世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】岡田英弘「中国文明の歴史」

今年57冊目読了。東京外国語大学名誉教授の著者が、中国はいかに拡大したか?について、歴史の経緯をたどりながら紐解く一冊。


畏敬する友人がお薦めしてくれたので読んでみたが、中国史観が一変するくらいに重厚な一冊。そのくせ、新書で読みやすい、という素晴らしさ。中国を「中国以前、第一期前期(秦による統一から黄巾の乱まで)、第一期後期(黄巾の乱から隋による統一まで)、第二期前期(隋による統一から契丹への割譲まで)、第二期後期(契丹への割譲から元による統一まで)、第三期前期(元による統一から清による統一まで)、第三期後期(清による統一から日清戦争まで)、中国以後」という分類をするなど、全く目から鱗だった。


まず、中国を単なる「漢字文化」と見ずに、歴代の経緯によって変容してきた、とみるところが本当に驚愕だ。「南北朝時代の、ことに華北の中国語は、お互いに出身を異にする北アジア系の種族が、共通のコミュニケーションの手段として採用した、大いになまりの強い漢語だった」「文字の世界で特有の論理にもとづいて開発された漢字の組み合わせ、すなわち熟字のきわめて高度な発達は、それを借用する側の話しことばの、ただでさえ未発達な語彙をさらに圧迫して、情緒の方面の語彙の発達を阻害することとなり、その結果、さらに熟字のストレートな借用を促進するという悪循環を招くこととなった」「『紅楼夢』のような小説でさえ、感情を表現する文字はほとんどみられず、具体的な事物と行動の描写に終始している」「清朝の入関とともに、北京の内城に入居した満・蒙・漢の八旗の旗人たちは、彼らの共通語である満州語山東方言のちゃんぽんの言語を話し続けた。山東法源を基礎とする漢語の要素が、いわゆる北京方言となり、これが現在の普通話の基礎となった」なんて、本当に知らない話だらけ。ものを知らないということは怖ろしいことだ…


また、中国とは何か、についても、成り立ちから紐解いてくれる。「南船と北馬が出会うのが、洛陽盆地を中心とする黄河中流の岸辺」「漢族の遠祖を中華と言うのは、洛陽盆地の生誕、洛河の発源する山が華山であるところからくる」「中国以前の中国には、東夷、西戎、南蛮、北狄の諸国、諸王朝が洛陽盆地をめぐって興亡を繰り返してきた」「中国文明は商業文明であり、都市文明である。北緯三十五度線上の黄河中流域の首都から四方にひろがった商業網の市場圏に組み込まれた範囲が、すなわち中国なのである」「(契丹帝国を認めないところから)どんなに軍事力が強大でも、どんなに広大な地域を支配しても、夷狄は文化を持たない人間以下の存在で、中華だけがほんとうの人間だという負け惜しみの中華思想が出てきた。これは現在でも中国に存在して、中国が世界の現状を直視するさまたげになっている」など、中国共産党から逆算したら未来永劫見えてこない実相を浮かび上がらせてくれる。


中国の変化のタイミングへの洞察も、凄い。「紙の使用の普及と儒教の国教化、テキストの公式化は、これまで文字によるコミュニケーションしに無縁であった階層にも、文字を浸透させてゆく。その一つの結果が、再びおこった人口の都市集中によって出現した都市の貧困の厚い層の内部における、秘密結社の発生と発達である」「中国の分裂は、黄巾の乱から四百年以上も回復できなかった。その原因は、人口の過少によって、農業生産の復興がままならず、食糧の余剰がなくて、統一のための戦争の余力に乏しかったことであろう」「中国史の第二期に一貫してみられる傾向は、契丹、女直、モンゴルという東北アジア北アジアの勢力の優勢にともなって、北京の重要性が高まっていった」「中国史第三期の特徴は、中国の人口の増加、華南の開発、もっと重要なことは、中国と東アジアの他の部分との政治・経済的統合の進行と完成」「1571年、スペイン人がマニラを建設してから、メキシコ産の銀が中国に大量に流れこみはじめたので、中国は空前の消費ブームが巻き起こった。この明朝経済の高度成長が、大きな国際関係の変化の原因になる」「ネルチンスク条約まで、中国人には王化、すなわち皇帝の権威がおよぶ範囲が中国だという観念はあっても、中国が四方を国境線に囲まれる一定のひろがりをもつ地域だという観念はなかった」「1895年以降の時代においては、伝統のシステムを放棄して、そのかわりに欧米のシステムを採用した。しかもその欧米システムは、日本においてすでに漢字文化になじむように消化されたシステムであった。中国人のアイデンティティは、日本型の文明によって形成されたもの」など、そんな捉え方があったのか!と、読んでいて散々自身の無知を恥じるばかり、という衝撃の連続だった。


