世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】永井路子「この世をば(上下)」

今年33・34冊目読了。ベストセラー作家の筆者が、藤原道長と平安王朝の時代を圧倒的なボリュームで書き表した本。


当然、NHK大河ドラマ「光る君へ」が大当たりなので読んでみたというところ。そして、これがまた実に読み応え十分!道長を「圧倒的な成功者」としてではなく、平凡な三男坊が右往左往しながら権力闘争を泳ぎ抜く、という筆致が素晴らしい。
この時代の捉え方として「摂関体制という言葉にひかれて、この時代を摂政や関白などの独裁の時代と考えがちだが、決してそうではない。天皇、大臣に加えて、きさきと母后が、複雑にからみあい、それぞれ影響力を持ち合うのがこの時代の特色」「当時の天皇は、決して藤原氏に唯々諾々と操られるロボットではなかった。そして摂関と呼ばれる権力者たちも、簡単に天皇のすげかえのできるほどの権力者でもなかった」「母后と能吏、実は彼らはこの時代の影の主役なのだ」は、確かに歴史の授業とはあまりに違う感覚で興味深い。


道長については「それほどの深謀もなく、無我夢中で明子に近づいただけのことなのだが、気がついてみると、それが大きな人生の布石になっている…これにかぎらず、道長の人生にはそんなところがある」「腹を据えてみると、いつ、何をやるべきか、覚悟がきまってくる」「ごく常識的な道を、ゆっくり、やや大真面目に進む。見栄えはしない代わり、少なくとも批判を浴びることを避けるだけの効用はあった」「平凡児の取柄は、凡百の政治家のようにこれを自分の力だと思い上がらないところにある。平凡児の常識、政治における平衡感覚とでもいうべきか。しかし案外歴史の中で強みを発揮するのはこれなのだ。平凡児がおのれの摑んだ幸運におののきつつ、ときにはその幸運に押しつぶされそうになりながら、何とか平衡感覚を失うまいと苦闘するときに、かろうじて困難を切り抜けることができるのだ」とする。望月の歌からは想像もできないギリギリのラインを過ごしていったことは、この小説でよくわかる。


貴族の風潮に対しては「正面切って勝負するほどの度胸はもともとない。向こうが餌を投げてくれば、喜んで飛びつく」「彼らが後宮の近くをうろつくのは、そこに何かの出世の手づるがありはしないかと思うから」「栄華をきわめた人々の背後には、彼らに蹴落とされた数倍、いや数十倍の人々の怨念がつきまとっている。だから、勝利者がいったん体の調子を崩したとなれば、その弱みにつけこんで、得たりとばかり襲いかかってくる」とあるが、これって、現代社会にも同様だよな…


女性筆者らしく「女は一様に恋をし、結婚をし、母となると思っていることこそ錯覚なのだ。ある女にとって恋は豊かでも結婚は貧しいということもある。あるいは恋は貧しく、母としてみのりが豊かなときもある。そして、どの部分も豊かだということはほとんどあり得ず、またその豊かさ貧しさは、ある意味で幸、不幸とも無縁でさえある」「母親というのは、自分以上に息子に愛される存在などあるはずがない、と確信している。もしそういう女性がいたとすれば、それは息子をたぶらかす悪女にきまっている。そう思ったとき、母は無限に強くなる」「たいていの場合、女の言い分は正論である。正論過ぎるほど正論だからこそ、男は沈黙する。が、沈黙は肯定ではなく、まして敗北ではない。現実はまた別なのである」のあたりの表現はさすが。


また、孫かわいさという点についての「新しい生命が誕生したとき、祖父や祖母は、誰しも心をときめかせてその未来図を夢みる。あるいはその子が成人するまで自分たちはこの世にいないかもしれない。それだからこそ、未来図はますます虹色の広がりを持つのである」という指摘は確かにそうかもしれない。頭では理解できるが、体感しないとわからんのだろうな。


