世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】佐藤晃子「この絵、どこがすごいの?」

今年56冊目読了。洋の東西を問わず、美術史の著書を執筆するライターの筆者が、名画のひみつと鑑賞のルールを解き明かしてくれる一冊。


「名画とよばれる古い絵を観るには、最低限の予備知識がないことには、どうにもならない」「名画とよばれ、人々から大切に守られてきた作品には、それまでに描かれた絵とは違う、斬新さや優れた点が必ずあるもの。それらを知れば、なぜその絵が歴史の中で埋もれず、現代にいたるまで伝えられてきたか、その理由が浮かび上がってくるはず」というコメントは、全くそのとおりだなぁと感じる。
特に、半年前、いや3か月前には「名画って何だっけ?」というような認識しかなかったド素人としては、「絵画は知識をもって読み解き、それに自分の感性をシンクロさせるもの」ということをようやく掴みつつあるので、ただ感覚だけで絵画鑑賞はしてはいけない(ダメではないだろうが、本質に切り込むことは出来ない)と感じている。


この本の面白いところは、西洋・日本の両方を一冊で取り上げているところ。絵画を少し学んだことのある人であれば「ああ、これね」と見てわかるのだが、他方、ド素人には全くわからない、という難点がある。日本画も、国宝の勉強をした時に大枠と流れを掴んでいたのでわりとすんなり頭に入れられたが、それがなければ相当苦労しただろうと思う。
でも、せっかく西洋と日本をまとめて一冊にしたのだから、両者の関連性まで切り込んでくれたらよかったのにな、と思う。だが、それは初心者向けではない、ということなのだろう。


それにしても、絵画というのは本当に「入口のハードル」が高い。少し学べばだんだん面白くなるのだが…。歴史嫌いの人にとっては、戦国や幕末の話をされても「何だっけ?」となるのと同じように、絵画についての基礎知識がないと、どこからとっかかっていいのか、さっぱりわからない。でも、知れば知るほど文化や歴史、世界観などが見えてくる。これは奥深い世界で、入門書を書くのは大変なんだろうな、と感じる。本書も、紹介されている8割がたの絵画についての知識を持てるレベルになったため、面白く読めたが、知識なければチンプンカンプン。


まぁ、不思議な世界だな。知は力なり。

【読了】馬田隆明「未来を実装する」

今年55冊目読了。東大産学協創推進本部FoundX及び本郷テックガレージディレクターの筆者が、テクノロジーで社会を変革する4つの原則を説く一冊。


分厚さに圧倒されるが、中身はとても興味深い。「今の日本に必要なのは、注目されがちな『テクノロジー』のイノベーションではなく、むしろ『社会の変え方』のイノベーションではないか」という問題提起には頷かされる。
社会がデジタル技術を無視できなくなってきているのは「①デジタル技術が規制領域に深く関わるようになってくる②デジタル技術自体が規制の対象となる③デジタル技術と国際政治の関係が深まる」からであり、その時代においては「良い問いを『見つける』というよりも、優れた理想を設定することで、良い問いを『生み出し』、理想を『提示する』ことで人々を巻き込む」というインパクトが必要だと述べる。


しかし、今の日本のように成長が少なくなった社会では、「多くの課題がすでにある程度解決されている、理想が描きづらい、新技術の便益が少ない、変化で損をする人たちがいる、過去の制度が変えづらい」ことから、テクノロジーの社会実装が遅くなる、と述べつつ、「新たなテクノロジーが導入されるタイミングは、労働人口の原初による高賃金化が主な要因」とも指摘する。
「テクノロジーの社会実装とは、テクノロジーの力によって社会を変えようとする営みであると同時に、社会の仕組みを変えることによってテクノロジーが活用される社会を作り出す営み」という提言は、なるほどと思わされる。


成功する社会実装の原則は「①最終的なインパクトと、そこに至る道筋を示している②想定されるリスクに対処している③規制などのガバナンスを適切に変えている④関係者のセンスメイキングを行なっている」であり、その前提として「社会実装をしようとしているテクノロジーに対するデマンドがある」ことが必要だ、とする。


社会実装の際には「サプライサイドからデマンドサイドへと発想を転換しなければならない」とし、そのためにも「①インパクトを設定することが変化のために必要な要素②長期的成果に目を向けることで、短期的な費用便益のバランスの合わなさを補填できる③関係者に目的を説明できるようになる④でまを醸成できる」という理由からインパクトが大事だと説く。
そして、インパクトを設定するときは「私企業の利益や私益よりも、公益を重視して設定することで、多様なステークホルダーの巻き込みが可能になる」「良いインパクトを見つけるには、遠回りのようでも、結局何か興味のあることや小さな社会貢献を始めてみることが一番の近道」とする。


