンピックを全日取材した記録を稠密に書き起こし、その織り成すストーリーを見事に描き出した一冊。


この本は、存在を本屋で知って、図書館で借りたのだが、実に読みごたえがあった。2021年、コロナ禍での東京オリンピックを控えて、「そもそもやるのか?」という疑義を抱えている中で、非常に共感できるところが多かった。


そもそもの古代オリンピックについて「オリンピアでは、オリーブの枝で編んだ冠のために競っている。他の競技会では賞金や賞品を出すことが珍しくなかった。そのことは、逆に言えば、オリンピアでの名誉が賞品や賞金を必要としないほど価値のあるものだったことを物語っている」としつつ「ギリシャがローマの支配を受けるようになっても存続していた古代オリンピックがついに滅びたのは、直接的にはローマ皇帝テオドシスの『異教禁止令』によると言われている。だが、古代オリンピックはすでに内部から腐っていた。勝者に対する褒賞はオリーブの冠だけだったはずだが、彼らは故郷に帰るとさまざまな恩恵にあずかった。賞金、賞品、そして特権。その結果、競技者たちはプロ化していき、インチキや八百長が横行することになる。競技者たちの精神的な退廃とオリーブの冠の価値の喪失は、とうに古代オリンピックを崩壊させていたのだ」と指摘する。
そして「古代オリンピックオリンピアでのみ行われていた。だが一度だけ、時の権力者であるローマの将軍スラによって、その勝利を祝う儀式のひとつとして、ローマに持ち去られたことがあった。それは古代オリンピックの衰退を象徴する出来事だった。同じように、オリンピックのアトランタ開催は、近代オリンピックが、現代の権力者としての巨大資本の前にひれ伏した象徴的な出来事といえる」と指摘する。


近代オリンピックについては「クーベルタンが掲げたオリンピック復興の大義名分は、①競技スポーツは、体操のように軍事的なものと結びついたりせず、あくまで個人のものであり、平和のためのもの②スポーツのための鍛錬は、急速に工業化していく現代社会で、道徳的な混乱をきたしている各国の若者たちを救済できる③その若者たちに出会いの場を提供することは、偏狭な愛国主義とも、無責任な世界主義とも異なる、真の国際主義を生み出すことに役立つ」としながら、クーベルタンが偉大なことを成し遂げたい自己顕示欲でオリンピックを選んだこと、その晩年が悲劇的なことを記し、その行く末を暗示させるのは流石の筆致。


筆者は、スポーツの商業主義に批判的だ。「(アメリカ・バスケチームの)ドリームチームに象徴されるプロの大量参入は、オリンピックを単なる競技会のひとつにしてしまう危険性の方が高い。オリンピックは最高のプレイヤーを揃えることに腐心するのではなく、オリンピックでしか見られない最高のシチュエーションを提供することに努力すべき」「カール・ルイスは、すべてがカネを中心に動いているように見える。カネのためならたいていのことを引き受けるが、カネにならないとなるとたいていのことを拒絶する。そして、行動の全てが自己宣伝に役立つかによって決定されている」と選手を厳しく射貫く。
返す刀で「サマランチ(当時のIOC委員長)とNBCのやることは、すべてにおいて『理』ではなく『利』が優先されるのだ」はコロナ禍の2021東京五輪と全く相似形をなすし、「最後の最後までNBCの愛国的な放送ぶりに変化はなかった。愛国的、つまり、それが最も商業的ということなのだろう」と斬り捨てる。


とはいえ、筆者はオリンピックそのものに否定的なわけではない。「たぶん、私はスポーツにおける『偉大な瞬間』に遭遇したいと望んでいるのだ。書物の上ではなく、映像でもなく、自分が存在している空間で『偉大な瞬間』が生まれる」「オリンピックで勝つには、絶対的な力を持っていない場合には、神に祝福されたとしか思えない運を必要とする」「(競技を)楽しむということは恐ろしく難しい。実際、大きな試合を前にして、緊張に震えない人などいない。それがむしろ自然なのだ。勝ちたいという思いで胸が締め付けられ、観客の多さに体がすくむ中で試合をする。楽しむというのは、そうしたことをすべてしたあとで振り返る時にしか味わえないものなのだ」は、真に迫っていると感じる。


個人的にはオリンピックであっても柔道の日本選手を応援はするのだが、「そもそも、審判の採点によって勝ち負けを決める競技をオリンピックでやろうというのが無理かもしれない。オリンピックの審判は世界中から集まるため、その競技に対する理解力に極端な差がある。中には素人同然の審判もいるため、観客の拍手の大きさによって採点が変わってしまうなども少なくない」という指摘に始まり「柔道が国際化を願い、オリンピックの一種目として採用されることを望んだ時に、当然のごとくその変質は始まった。オリンピックは競技を変質させる。それは、異なる文化背景を持った観客の『全員』を楽しませる、というところに向かうからだ。オリンピックでは誰の眼にもわかりやすくなければならない」「私にとってオリンピックのジュードーは少しも面白くない。それは、ジュードーが、格闘技の中でも、最も泥臭いものになりつつあるからだ。体操やダイビングといった採点競技と同様に無能な審判によってつまらなくされるだけではなく、競技そのものが洗練とはまったく逆の方向に走っているかに見えるからだ」と斬り込まれると、なるほどそうだなぁ、と納得させられる。


アトランタでは、開催期間に爆発テロがあったのだが、これを警察は早々にリークする。「犯人は彼である必要はなかった。アトランタを覆う恐怖を払いのけるためには犠牲者はだれでもよかった。オリンピックという祭りを成功させるために、彼を生贄の羊として祭壇に捧げたのだ」は、筆者の指摘どおり、松本サリン事件と同じである。


その状況下で、閉会式にサマランチが『テロはオリンピックを滅ぼすことは出来なかった!』と演説するが「それを聞いた私は、その通り、しかし、『爆弾』では潰れなかったオリンピックも、おまえさんの『我欲』によって崩壊するかもしれない、と胸のうちでつぶやいていた」は、コロナ禍での東京五輪とまったく同じ構図だ…
「外見的には華やかだが内実の欠けたオリンピック。それはサマランチ国際オリンピック委員会が、商業主義の権化たるアメリカのテレビ局の前にひれ伏し、オリンピックのすべてをテレビ的にしようとした結果でもある。現在、あらゆる競技は『テレビ的』であるかどうかで存続の可否を決定されるという悲惨な方向に向かいつつある。外見ばかりで内実の伴わないがらんどうの競技。がらんどうの大会。そうなってしまうのはもう目前に迫っている」「極限への道を歩みはじめてしまったオリンピックは、加速度がつき、ますます先鋭化することによって、自己破壊の危険性を増してしまった。オリンピックの抱える矛盾が飽和状態にまで達し、いつ核爆発が起こるかわからなくなってしまった」は、今まさに日本が直面している状況だ…


皮肉にも、本のタイトル「冠」は「コロナ」と読ませる。筆者には当然全く意図はないのだが、その意味は2021年に読んでみると非常に深く感じられる。ぜひ、一読をお薦めしたい。