政界が乱れきっている2024年においても「いつの世でも為政者というものは、政策を打ち出すことには熱心だが、その結果には、あまり責任をもたない」「政治の世界は、一種のルール社会である。その枠の中で、いかに悪知恵を働かせて合法的に拡大解釈をするか、あるいは既成事実を積み上げて法の骨抜きをはかるか、政治家の腕のみせどころはここにある」の指摘が全く当てはまる。こんなの、当てはまらなくていいんだが…


その他、筆者の記述で心に残るのは「苦境にあるときは、誰もあてにしてはならない。誰も信用してはならない」「何事によらず、理由などというものはどうにでもなるものだ。ちょっと探す気になれば、事の起こった後から、それはのこのこと集まってくる」のあたり。それにしても「人生とは何と悲しく、何とおかしいものなのか。もっともその当事者だけは、いたって大まじめなのであるが…」とは、本当にそのとおりだな…

【読了】ダニエル・ピンク「When 完璧なタイミングを科学する」

今年32冊目読了。21世紀型の動機づけ理論を提示した筆者が、時間生物学に注目した「When to」タイムハックを唱える一冊。


知遇を得た畏友が薦めていたので読んだら、なるほど面白かった、という本


サーカディアンリズムから「感情のバランスは午前中に上昇し、午後に下降したのち、夕方に再上昇する」「体温の上昇により、エネルギーレベルと注意力は次第に高まる。すると、次にわたしたちの実行力や集中力、演繹力が高まる。ほとんどの人にとって、こうした鋭敏な分析能力は、午前中の遅い時間、もしくは正午頃にピークに達する」「イノベーションとクリエイティビティは、わたしたちが最高の状態でない場合(夕方)に最大の力を発揮する」と読み解かれると、結構びっくり。とはいえ「4人のうち1人は、ほかの3人とは異なる時計を持っている」「高校から大学の年頃はフクロウ型に偏るように、60歳以上と12歳以下はヒバリ型に偏る。男性は一般的に女性よりもフクロウ型」ということも留意が必要か。


午後に注意力が落ちないようにするには、昼休憩に「①何もしないよりも何かしたほうがいい②動かないより動いたほうがいい③1人で過ごすより誰かと過ごしたほうがいい④屋内よりも屋外で過ごしたほうがいい⑤中途半端に離れるより完全に離れたほうがいい」「昼食時に仕事以外のことに意識を移せば、疲労感を下げる」「昼寝をする。静かな環境を作り、コーヒーを一杯飲み、タイマーを25分に設定し、一貫して繰り返す」は、確かに眠気に悩むタイプなので納得。


また、人間の特性として「人は中盤で手を抜きやすい」「人生の中間点で幸福感が落ち込むのは、希望が実現しなかった事実に落胆するから、または生物学由来」「中年のスランプに立ち向かうには、①目標に優先順位をつける②ミッドキャリア層のためのメンターシップを導入する③ポジティブな出来事を頭の中から取り除く④自分を思いやる短い文章を書く⑤待つ」のあたりは、まさに中年まっただ中にある自分としては参考にしたい。


集団のタイミングの原則は「①外部の基準がペースを定める②個人が結束するために帰属意識が役立つ③同調は必要であると同時に幸福感を高める」「集団はボス、仲間、ハートという3つのレベルで、タイミングを一致させる必要がある」だという主張も体感と一致する。


筆者の「結局のところ、わたしたちは意味を求めているのだ」は、全く共感できる。けっこう面白く読めた。

【読了】垂水雄二「悩ましい翻訳語」

今年31冊目読了。主に科学分野の翻訳を行う翻訳家の筆者が、科学用語の由来と誤訳を探る一冊。


なかなかマニアックな中身だが、案外読み応えがあって面白かった。確かに、翻訳語は魔窟だよなぁ。


翻訳語の難しさについての「訳語の選択は異文化コミュニケーションの根幹にかかわるもので、歴史的にも漢語から日本語への翻訳に際して、多くの先人を悩ませてきた。しかし西洋語から日本語の翻訳は、言語学的・文化的な背景がまるで異なるため、さらに大きな困難がともなう」「学者にとっての文献は基本的に漢文だった。杉田玄白の『解体新書』の翻訳はオランダ語を日本語に訳したのではなく、漢文に訳した。そこには、同じ漢字を使うことによる誤解の可能性が常に存在した。さらに厄介なのは、最初の英華辞典をつくったのも、英和辞典をつくったのも、宣教師たちであったこと。中国語と日本語に関しては同じ文字を使っていることからくる安易な流用が、誤った訳語の定着に関与していた可能性は非常に大きい」という指摘はなるほど納得だ。