リスクに関しては「テクノロジーの発展が引き起こすリスクは、そのテクノロジーの社会実装をしようとする人々の想定を超えて生まれてくる。それを限りなく考えたうえで、あるべき社会やインパクトとの整合性を取りながら社会実装を進めていくことが、事業者に求められる視点」「倫理というブレーキがあるからこそ我々はより良い事業と、より良い社会を作っていくことができる」「倫理は自分たちでアップデートしていくことができる」とする。


ガバナンスについては「インパクトを基にどんなにガバナンスをうまく設計したとしても、一人ひとりが変わって、お互いが約束したガバナンス通りに動かなければ、新しく作ったガバナンスの体系は機能しないし、社会実装は進まない」と警告する。


センスメイキングとは「ステークホルダーが『理にかなっている』『意味をなす』『わかった』と感じることによって、人々が動き出すプロセス」と定義。「センスメイキングは、決して誰かが一方的に与えるのではなく、関係者と一緒に共同構築していくもの」「センスメイキングをする主役はあくまで受け手側にある」と、留意すべき点を述べる。
「センスメイキングは主観的な理解を基にしているので、そこに大きな影響を与えるのが物語、つまりナラティブ」「センスメイキングの際には、ナラティブの語り口やフレーミングを変える」「信頼を作り上げるときに、適切なガバナンスの仕組みを整えること、そしてステークホルダーと一緒になって意味を共同構築していくセンスメイキングを行っていくことは、これまで以上に大きな意味を持つ活動となっていく」というのは、技術的な話だけではなく汎用性があると感じる。


「他人の行動を変えたければ、その人に対して主体感やコントロール感を与えるべき」「脅威に基づく行動要請よりも、ポジティブな結果を示唆する行動要請のほうが、変化を導くには有効」は、組織ではたらく全ての人が押さえておくべきポイントだろうな。

【読了】梨木果歩「西の魔女が死んだ」

今年54冊目読了。英国に留学し、児童文学を学んだ作家の筆者が、中学に進んでから学校に足が進まなくなった少女とその祖母との交流から、世界観・死生観が展開されていく小説。


小4の娘が「読みたい!」と図書館で借りてきたので、拝借して読んでみたところ、これがなかなか深い内容で驚かされる。アラフィフのオッサンが読んでなお、かなり興味深い人生訓・人生観が展開されている。


主人公は「感受性が強すぎるのね。どうせ、何かで傷ついたには違いないんだろうけど。昔から扱いにくい子だったわ。生きていきにくいタイプの子よね」と母親から言われるような子で、祖母との交流が実に自然豊かに生き生きと描かれていく。


ネタバレ回避のために、ストーリーは割愛するが、「魂は身体をもつことによってしか物事を体験できないし、体験によってしか、魂は成長できないんですよ。ですから、この世に生を受けるっていうのは魂にとっては願ってもないビッグチャンスというわけです。成長の機会が与えられたわけですから」「いちばん価値のあるもの、欲しいものは、いちばん難しい試練を乗り越えないと得られないものかもしれませんよ」というおばあちゃんからの言葉には強く賛同するし、「精神力っていうのは、正しい方向をきちんとキャッチするアンテナをしっかりと立てて、身体と心がそれをしっかり受け止めるっていう感じですね」は、体感としてなるほど理解できる。


また、運命論的な視点にはなるものの「人の運命っていろんな伏線で織りなされていくもの」「誤解は人生を彩る」のあたりは、なるほど経験上納得できる。こういうことは、確かに10代くらいで『知識として』頭に入れておけば、そのあとの人生の味わい方が変わるのだろうな。


この生きにくい現代をどう生きていくか。「ある秩序の支配している社会では、その秩序の枠にはまらない力は排斥される運命にあった」ということを理解したうえで「自分の直観を大事にしなければなりません。でも、その直観に取りつかれてはなりません。そうなると、それはもう、激しい思い込み、妄想となって、その人自身を支配してしまうのです。直観は直観として、心のどこかにしまっておきなさい。そのうち、それが真実であるかどうか分かるときがくるでしょう。そして、そういう経験を幾度となくするうちに、本当の直観を受けたときの感じを体得するでしょう」というレベルに到達したい。


