世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】坂井孝一「源氏将軍断絶」

今年27冊目読了。 創価大学文学部教授の筆者が、なぜ頼朝の血は三代で途絶えたのかを解き明かしていく一冊。


これも大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にハマっているが故に読んだのだが、やはりこの時代はなかなか面白い。源平合戦だけではなく、その後のドロドロを読み解くのは非常に学びが深い。よくぞ、このテーマを大河で取り上げたものだ。


そもそも「鎌倉幕府には9人の征夷大将軍がいた。頼朝、頼家、実朝の三代を『源氏将軍』、四代の頼経、五代の頼嗣を『摂家将軍』、六代の宗尊親王以下、九代の守邦親王までを『親王将軍』と呼ぶ」ということ自体、知らない人が多いであろう。そして、なぜ、将軍がそのようになったのか。


後知恵で、実権を握った北条氏寄りの歴史記述になりがちな点については「『吾妻鏡』が北条得宗家を顕彰するのは、北条氏が頼朝の後継者と位置づけるためであり、二代頼家を蹴鞠に没頭した『暗君』として描き、また三代実朝を和歌・蹴鞠に耽溺し、遂には暗殺の憂き目にあったかのように描くのも、頼家・実朝が頼朝の政道から外れ、継承できなかったことを示すため」「誇張と虚構を交えて描く。地理的に異なる地点、異なる時間で起きた合戦を、同時に行われたかのごとく叙述して劇的効果を上げる。記事の中にあえて『超常的な奇瑞』を織り込み、勝利には神仏の加護があったとする。反逆の鎮圧によって秩序の回復と君主の交代があったことを示す。これらはいずれも軍記物の典型的な構造であり、類型的な表現」と鋭く指摘。


元々、頼朝は自身の正統性を証明できていなかった。そこで「源頼義が厨河で行った安倍貞任の梟首の儀礼を頼朝は藤原泰衡の首で再現し、全国から動員した御家人たちに追体験させた。これは、自らを鎮守府将軍頼義の『正統後継者』と位置付けることにより、『唯一の武家の棟梁』としての地位と権威を確立しようとする頼朝の『政治的演出』」「『将軍』とは源頼義や、その子の八幡太郎義家、奥州藤原氏の秀衡が任官し、東国で大きな権威を発揮してきた『鎮守府将軍』を意味する。頼朝は、その『将軍』よりもさらに大きな権威を持つ『大将軍』の号を求めた」わけだ。
ちなみに「朝廷は『大将軍』の上に冠する候補のうち『征東』は木曾義仲、『惣官』は平宗盛がともに滅亡したから不吉、『上将軍』は日本に先例なし、『征夷』のみ坂上田村麻呂の吉例があるので適切との結論に達した」は、知らなかった…


頼家は大病の不幸があったが、「擁立された鎌倉殿・将軍だった実朝が成長を遂げ、自ら主体的・積極的に裁決を下す将軍親政を開始し、執権や宿老の補佐と支持を受けつつ安定した幕政運営を行った。『源氏将軍の確立』は実朝によって果たされた」「将軍実朝は摂関家相当の貴種であるだけでなく、為政者としても優れていた。しかし、実朝一人の権威や脳裏だけでは幕政を安定させることはできない。また、御家人たちの最上首たる執権の義時や経験豊富な広元は、優れた行政能力を持っていた。しかし、彼らは有能な貴種である実朝を自在に操る力も意思も持ってはいなかった。将軍と執権以下の首脳陣が『チーム鎌倉』として結束することで、はじめて幕政の安定が実現できた」と見るのは、授業で習った歴史とは大きな差がある。


しかし、実は実朝が親王将軍推戴し、親王将軍を後見するということこそ、彼の死よりも前に『源氏将軍断絶』に向かった、と指摘。「承久の乱後ならばいざ知らず、乱以前における朝幕の力関係や権威・格式の差からいって、一旦、王家の血統が注入されれば、それを元に戻す、つまり頼朝の源氏の血統に戻すことなど考え難い不可逆的なこと」と主張する。


歴史とは、時代を超えて学ものであるのだが、故に「中世の人々は重大な事件があると、その前に起きた通常とは異なる出来事を探し、事件の前兆という意味を与えるのが常であった。異変の記述の不可思議さに目を奪われ、そこに現代的・合理的な解釈を加えようとするのはあまり意味がない」ということには留意しないといけないだろうな。


筆者の「承久の乱」に続いて、本書も興味深く読めた。