動物系で知らなかったこととして「英語のlocustは、バッタ類のほかにセミの意味もある」「dolphinは、イルカと訳してなんの問題もないように思えるが、英米文学では魚のシイラ(ハワイではマヒマヒと呼ばれる高級魚)を指すことが多い。ヘミングウェイの『老人と海』の初期の翻訳では、シイラがイルカと訳されていた」「リムスキー・コルサコフの楽曲『クマンバチの飛行』は本当は『マルハナバチの飛行』が正しい」「バンドウイルカは正しくはハンドウイルカ。字は『半道』で、古くから中国から能登半島までの日本海沿岸で使われていた呼称だが、鯨類教授の提唱が誤ったこと、言葉の響きがいいことから広く受け入れられるようになった」「ホンソメワケベラは、ソメワケベラより細めの体なのでホソソメワケベラという和名がついたが、この『ホソ』が誤植によって『ホン』となり、いつのまにか定着してしまった」「ゴキブリは、『ゴキカブリ』が脱字によって『ゴキブリ』となっていて、それを教科書が採用してしまったために、正式な和名として定着してしまった」のあたりはなかなかびっくり。
さらに「抗生物質antivioticsは、実際には細菌にしか有効でなく、ウィルスやその他の病原微生物にはほとんど効果がない。本来なら抗菌物質(antibacterial)とすべきだった」「マニュアルというのは、ラテン語のmanus(手)を語源としており、手動、手作業という意味で、もともとは、精神的、理論的なものへの対語だった」のあたりも、そうなのか、と驚嘆する。


漢字にも罠がある。「中東地方から中国に渡来した産物には、胡(正しくは北方や西域の異民族の総称であるが、こうした用法では、現在の中東地域を指す場合が多い)の字がついている。胡瓜、胡桃、胡麻といったものはみんなそうだ。だが、地名がいつも正しい産地を示しているとは限らない。日本で唐の字のつく作物、唐黍(トウモロコシ)、唐辛子、唐芋(サツマイモ)、唐茄子(カボチャ)などは、すべて中国を経て日本に伝わったが、どれも中南米の原産で、大航海時代にヨーロッパにもたらされ、そこからインドなどを経てきたもの」「和名はもともと漢字で表され、場合によって読みがルビで付されていた。戦前の漢字カタカナ混じりで書かれた論文では、地の文と区別するために、生物名はひらがなで書くのが普通だった。戦後、国語改革によって漢字ひらがな混じりの文章が推奨されるのについれて、動植物名はカタカナ書きが通例となった」は、なるほどと思う。
ドイツ語も難しい。「キューティクルは、ドイツ語でクチクラ。そのほかにも、ドイツ語でオルガナイザー(英語ならオーガナイザー)、エネルギー(エナジー)、ヒエラルキーハイアラーキー)などもそうだ」って、まぁ確かにそうだが、普段は気にしない…
人名でも「エルキュール・ポアロは、フランス語を話すベルギー人なので、こう表記されるが、英語ではハーキュリー・パイロットという発音になる」「Hepburnは、当時の日本人にはヘボンと聞こえたのだろうし、自らもそう記しているのだが、この同じ綴りを持つ題詠が女優はヘップバーンと呼ばれた」「映画監督のイングマール・ベルイマン映画女優イングリッド・バーグマンはどちらもBergmanである」は言われれば…という感覚。かくも翻訳は難しいといことか。


余談ながら、脳科学好きとしては「ニューロンのfireを『発火』と訳すのは、どうみても誤訳。このfireは映画などで軍隊の指揮官が大砲や銃の一斉射撃を命ずるあの『ファイアー』に他ならない。『発射』と訳すべきところを誰かがfireの字面にとらわれて、発火と誤訳し、それがまさに燎原の火の如く脳科学者の間に燃え広がってしまった」が笑えた。そうなんだ…