児童文学ではあるものの、大人が読んでも十分に楽しめる、深い一冊だ。一読をお薦めしたい。

【読了】西岡研介「トラジャ」

今年53冊目読了。ノンフィクションライターの筆者が、JR東日本・北海道・貨物を牛耳ってきたJR革マル30年の呪縛と、労組の終焉に至る道程を描き出す一冊。


図書館で借りて、そのぶ厚さに驚いた。本文で600ページというハードカバーは、なかなかのインパクトがある。そして、その記述の分厚さにも改めて驚愕。面妖、奇怪な革マル派の考え、行動がまざまざと浮き彫りになっているとともに、その恐ろしさを痛感させられる。


なぜ、JR東日本革マル派に屈したのか。「詰まるところ、鉄労の脱退を阻止したのは、国鉄分割・民営化という<行革の成果>に傷がつくことを恐れた時の政府だったわけだ。一方の松田氏は、松崎氏を頂点とするJR革マル排除に向けて志摩氏をけしかけた末、形勢不利と見るや、ハシゴを外したのである」は、なかなか深い読みだと感じる。


革マルの戦術については「積極攻撃型組織防衛論。組織内部の『敵』を見い出し、その『内部の敵』を徹底的にたたくことによって組織を強化し、外部の攻撃から組織を守る、という理論だ」とし、その限界は「JR東労組はこの30年余の間に、その独善的で傲慢な体質から、内部に潜在的な『敵』を大量に生み出してきたのだ。それが彼らには見えていなかっただけで、『敵』が顕在化したときには、その数のあまりの多さに、もはや為す術がなかった」と断じる。
また、革マルのリーダーであった松崎明については「かつての腹心や側近が力をつけてきたことに怯え、人心が彼らにたなびくことに嫉妬し、次々と部下たちを切るという松崎氏の姿は、過去の歴史に浮かんでは消えた、老いてなお権力の座にしがみつこうとする独裁者のそれと重なる」と斬って捨てる。


JR東日本の逆襲については「JR革マルにはアメ玉を食わせ、時間を十分にかけ、次第に牙がなくなるように対応し、ついには牙がなくなってしまう、というような遠大な計画が、JR東日本の対革マル戦術。ようやく実ったのが、2018年の労政転換だったわけだ。が、その間の20年でJR東日本という会社と社員が払った犠牲は、あまりに大き過ぎた」と総括する。


とはいえ、JR東日本は、まだ労政転換しているだけマシだ。他方、いまだにJR革マルにいいようにされており、事故が多発しても組織正常化が図れていないJR北海道は、さらに根深い。これについて、幹部OBの「効率化を進めたい会社と、『一企業一組合』を実現したい組合双方の思惑が一致した結果、労使癒着の構図が生まれた」「これらはすべて、JR北海道という経営基盤がぜい弱な会社が、生き残るためにやらざるを得なかったこと。部外者からすれば、行き過ぎた『労使癒着』、『歪な労政』に見えるかもしれないが、我が社は発足当初から、生き残りのための労使協調、あなたからすれば『癒着』の道を選ばざるを得なかった」のコメントは重い。
しかし、筆者が指摘しているとおり「JR北海道経営陣の”思い”が組合側に利用され、最大労組を偏重する歪な労使関係をつくり出し、それによって生じた社員同士の分断が、結果的に鉄道事業者にとっての至上命題である『安全』を脅かす要因の一つとなった」「組合に対する経営側の卑屈な態度は、一般の社員に愛社精神を失わせ、彼らから仕事に対する誇りを奪い、会社全体に無気力と厭世観を蔓延させた。それが、あのレール異常放置や検査データの改竄などの不祥事や、相次ぐ事故という形となって噴き出した」ということなのだろう。


大量脱退により、事実上内部崩壊したJR東労組についての一般組合員の言葉は生々しい。「いまどき自分たちの要求が通らないからといって『ストを打つ』などという時代錯誤ぶりにはうんざり」「僕が嫌だったのは、組合の思想ではなく、職場の組合役員連中でした。正直、ウザいというか。はっきり言って、仕事できない奴が多いんですよ。それでいて組合活動になると、目の色が変わるというか、俄然張り切っちゃって、ああしろ、こうしろと偉そうに自分たちに指図してくる。それが何より嫌でしたね」あたりは、リアルなところなのだろう。


筆者は、意外にも、労働組合を否定しているわけではない。革マルに取り込まれた異常な組合活動を批判しているだけであり、「労働組合は『官邸』『労基署』『SNS』に取って代わられた」としつつ「企業を経営する側も、『持続的な発展』という観点から考えると、経営が順風満帆でない時のことこそ、考えなければいけない。その時に、会社側に耳の痛いことを言ってくれる従業員がいてくれるというのは、ものすごく大切」という言葉を引用。JR東労組の崩壊が「今後の日本の企業内労組の在り方、さらには『労働組合』そのものの、存在意義をも問うている」とみている。