現在の政治紛争の種も、触れられている。「17世紀以降の台湾の治安の悪さは、中国人入植者どうしの仲が悪く、土地を奪い合ってはげしい戦争を繰り返したためである。清朝は台湾をもてあまし、開発など考えもしないまま、二百年がたった」「1885年までは、満洲族モンゴル族と連合して、漢族を統治し、チベット族イスラム教徒を保護する建前だったが、それからの満洲族は、連合の相手を漢族に切り替えて、満漢一家の国民国家への道に一歩踏み出すことになる。それまで他種族の連合帝国だった清朝は、これで決定的に変質したわけで、モンゴル国チベット族は、満洲族に裏切られたと感じた」


概説ながら、端的にわかりやすく、しかも深くまとまっていて、本当に驚くばかり。

【読了】角田陽一郎「運の技術」

今年56冊目読了。TBSの名ディレクター、プロデューサーとして名を馳せた筆者が、AI時代を生きる僕たちに必要なたった一つの武器を紹介する一冊。


煽り文句や、概ねの訳知り目線の話はともかくとして、「農業革命は田んぼ的、産業革命はエクセル的、情報革命は渦巻き的」という洞察は非常に秀逸だと思うし、さすがテレビという流行を追いかけて時流を掴み続けた人物の見解だなぁと思う。筆者の結論は「良い人生とは、悪い経験もすること。その人生観を持つこと自体が、開運の第一歩」としているが、上記「革命」ごとの事象の捉え方がすべてのように感じる。「自分自身に実体はなく、自分の周囲にいろいろな人が集まって、自分自身にいろいろな作用を施し、自分からいろいろなものを生み出す」「十分な数の人からの十分な信用があれば、ただで自分の時間が手に入れられる」「ある形態に固執するのではなく、状況に応じていかようにも対応できる」などは、まさに情報革命によって現れた時代の生き方を示すといえる。


もちろん、タイトルの煽りに従ったことも記載している。運を上げる・開運をもたらすためには「自分の名前で勝負する。それは、あらゆる物事を自分ごと化する」「自分がこれからやろうとしていることには、キャンペーンとして名前を付ける」「常にベストパフォーマンスを心掛ける」「わずかな縁、ほんのすこし糸口が露出しているチャンスを自分ごととして見逃さずたぐり寄せた先には運が待っている」「感度を働かせ、物事をシャットアウトしない、オープンなマインドで手当たり次第に経験したり、人と会ったり、おもしろがったりしていれば、そこで蓄積された経験や培われたさまざまな感受性の何かと何かが、ある瞬間に時間を超えて突然つながる確率はものすごく高まる」は、心理学的にも非常に納得がいく。


また、避けるべきこととして「流行に乗らないと、運が開けない」「好きがなければ、苦しくなると続けられない」も、確かにそうだなと思う。


人間観察においても、きらりと光るフレーズがいくつか登場する。「若さだけを武器にしてくると、若さがなくなった瞬間、他のよい所がないので、職場からニーズがなくなり、疎まれる」「性格の悪い人って、やる気がない人」「責任を負いたくない人は寛容さを装って『なんでもいい』を連発するが、その実は単なる『面倒くさい病』」「『頭がいい』というのは偏差値や知識の量ではなく、本質的には『洞察力』や『想像力』」のあたりは、今後、人間関係に活用していきたい。

 