【読了】武田砂鉄「わかりやすさの罪」

今年30冊目読了。フリーライターの筆者が、わかりやすさがもてはやされる現代に警鐘を鳴らす一冊。


筆者がひねくれ者なのはよくわかるが(笑)、それで片付けられない深さがあるように感じる。


現代社会の病理として「『どうしてこの私にわかるものを提供してくれないのか』という姿勢は『わかりやすさの罪』の最たるものだ」「今という時代は、こっちが理解できるもんを出してくれという生温い受動性と、こっちはそっちも理解してますから、という身勝手な能動性が、相手に対する最低限の尊厳さえ損なっているのではないか」「このところ、世の中のあらゆる場面で、話にオチをつけなければならない強迫観念がある」「正解を欲する。正解を共有できなければ怖くなる」のあたりは共感できる。
また、「理解のために、理解できないものを排除する、歓迎しない。この姿勢が『わかりやすさ』と抜群の相性を見せてしまうのは窮屈である」「どこまでも効率化が図られていく状態を、今を生きる人間として優れていると規定するのはまったく乱暴」という指摘も、行きすぎた社会の息苦しさをうまく掬っていると感じる。


わかりやすさに振り切らないほうがいい理由として「他者の創造や放任や寛容は、理解し合うことだけではなく、わからないことを残すこと、わからないことを認めることによってもたらされる」「人の心をそう簡単に理解してはいけない。そのまま放置することを覚えなければいけない。理解できないことが点在している状態に、寛容にならなければいけない」「わかりにくさを描くことの先に知は芽生える」「余計な話が含まれていたほうが、人と人は対話をしやすくなるはず。余計な話、無駄な話があるから、考える余白が生まれる」というあたりも、よく理解できる。


どのように、情報に触れるべきか。筆者の主張する「検索できるのは自分の知っていることのみ。そうならないよう、検索未満のうっすらとした記憶や興味を、特定の場所(新聞、本屋など)を徘徊することによって形にしたい」「偶発性をふんだんに用意しておかなければ、唐突な定義に翻弄されてしまう。情報を操作されてしまう。自分から検索サイトを翻弄させるくらいの気持ちで臨まなければ、あちらはこちらに『まるで偶然』を仕掛け続けてくる」「情報に対して受け身になりすぎることによって、思考の幅が萎縮する。あれとこれをこじつける力というのは、あくまでも自分で有していかなければならない」という姿勢は、自分も意識しているところで、共感できる。


そのほかにも「自分の放ちやすいように加工され、盛られ、整理された文句って、相手にはさほど響かない。人が読みたくなる文章というのは、これまで見たことがない、でも、それがあると知ってはいて、それについて語られているのを初めて見るもの」「本は、そして文章は、すぐには掴めないからこそ、連なる意味があるのだ」のあたりは確かになぁと思う。


筆者の結論が「結論を出す、というのは、そんなに優れたことなのだろうか。そう簡単にゴール地点を探さないほうがいい」というのは皮肉だが、なかなか頷けるところが多い。これは一読をお薦めしたい。

【読了】鈴木勇一郎「国鉄史」

今年29冊目読了。川崎市市民ミュージアム学芸員の筆者が、国鉄通史を分析する一冊。


関係者ではないのに、よくここまで調べたなぁ…という細かさ、わかりやすさ。通史として見るにはわかりやすいと感じた。


そもそも国有鉄道について「一般的な国鉄のイメージである全国一体のネットワークは、明治初期の鉄道創業期からあったものではなく、日露戦争後の鉄道国有化にその直接の起源がある」「ヨーロッパの国で国鉄が誕生するのは、20世紀に世界大戦を経験してから。日本が1870年代に国鉄方式を採用したのは、ずいぶんと先走ったことだが、これは近代的な技術や大規模な資本が必要な産業は、政府が作るしか仕方なかった面もある」と指摘。
日露戦争後に鉄道国有化が具体化したのは「日露戦争後の恐慌と軍事的要請」があり「鉄道国有化で生じた巨額の資金が、電鉄や電力業というった都市化を背景として成立した新興の分野に再投資され、急速に発達する背景となった」から、というのは面白い。そして「戦時中の国鉄は、物資の不足や激しい空襲にもかかわらず、最後まで輸送ネットワークを維持した。さらにその収益も、戦費をまかなう臨時軍事費に強制的に組み込まれるなど、国鉄は戦争遂行に大きな役割を果たした。戦時中は、大きな犠牲を払って国家に貢献したという意識が、その後の国鉄関係者の意識に長く残っていく」。