正直、知識ゼロでは絶対に読むべきではない(というか読んでも理解不能でしかない)本。だが、過激派、国鉄からJRに至る労働運動について若干なりとも知識があれば、これは非常に読みごたえがある。そして、企業で働くということ、そしてそれに従業員がどのように関わっていくのか。労働組合というシステムを見つめ直すきっかけになるかもしれない。

【読了】高崎卓馬「表現の技術」

今年52冊目読了。電通のエグゼクティブ・クリエイティブ・ディレクターである筆者が、「グッとくる映像にはルールがある」というからくりを解き明かす一冊。


プロということについて「あらゆるものに基本というのは存在する。基本のスキルをもたないプロフェッショナルなど存在するはずがない。そこから逃げて自分の感性だけを信じるものが果たして本当にプロだろうか。感性や個性はそれをどんなに無視しても絶対に表現に出てくる」としつつも「他人の用意した教科書的なものを勉強みたいになぞっても、自分にフィットした作り方は手に入らない。自分が使える文法を発見する。それを使ってより高い次元の答えをつくる。そうやって自分のスキルをのばすことは、プロとして当然やるべきこと」と相反するような記述はあるものの、逆にその両輪を回さないといけないんだろうな、ということは直感、理解できる。


人の感情の動きとして「人は笑う前に必ず驚いている」「起承転結を壊す作業は、時間軸を操作するということ。結論を見せることで、その原因を知りたいという欲求をつくる。その欲求が『面白い』という感覚をつくりだす」「すでにある価値観や出来事をそのまま使っても、それはそれ以下でもそれ以上でもない。ところがそこにズレを入れると、企画する人間の意図を面白く発生させることができる」「物語を進行させるのは、対立がもたらす『葛藤』。物語はシナリオではなく、登場人物の『葛藤』が絡み合って進むもの」と分析するあたりは、非常に鋭いなぁと感じる。


表現をするうえで気をつけねばならないこととして「『つくっている人間がはしゃいでいる』ことは、観客の興がさめる大きなポイント」「企画する人間の都合が見えるものは面白くない」「オムニバスは伝えるべきものが薄くなるだけだし、観客も公約数的な物語を見たいとは思わない」「企画をしているときの『達成感』は、脳の動きを鈍らせる」を挙げる。


表現をするうえで大事なことは「みんなで考えた表現ではなく、ひとりの思いが結晶化した表現のほうがはるかに強い」「自分が正しくミッションを発見しているかどうかは、『表現のイメージ』がそこにすぐついてくるかどうか、で判断することができる」と述べる。
具体的に表現を強くするには「左脳で考える癖をもつ。笑いを笑いながら作らない。泣けるものを泣きながらつくらない。冷静に相手の感情を想像しながら計算をしていく。そしてその表現が感覚的に『きてる』ものになっているかどうかは、右脳に判断させる」「疑う。それは表現をより強くするための大切な行為」「違和感はとても大切な感覚。それは、自分の考えたものを客観的に見つめるための入口」「選択肢はできるだけ難易度の高いほうを選ぶ。リスクの高いものを乗り越える。それができると表現は凡庸さから抜け出すことができる」とする。


2012年に出版された本だが、述べているポイントは十分に役に立つ。人の心に響く表現が求められる「広告」のからくりをよく理解できるし、それなりに汎用性もあるように感じる。筆者の作品自慢がやや鼻につくが、そこを読み飛ばせば教訓としては十分に使えると感じた。

【読了】砂原浩太朗「逆転の戦国史」

今年51冊目読了。フリーのライター、校正者である筆者が、織田信長明智光秀などについて俗説で言われていることを疑い、事実がどうであったかを追求する一冊。


「『天才』ではなかった信長、『叛臣』ではなかった光秀」というサブタイトルの通り、俗説のイメージを覆しにかかっている。…とはいえ、自分がとても楽しみに観ていたNHK大河ドラマ麒麟がくる」で出てきたような話ばかりであり、あまりびっくりはしなかった。


「信長がたびかさなる苦杯をなめながらもその都度しのぎ、勢力を伸ばしていったことのほうに驚嘆の思いをいだく。一見、天才性とは無縁と思える忍耐力や粘り強さを、彼は併せ持っていたのではないか。ひらめきと狂気だけで生き残っていけるような、たやすい時代ではなかった」としつつ、光秀については「人がいのちを投げ出すのは、きわめて個人的な動機によるのではないか」と、俗説に従っているのはどうなんだろうな、とは思うが…


