世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】山口二郎「政権交代論」

今年102冊目読了。北海道大学法学部教授で、行政学政治学を専攻する筆者が、2009年初頭時点での自民党政権の専横のリスク、そして他国の事例を見ながら政権交代の必要性を説く一冊。


2021年初夏、絶望感しかない自民党政権の暴走。2009年麻生政権末期のそれより、輪をかけて酷いものがあるが、その時点でも、これだけのことが主張されていたんだ、と感心するとともに、民主党政権の愚かさが更に状況を悪くしたことを切に感じざるを得ない。筆者が民主党に関わっていた事実はあるものの、指摘はそれなりに正しい(ただし、「民主党は政権を担えるか」の章をのぞく)と感じる。


政治システムとして「権力分立の原理と、議院内閣制、すなわち国会の多数派が行政権力を掌握する仕組みとは、相性があまりよくない。むしろ、権力の集中をもたらしやすい」「与党が数を頼んでゴリ押しを図る時、議院内閣制には制度的な歯止めは存在しない。与党は好きなことができる」は体感としてコロナ禍の失政を見ればよくわかる。また、「権力分立の原理の下では司法による行政府へのチェックも存在する。さらに言論の自由の下で、メディアによる事実上の批判、チェックも存在する。しかし、特定の政党が半永久的に権力を保持することが自明の前提となれば、これらのチェック機能も作動しにくくなる」は、黒川麻雀事件、東北新社総務省のズブズブっぷりが文春砲で暴かれたとおりだ。「自由な選挙や議会政治という制度の土台の上でも、政権交代がない状態が当たり前となれば、その社会は社会主義国のように閉塞していく」という指摘は、まさに2021年の日本の状況だ…


では、なぜ政権交代が必要なのか。そもそも政権選択の前提となる対立について「政治における選択がきわめて包括的なパッケージである以上、選択をめぐる政治的な対立も、社会の全体像、世の中はかくあるべしという大雑把な理想やイメージをもとにしたものにならざるを得ない。そうすると、人々の生命や生活に最も重要な影響を持つ大きな問題や争点を中心に、対立構造が生まれる」「近代資本主義の発達以降、最も重要な準拠枠となったのは、豊かさのヒエラルヒー」「左派と右派の最大の違いは、人間と言う存在を基本的に同じ価値を持つものと考えるか、そもそも異なったものと考えるか。左派は、人間は等しく人間らしい生活ができるようにすべきというのが基本的考え方。右派は、人間はすべて能力も個性も異なるという前提でものを考える」という哲学に至る。
だが、日本ではどうか。「戦後、左派政党が政権交代のための政策プログラムを用意しなかった反面、自民党が左右の両方の政策を抱え込んで、政権交代の可能性を封じ込めた。いわゆる右肩上がりの経済発展がその戦略を可能にした」「自民党にとっては、権力こそ唯一の組織統合の接着剤であった。権力を守るためなら何でもするという機会主義は、自民党に理念不在という欠陥をもたらした」し、「野党の側で自民党に対抗する大政党を作っても、結局個々の政治家の与党志向によって野党が自壊する」という体たらくである。


2000年台の自民党の脆弱化は「党組織や政治家の人的要素に関わる問題と、政策面での矛盾の深度化という問題がある」と指摘。「小泉以前の自民党で総裁の座を目指すためには、まず組織の面で、派閥のボスとなり、親分の意のままに行動する数十名の手勢を持つことが絶対の条件だった。次にキャリアの面で、財務、外務、経産という主要閣僚と、幹事長、政調会長、総務会長という党三役のうちで、できれば2つ以上のポストを経験することが必要であった。重要なポストに就いてリーダーとしての計画、理科利用を積む事は、あらゆる組織に共通する」という型が小泉純一郎によって壊された、と述べる。
「小泉という例外的な人気者にぶら下がることで選挙に勝てるという便法の味を覚えてしまった。かっぱな議論を通して政治家が政策を共有することで政党の統合が強まるという本来の道でなく、楽をして確実に選挙に勝つために人気者を探すという事大主義が横行し、政党の求心力が弱まった」ことで、「様々な当事者と議論し、妥協、調整を図る訓練を経ない政治家がリーダーになることによって、一つの結論に向けて議論を収斂させ、物事を成し遂げるという気風が、自民党の指導部から消えていくことになった」は、2021年の自民党の恐るべき劣化のスタートと感じる。


筆者の主張は、民主党関連の部分については疑問符だらけだが、全体の政治学としての哲学は優れていると感じる。それは「人間は誤るものである。最初は時宜にかなった適切な政策でも、長い間続けていれば陳腐化し、国民のニーズからずれていく。そうした誤りを国民自らが正すために、政府の担い手を入れ替えるべき」「社会の平和と秩序を守るためには、まず人間の尊厳が守られなければならない。人間の尊厳を踏みにじるような政策は、企業の利益追求にとっては合理的だろうが、社会の平和にとって長期的な脅威となる」のあたりによく表れている。


この状況を打破するために「悪を叩くこと自体がステレオタイプ化するとき、思考停止が始まる。思考を停止したまま、悪を叩くことに共鳴し、そのことに満足している人々は、ポスト近代型ポピュリズムの担い手となる。このようなポピュリズムの蔓延は、民主政治を劣化させる」と警告し「一人でも多くの市民が、多様な発言や運動を通して、様々なものの見方を提示することが、民主政治の裾野を広げていく」「よりよい社会を目指して手の届く空間で政治にかかわるという市民のエネルギーがあってこそ、政党政治も活力を吹き込まれ、有意義な政権交代が起こる」と結論付ける。


でも。筆者が支援した民主党が酷い体たらくだった故に、自民党以外の党への信頼がガタ落ちし、結果として2009年当時よりもさらに酷い状況に陥った(自民党の凋落も惨憺たるものであるが)。この状況、21年秋の衆議院選挙で、何とかせねば…と思うのだが、まずは一票を投じるしかないんだよな。「野党がだらしないから」と棄権すると、自動的に凋落した自民党を信任することになってしまうので。凋落した自民党を信任するにしても、だらしない野党を信任するにしても、積極的な「投票」という行為は必要だと感じる。全ては、そこから。