戦後国鉄の問題について「戦後の国鉄(40万人)は平時の帝国陸軍(29万人)をしのぐ規模の人員を常時抱えていた」「戦後の国鉄が政府直営から公社形態となったのはまったく占領軍の意向によるもので、日本側の事情によるものではない。なので、このときには鉄道のあるべき姿については、ほとんど議論されなかった」「二万キロの路線網と数十万の従業員を擁する巨大組織のトップに立つ総裁、と聴けば非常に立派な役職だが、実際には予算は国会承認が必要で、設備投資計画も鉄道建設審議会での審議が必要と、重要なことを決める権限は何もないポスト」「膨大な従業員を抱えながら『能率的な運営』と『公共の福祉』の両立を求められる上に、運賃も給料も自分では決めることができないということ自体に無理があった」としているのは『仕組みの問題』を明確に認識できて、わかりやすい。
また、国鉄崩壊に至る道筋の振り返りも「昭和40年代に入って鉄道に対する政治の影響力が強まっていく過程が、国鉄の経営悪化とパラレルに展開した。それは同時に、都市交通とローカル線→地域交通のあり方、新幹線→ナショナルネットワークのあり方、という21世紀の日本で大きな政治課題となる様相が出そろってくる過程でもあった。そもそも鉄道網をどう構築・維持するかということは、政治そのもの」「鉄道事業の公共性を発揮するためにこそ、国鉄改革の目的がある。その上で、将来的にも鉄道が主要な役割を果たしていく分野を①中距離都市間旅客輸送②大都市圏旅客輸送③地方主要都市における旅客輸送、に絞り込んだ」「磯崎総裁の当初の目論見とは裏腹に、生産性向上運動は、後藤新平が苦心して作り上げた『国鉄一家』意識の崩壊を加速する結果となった」「スト権ストは、ふたを開けてみれば、政府はスト権を認めない上に、トラック輸送によって大都市への物資も止まることはなく、国鉄はもはや物流の大動脈を担っていないという冷厳な事実があらわとなった。このときに『国鉄の終わり』が始まった」「スト権ストとその直後の運賃5割値上げという『暴挙』は、利用者の国鉄離れを決定的なものにした」と、適切に解説している。


新幹線についての記述も興味深い。「島秀雄は、需要が多い→線増が必要→一挙に建設するのが合理的→新線に特急・急行を集約→最新技術の列車を走らせる→広軌の高速列車を走らせる、という形で徐々に順を追って新幹線構想を提案していった」「大蔵省は、新幹線の経費が当初の倍になったことについて『国鉄に完全にだまされた』『国鉄は信頼できない』と不信感を強めた。このことは、1970年代以降に国鉄の財政状況が悪化してから、大蔵省の国鉄に対する姿勢に影響を及ぼした」「あくまでも在来線の別線と位置づけられていた従来の新幹線とは異なり、全国新幹線鉄道整備法(全幹法)にもとづいて建設される新幹線は、全国の各都市をつないで国土開発の核となるという新たな使命を与えられた」「国鉄分割民営化の大きな目的は、政治の関与を避けることにあった。しかし、全幹法という法律に基づいた新幹線網のグランドデザインと基本的な政策の枠組みは、JRと関係ないところで決められる」「整備新幹線の事業が進むことで、JRは地域輸送機関としての色彩を弱め、長距離輸送機関としての役割を強めることとなった」のあたりのストーリーを知らないと、どうにも現代が読み解けないのも間違いない。


