世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】瀬名秀明「デカルトの密室」

今年144冊目読了。薬学博士の知識を活かしながらヒット作を連発する筆者が、自ら「最高傑作」と評する一冊。


その分厚さと複雑怪奇さ(入れ子構造)によって、なかなか理解するのが難しいが、それだけの読みごたえはあり、知性、人間というものについて深く考察するきっかけとなるような問いがそこここに仕込まれている小説。なるほどこれは傑作だ。


そもそもの問いや疑問として「他者を、己自身を、そして環境の全てを表象として制御することは、心を理解することと何が違うのか」と提示し、「ぼくたちの想像の及ばないところにもちゃんと世界は存在していて、そこには別の世界観がある。ぼくたちの世界では世界観が重層しているんだよ」という複眼的思考を述べてくるあたり、本当に深い一冊だ。


人間の特徴については「人間とそれ以外を分かつものは言語と社会的知能」「ルールを取り敢えず受け入れてしまうこと、そのルールを取り敢えず信じ、それに則って行動できること、それが人間の最大の特徴だ」「ぼくらは意識しているとき、ひとつの意識しかいしきできないんだ。ぼくらは意識しようとすると意識が収束してしまって、無意識を意識することはできないんだ」「ヴィトゲンシュタインは言語の限界こそが思考の限界だと考えた」「人間は、社会の複雑なシステムを見抜く能力に長けている。社会常識の問題として捉えれば、同じ論理構造を持つ課題でも劇的に素早く解を見い出せてしまう」「成長した人間は、他者の気持ちになって考えることができる。つまりもうひとりの自分を想定し、その自分を他者に置き換えることで、他者の気持ちを擬似的に実感することができる。その心理的圧力に通常の人間は耐えることができない。それが人間に備わっている”道徳”の本性なんだわ」などが、非常に本質を捉えている。


人間の身体性については「人間の身体は常に微妙な揺れや動きを孕んでいる。呼吸に伴う肩や胸のかすかな上下運動や左右への重心移動などが、その物体を生きたものとして認識させる役割を担っているのだ。そういった微妙な動きが完全に消え去ってしまった瞬間、物体はただの死体になり、機械へと還る」「読んでいてよくわからないときは、声に出して朗読してみなさい。そうすると書いた人の気持ちが伝わってくる。自分の中でその言葉が呼吸し始めて、自分の息とひとつになる。身体を持つ私たちは、そんな物語の楽しみ方がある」「自意識とは、身体という筐体を介して起ち上ってくる物語なんだよ。人間は自らの身体という筐体をいったん潜り抜けることで、自らの意識を認識する。自らの意識を知覚するには、いったん身体を通らなければならないんだ。だがその意識は身体という物理現象を擦り抜ける瞬間、時間という要素を取り込んでしまう。そのプロセスは否応なしに人間の意識を物語化させる。自意識は身体を通り抜けた瞬間”物語”というひとつの塊に収束してしまう」「物語が立ち上がるとき、ぼくたちがそこに没頭できるのは、きっと世界と直に共鳴し、同期するからなんだ。記憶だけじゃない。はっきりとした手触りとして。確かな臨場感として。ぼくたちは普段、世界を信じている。その確かな手触りと臨場感を経験したことがあるからこそ、世界を信じて世界を忘れている。でも何かが自分の身に起こったとき、ぼくたちが思い出すのはきっとその”直である”という感覚なんだ」など、なるほど、そこがAIとの圧倒的な差異なんだな、ということがよく理解できる。


コロナ禍の2021年においては「世界の捉え方を身につけていないうちは、自分の中で世界の記述が爆発する。自動車教習だけじゃない。テロや大災害のように、目の前で想像を絶するとんでもない事件が起こったときも、ぼくたちは一種のパニック状態に陥る。情報の取捨選択ができなくなる。こいつが一般化フレーム問題だ」は、重くのしかかる。「世界の秩序よりはむしろ自分の欲望を変えようと努める」ことが大事なんだろうな。


自由についての「自由意志と自然選択を同一視してはならない。意志決定とは観測される宇宙の中で自分がいかに行動するかを決めることだ。決定は観測を前提とする」「信ずるものを選択するということは、唯一の自由意志行動」「何かを決めるということはそれまでの流れをいったん断ち切り、自らの次の行動を選択するということだ。運命を一瞬、自分に引き戻すということだ」「なるほどぼくたちの決断は、必ずしも真の自由の産物ではないかもしれない。だが決めたことをよいと考えること、その信念を持ち、決めたことを実行し、責任を持ち、そしてそれをよいことだとして受け入れ続けること。そのシステムこそが自由なのだ」のあたりの言及は非常に面白いし、そういう捉え方をしたことはなかったな…


小説としての面白さ、そして知性や人間という存在についての深い洞察。これは良書だ。本当に読んでよかった。