しかし、歴史を見るうえでのポイントとして「フィクションからはなれて歴史的事件をあつかう場合、前提として同時代の史料にもとづくべき」「敗者はつねに愚かしく描かれがちであり、理不尽なまでにおとしめられる例が多い。歴史をひもとく際、このことはつねに念頭へ置きたい」「後代のわれわれはすでに結果を知っているが、渦中にある人々は、先の見えぬなか、つねにいのちがけの決断を強いられる。それでいてぶれないというのは、簡単なことではない」を挙げているのは、筆者の歴史愛を感じる。これは、歴史を好きな人間でないと理解できないフレーズだ。


大河ドラマ麒麟がくる」を見ていなければ、面白かったのだろうが、後なぞりのような感じを受け、本書はあまり楽しめなかった。


ともあれ、コロナ禍において「ひとは生まれる時を選べないという、あらがいがたい真理」という歴史に学ぶ真理は、非常に重い意味を持つ。それは本当にそうだよなぁと感じる。

【読了】木村泰司「印象派という革命」

今年50冊目読了。西洋美術史家の筆者が、日本人に人気の印象派の絵画の近代史における役割を、絵と画家を通じて読み解く一冊。


読めば読むほど、筆者が絵画を「大きな歴史のうねりの中の切片」として捉え、そしてそのうねりを分かりやすく伝えてくれる、ということがよくわかる。


印象派の役割として「彼らは第二帝政時代から第三共和政時代におけるフランス社会を象徴するような、最先端をいく美の革命家たちだったのである。印象派は、ただ単に『感性に訴える』とか『キレイ』ですむような芸術運動ではなかったのだ。そこには彼らに向かって怒涛のごとく押し寄せた世間の批判や嘲笑があり、経済的な困窮もあり、人間的な葛藤もあった」と熱く語られると、後知恵で歴史を見ることの愚かさを痛感する。
そして「2世紀後には保守の権化のような存在になる王立絵画・彫刻アカデミーも、創設当初は組織自体がフランス美術界に風穴をあけた革新性があった」のが「芸術かとしての社会的地位向上を望んだ結果、アカデミー会員に蓄積されていった強烈なエリート意識が、19世紀後半においても前衛的な印象派たちを苦しめることになった。アカデミー会員にしてみれば、フランス古典主義を固持すること、イコール知識人兼芸術家としての社会的ステータスを維持することだったからである」となるのは、まさに世の常というべきか。


印象派といえばエドゥアール・マネ。「マネの『絵画の二次元性』の強調と絵画の単純化は、技法では古典的だったクールベが『現代』と『現実』を描くことによってこじ開けた近代絵画の扉を、よりいっそう押し開ける結果となった。しかし当時は、そのような反逆的な扉を開けさせまいとする人々が多数を占めた時代だった」「マネは伝統的なモチーフを現代風に焼き直した」「マネは近代都市の風俗だけでなく、近代都市における人間の孤独であり堕落、そして人間さえも簡単に商品化してしまう近代社会の闇と人生の断片を描いたのだ」など、印象派の仕上がりを見るだけではなく、その過程を見ることの大事さを痛感させてくれる。
このほかにもモネ、ルノワールドガなどについてもその人生と絵画を交えながら非常に詳しく流れを紹介してくれる。


そして、本来は美術の本であるのだが、「19世紀後半にはフランスでジャポニスムが流行した。しかし、彼らは決して正確な日本や日本文化に興味があったわけではなく、『日本』というファンタジーの世界に憧れていただけである。それは、現代の日本人にも見受けられる都合のいい『異国趣味』だったのだ」という指摘もさることながら、『ああ、これって人生訓だなぁ』という記述があるのがこの筆者のすごいところ。
「好き勝手に自分の興味のあるところだけ学ぶのではなく、体系化された大学教育はあなどれない」「物真似上手であるということは、鋭い観察眼の持ち主ということ」のあたりは唸らされるし、「人はある運命に導かれるとき、目に見えない強い力が働いたような小さな偶然の重なりや、他人の発言や行動によって決定づけられることがある。もちろん当人の『目覚め』であり『覚悟』が伴わなければ、見えない力からの『召命』または『神のお召し』は何も意味をなさない」あたりは、自分が傾注しているU理論とも一脈通じるところがあり、美術を学ぶというのは奥深い世界だなぁと感嘆する。


前提知識なく読むとちと苦しいだろうが、少し流れをかじっていれば、とても面白く読める一冊だ。