世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】野村萬斎「狂言サイボーグ」

今年185冊目読了。ご存知、第一線で大活躍をする狂言師である筆者が、狂言を通じて伝統、身体性などとの向き合いを読み解いていく一冊。


これはとても興味深い。狂言について何も知らなくても、非常に勉強になる。筆者が読みやすい言葉に砕いてくれているのも助かる。


教養について「教養とは、『生きていくために身につけるべき機能』のことである。知識として暗記したものは教養ではない。狂言であれば、狂言師が舞台をつとめるための教養は『型』である。その『型』を個性・経験でアレンジしながら使っていくことで表現になる」「自己を表現し、また人を楽しませるためには、演技術として辛い事や我慢することも必要である。それが『型』というものの一面である。そしてその『型』へのひたむきさを解放・発散するとき、健康で幸せな笑いを演者・観客ともに共有することができるのである」と述べているあたりは、なるほどなぁと思う。


伝統について「伝統というものは普遍的な事をテーマとしつつ、だからこそ時代時代に即応し今日まで受け継がれてきているのだ」「伝統を権威化するのは意味がない。実力もないのに道具を自慢してその気になっているようなものだ。道具の構造を理解し、使い方を知らせなければならない。つまり『型』の生まれた必然を考え、現在に意味を持たせなければならない。そのためにも、狂言の進化の過程を繰り返す必要があるのだ」「自由を求める自我と伝統という巨大な枠組みの葛藤。しかし囲いがあるからこそそこそこに遊戯の精神が生まれ、逆に自由に表現できる」という考えを持っているから、筆者は柔軟に積極的に外的交流を行うんだな、ということがよくわかる。


人間と身体性についての「人体は一種のハードウェアのようなものだ。知識ではなく身体で『型』や『カマエ』といったソフトウェアを体得させた精巧なコンピュータを持っていれば、実はそれだけ個性を発揮する力にもなる」「面をかけることもある能・狂言の世界では、物を見る時『胸で見ろ』と言われることがある」「農耕民族である日本人は、田植えのポーズがキマル。骨盤を下に向けてひざを折ったポーズである。おしりの肉を緩めた状態である。重力に沿った形で苗を植えていく。意識は『下へ下へ』である。欧州の狩猟民族は獲物が上にいることが多いせいか、はたまた馬に乗ることが多いせいか、尻を締めて骨盤を上向きにして『上へ上へ』の意識である」は、なかなか面白い。


現代の「『語り』というものも聴覚から情報を彷彿させるのに優れている。聴覚から視覚への変換。しかしテレビ・映像という文化が発達し、何でも具体的に視覚から視覚的なことがわかるようになった現在、『語り』の文化は遠回りに映るであろう」「近年日本語は抑揚を失い平坦化し、それに伴いスピードアップが著しい。語彙も激減して言葉の記号化、情報至上主義が進んで、人々の語感も衰退している」という時代の流れへの分析は、遠回しに警鐘を鳴らしているとも捉えられ、考えさせられる。


不勉強な自分にとっては「能・狂言のルーツは中国にあり、唐の時代の『散楽』と呼ばれた芸能であったと聞いている。滑稽な物真似、軽業曲芸、奇術魔法などの大道芸が日本に亘り、寺社の祭事・神事と結びつき『さんがく』が訛って『猿楽』になったと聞く」「狂言は母体に近い滑稽な物真似を踏襲、しゃべり言葉と仕草の喜劇となり、能は様式性の強い文語体の文章を謡うようになり、舞とともに構成された仮面劇の悲劇へと発展していった、とも私は考える」「『狂言』という字を見ると、いかにもいかつい言葉である。『狂』の字がその原因であろう。しかし『狂』の字は『物狂い』やシャーマニズムに代表されるような、取り憑かれた状態を意味するとも聞く。『言』の字は『言葉』、狂言がセリフ劇であることを示す」のあたりは勉強になった。


筆者の「私にとっての『自然体』とは生身の個人というよりも、型を身につけているデジタルな演技という意味である」は、なかなか衝撃的であり、故にこのタイトルなんだな、と納得。2021年の終わりに読んでみると、「筆者がプロデュースする東京五輪2020の開会式を見たかったなぁ…」と切に思う。


三谷宏治お薦めの本には、本当にハズレがない。これも一読をお薦めしたい。