ローカル線問題についての「特定地方交通線の廃止は、かつての日本の鉄道ネットワークのグランドデザインであった鉄道敷設法体制が、徐々に崩れていく過程」「都市圏での人口減少はまだ始まったばかりだが、地方の市町村ではすでに21世紀の初めから人口減少がかなり進んできた。地方のローカル線の沿線では、鉄道に乗る乗客が減るという以前に、そもそも住む人々が減っており、地域の課題を解決する力自体が衰えてしまっている」「地方ローカル線問題は個々の路線収支だけを考えれば良いのではなく、その地域の未来にどう向き合うのかが問われる」という指摘はそのとおりで『仕込まれた時限爆弾』をどうするか、はまさに国のあり方に関わる話。


余談ながら「1889年の東海道線全通は、1890年の初の衆議院選挙及び第一回帝国議会という画期的なイベントが控えていたから」「鉄道開業以来時刻の表記は、午前・午後で分けられていた。関門トンネル開業時のダイヤ改正の際に、24時間表記が採用され、現在までそれが続いている」のあたりは知らなかったなぁ…

【読了】孫泰蔵「冒険の書」

今年28冊目読了。インターネット関連のテック・スタートアップの立ち上げに従事している連続起業家の筆者が、AI時代のアンラーニングについて物語形式で書き記した一冊。


筆者は「教育と社会は両輪であり、社会を変えたければ教育も同時に変えないといけない」と主張し、その軸で数々の偉人との対話を展開していく。


現代に続く教育システムについて「義務感で学んだところで自分の身になるわけはないし、まんべんなくプログラミングなどを学んでも、実際のところつぶしなんてまったくきかない」「私達の心の中から追い出さなければならないのは、私達の心の中に巣食う『生存競争を勝ち抜かなければならない』という強迫観念」と批判。そもそも学校が「学校は、監視・賞罰・試験という3つのメカニズムの複合体で、生徒が自ら服従するよう、巧妙にできている」「学校が悪しきものであるのは、それが技能訓練と人間形成を無理やり結合しているから」「評価は、本人のやる気や励みになる限りにおいては好ましいが、それ以上になる時にはまったく好ましくない」と問題を抉り、解決策として「なにはともあれ、初めは自由に遊んでなれ親しむ。その後、深く極めたいと思った時に初めて『自分が基礎だと思うこと』を徹底的にみがく。このほうがよっぽど自然で、その世界に入りやすい」と提言する。


遊びの捉え方についても「本来、『遊び』と『学び』と『働き』はひとつのものだったのに、それがまったく別々のものだと分けられてしまった結果、すべてがつまらなくなってしまった」「遊びは、新しい学びや創造、発見などをするための本質的な活動だったにもかかわらず、ただの『エンターテインメント消費』になってしまった」と、斬新な視点で切り込む。


筆者は、能力信仰とメリトクラシー能力主義)を批判し、それを超える社会を作らねばならない理由として「①『学び』から『遊び』が分かれて、どっちもつまらないものになってしまっている②『能力』や『才能』という概念がやる気や自信を失わせてしまう③能力信仰やメリトクラシードロップアウトを生み出しやすい原因となっている④本来は必要のないペシミズムにおちいった不幸な子どもたちが生まれ続ける⑤最終的にはほとんどの人の仕事が人工知能にとってかわられてしまう」と指摘する。


問いと思考についての「思考には『これまで積み重ねたものを捨てることで、新たな思考が生まれる』という作用が根源的にひそんでいる」「今残っている複雑で大きな問題を解決するいとぐちは、答えようとすることではなく『核心を突く良い問いを立てること』」「イノベーションは、誰かがユニークな問いを立てて行動を起こし、あくなき探求を続けた結果、たまたま画期的な新しい発見や発明が生まれたもの」「小さな『問い』に始まり、『つくる』ことを通じて『わかる』ようになる。同時に『わからない』こともたくさん生まれ、そこからさらなる『問い』が生まれる。それを繰り返していくうちに、なにか『形になったもの』が生まれる 」という考察も、非常に共感できる。なるほどと思わされる。


