世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】石田英敬、東浩紀「新記号論」

今年90冊目読了。東大教授と、作家・批評家の二人が、対話形式で行った講義と、それに関する補論を書籍化した一冊。


本の分厚さ以上に、その哲学的思索の分厚さに圧倒される。自分自身、どれだけ理解できているか不安だ、というレベルの高さ。自身の理解力の無さが悔しい…


言語、文字については「言語は観念を表現する記号のシステムであり、その点で、文字法とか、手話法とか、象徴儀式だとか、作法だとか、軍用信号だとかと比較されうるもの」「文字は、記憶のしるしにすぎず、文字によって記憶するようになると、自分のうちから思い出すという記憶力本来のあり方が弱められてしまう、文字を使うと自分で思考するのでなく思考するフリをすることに通じる」とする。驚くべきは、「ヒトはみな同じ文字を書いている」という指摘で、「ひとの視覚は、物の辺や縁や角にあたる輪郭の部分要素だとか、物と物がお互いに接しているときの重なり合いの位相的なパターンを手掛かりに自然界な事物空間内の相互位置関係を見分けている」「人間は、自然のなかのかたちの出現頻度をまねるようにして、文字をつくっている。文字と自然は対立していない。それはじつは同じかたちの分布でできている!」と説明されると、なるほどなぁと感じる。


メディアの時代論として「1900年に、活字だけの世界が基本的に終わり、映画とかラジオとか電話とかになっていく」「1950年に、インターネットを準備するコンピュータのテクノロジーが生まれた」「21世紀は、メディアの経験を別のメディアで書き取ったりつくり直したりするようになった」と指摘する。
そして、メディアの進化によって「メディアは、たんなる表象の媒体ではなく、感情と情動が活性化して渦を巻く表面になっていく」「デジタルメディアの法則、すなわち複雑系べき乗則フラクタルからつくられているネットワーク技術が張り巡らされているぼくたちの生活世界では、光学のカテゴリーを離れて、模倣や感染から集団性の問題を考えなければならない」と述べる。


身体と意識の関係性については「フィジカルな活性化が起こることによって、その意識化が起こる」「人間の文化のつくり方から考えると、電子書籍には空間的スペースがないから、iPadは本には勝てない」としつつ「無意識は集団的で情動的でメディア的なものだ」として「欲動は、身体を流れるエネルギーでありながら、記号や表象を生み出すものである」と見抜く。そのうえで「身体ループに身を任せるのではなくて、もう一回り、こんどは認識のループをかける必要がある」と提言する。


コミュニケーションの特性としては「人間のコミュニケーションにおいては、意識には、聞こえることしか聞こえない、伝わることしか伝わらない、という原理がある」「ぼくたちのコミュニケーションは、基本的に聞きたいことしか聞こえない、という構造を持っている」と指摘して「メディア文明が加速すればするほど、バイアスのコミュニケーションは拡がらざるをえない」と述べる。


資本主義の発展については「テイラー主義によって労働が文法化され、フォーディズムによって生産が文法化され、ハリウッドによって欲望が文法化され、最後にそれらの文法を利用し労働・生産・欲望を操作する技術、すなわちマーケティングが生まれた」「それ以後の時代には、消費を説明できなければ理論にならない。だから、メディア論や記号論なしに社会批判は成り立たない」とする。
そのうえで、現状については「モノを消費するためには、ヒトもまた情報にならねばならない」「言葉や知識、記号や言説までが、資本主義の計算によぎられる時代に人類は到達した」「アルゴリズム的統治性が新しいのは、アルゴリズムが人間や意識や意味といった解釈作用を必要としていない現実そのものの計算だからだ」と分析し、「ぼくたちは、消費者というポジションから、記号接地としての生活世界は大丈夫なんですか?という問いを出すべき」と提言する。


現代の問題点については「人間は生まれながらにして自由である、しかし、いたるところでネットにつながれている」「自動化のサービスシステムはあたなをあなたの過去の履歴にもとづく予測に閉じ込めるし、社会的にも同じタイプの履歴のグループの中にあなたの行動を固定化する弊害がある」として「人工知能にヒトの無意識の解読を任せるのではない。人工知能化していく環境におけるヒトの無意識の在り方を定位しうる新しい知が求められている」「補助器官をまとえばめざましいが、人間とともに成長したわけではなく、しばしば危難を人間に与える、補助具をつけた神というちぐはぐな居心地の悪さを、まだしばらくは生き続ける他にない」と予測する。


あまりにも難解だが、ところどころ「あ、なるほど」と納得できる部分が出てくるので、基本的には好感を持って受け入れられる本なのだが、人に勧めるとなると…と二の足を踏まざるを得ない。


いずれにせよ、コロナ禍においては、筆者たちが触れている「コミュニケーションというのは、まず身体で伝わる」「社会生活がメールのやりとりに縮減されるのではダメなのだ。ともに好奇心や関心を育て、お互いの知見を交換して世界が拡がるという経験が成り立たない。重要なのはやっぱりひとりひとりに時間をかけて会い、ともに語り合い、お互いの問いを共有することなのだ」はひしひしと痛感するところ。オンライン、バーチャルがもてはやされる世の中ではあるが、この点はしっかり留意していきたい。