否定的なコメントをした後で、筆者が前向きな言葉を投げかけてくるのは勇気が湧く。「『しなければならない』にしたがうのは思考停止のあらわれ。思考停止はかならず『手段の目的化』を生み出す」「何歳からでも、いつでも、今すぐにでも、自分を変えて行動することはできる」「『自分の人生は誰がなんと言おうと自分で決めるべき』。自分の頭で考え抜いて、自分で決めていれば、どんな困難があろうとも誰かのせいにすることなく、自分で乗り越えていくことができる 」「なにが役に立つかわからないんだから、世の中で良いとされているものに従わなくても、誰かが決めた評価軸に合わせなくてもいい」「世界は自ら変えられる。自分の人生をいきいきと生きていれば、それは幸せな状態。そのためには『未来に希望が持てること』と、『切りひらこうと思えば、実際に切りひらけること』の2つの条件が満たされなければならない」「『世界は自ら変えられる』とは『自分自身が変わること』」のあたりは共感できる。


人工知能時代だからこそ「人間が人工知能にひれ伏すことによって人間が『労働』から解放されれば良い」「物事をリフレーミングして新しい意味を見いだせるのは、動物でも人工知能でもなく、人間だけ。それこそが人間の役割。これからの時代の僕たちの仕事は、『社会にいかに無駄や余白を組み込むか』を考え、いつでもリフレーミングができるようにすること」という考え方は大事にしたい。


余談ながら「自立するとは、頼れる人を増やすこと」は、本当にそのとおりだと感じた。これは良書だ。

【読了】萩原さちこ「城の科学」

今年27冊目読了。フリーの城郭ライターで編集者の筆者が、個性豊かな天守の「超」技術を紹介する一冊。


城好きでないと、まず手にしない本だし、そうでないと読んでて楽しくないだろうな、という図書館で見つけた一冊。よくこんな本が出版されたものだ(笑)。


城と都市の関係について「新幹線が停車するような発展した都市には必ず城があるのは、城が領国の要であり、流通・経済・商業の中心地であったから。近世以降、城を中心に城下町が繁栄し、現代社会がつくられてきた。発展した都市だから城が残っているのではなく、城があるから都市が発展した」と述べるのはそうだし、「天守は壮麗なシンボルタワーであると同時に、それ以上に実戦のための防御施設としての役割を担っていた。見た目の美しさが大切なのは間違いないが、美観と実用を兼ね備えていることがとても重要だった」というのも納得。


他方、「軍事施設である城は、時間をかけて素材を厳選し、こだわり抜いてつくられる。ときには辻褄合わせのような技術を使い、ごまかしたりすることも。試行錯誤した、不完全さが詰まっている。生まれながら特別な存在意義を持って維持と管理がされてきた寺院建築とは異なり、天守は常にガタを抱えながら、時代の変化のなかでなんとか生き延びてきた建物」という観点は忘れられがちで、押さえておきたいポイント。


時代による変化についても、信長は「天主を建てただけではなく、城全体を高い石垣で囲み、恒久的な礎石建築を城に取り入れた。それまで戦うためだけにあった城には見せつけるという要素が加わり、存在意義までもがらりと刷新された」。それが家康の時代には「軍事施設であれば実用性さえ追求すればよく、絢爛豪華な天守など必要ないように思えるが、新領主の威厳と威光、さらには徳川政権の権力と新時代の到来を見せつけるため、強さと美しさを兼ね備えるのが、この時代の城のあり方」「家康の命により天下普請で築かれた城は、同一規格なのが最大の特徴。徳川の城は、統一化されているため実用がスムーズ。いつ誰が命を受けてもすぐに使いこなせる」となる、ということを頭に入れるとまた城の面白さが立体的になる。


個別にも「平成27年松江城天守天守としては67年ぶりに国宝指定された。大きな理由は、独自の建築技法が明らかになったこと、その建造年が判明したこと」など面白い記述は多いのだが、あまりにもマニアックすぎるので割愛。余談ながら「天守閣という呼称は明治以降の造語。おそらくは楼閣建築から天守が発展したという解釈から生まれたようで、俗語」は知らなかった…


間違いなく一般受けしないが、一般の人はこんな本を手に取るわけもない、か(苦笑)。