「現状に対して『うん』と頷けば頷くほど『運』は舞い込むものであって、『ふーん』と懐疑的で不本意な気持ちを抱えれば『不運』になる」のように、言い廻しにこだわって鼻持ちならないところがあり、ストレートに読みやすいかというと(こういった自己啓発本初心者はともかく)違和感を持ちやすい本。しかし、本当に「革命」ごとの捉え方だけは読みごたえがある。その点はお薦めの一冊。ただ、ちょっと「開運」に寄りすぎて、疲れるのは間違いない。

【読了】海老原嗣生「クランボルツに学ぶ夢のあきらめ方」

今年55冊目読了。人材コンサルティング会社ニッチモ代表取締役の筆者が、「夢はあきらめると、けっこうかなう」というキャリア論の古典であるクランボルツ理論をわかりやすく解説した一冊。


これは、超のつくお勧め本だ。骨太な中身が、実に分かりやすくまとめられている。本をあまり読まない人にも、すんなり読めるように工夫されていて、スルスルと頭に入ってくる。


まず、「夢とか趣味とか目標とかって、どんどん変わっていく」という当たり前ながら見落としがちな指摘から入る。
そのうえで、計画的偶発性理論の骨子を「キャリアの8割は予想しない偶発的なことによって決定される。その偶発的な出会いを豊富にすれば、キャリアも人生も豊かになる。」「豊かな人生を手に入れるための5つの習慣は、①好奇心②持続性③柔軟性④楽観性⑤冒険心。これにより、新しい自分が見つかり、自分が磨かれる。まずはこだわりを捨て新たな機会を増やす。夢はいつだって見つかるから」と読み解く。


そして、「そこそこの成功を収める可能性は2〜3割ある。そのための掛け金はたった一つ、一生懸命頑張ること」「夢はしっかりこだわって、その結果、消化して、次の夢に行く」「夢はかなえるものでも、見つけるものでもなく、見つかるものなのだ」と提言。今を一生懸命頑張る、ということは、傾注しているU理論にも一脈通じるものがある。


成長に関して非常に興味ある身としては、「一番成長するのは、できるかできないかギリギリの目標のとき。それには生かし場が含まれていること、逃げ場がないことが大事」「他人から与えられた機会には、生かし場が含まれている」「悩むことは気付くことだ。気付いたら改めろ。それが成功につながる」のあたりは非常に考えさせられる。


戒めとして「謙虚であれ、初心を忘れるな」「少し成功すると、多くは天狗になり、周囲の言うことを聞かず、新たなチャンスを紡げなくなる。それは、柔軟性と好奇心の低下」「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行しろ」のあたりは、心に留め置きたい。


日本ならではの指摘にして、人事・雇用のカリスマである筆者の「仕事がつらくても辞めるな。会社がつらいなら辞めろ」は、リーダーとして、自分も相談を受けた時に使ってみたい言葉だ。


リーダーは資質ではなく経験学習によるもので、その大きな要素を占めるのが失敗や挫折、というのも、勇気を与えてくれる。


図解や有名人を使った比喩、歯切れの良い言葉が心地良く、マンガでも読んでいるのか?というくらいサクサク読め、理解できる。新書で、これだけの中身をこんなに平易に?と驚くばかり。全ての人が一読すべきだし、雑誌が読めれば余裕で読める。これは本当に素晴らしい本だ。こういう出会いがあるから、読書はやめられない。

【読了】阿部謹也「世間とは何か」

今年54冊目読了。一橋大学学長の筆者が、日本人の生き方を支配してきた世間という枠組みを、西洋の社会・個人という対比から見つめ直した一冊。


昨今、SNSによる批判の犯罪性などが取りざたされている中で、その枠組みを考えるのは異議があろう、と手に取ってみた。1995年の書籍ながら、過去の文学作品などを丁寧に紐解き、執拗なまでに細かく分析をしていくのは、さすが学究者というべき。他方、あまりのねちっこさに、読んでいて疲れる、というのもまた事実。


「世間を社会と考えている限り理解できない。世間は社会ではなく、自分が加わっている比較的小さな人間関係の環なのである」「世間の掟を守っている限り、能力の如何を問わず何らかの市は世間の中で保てる」「日本の個人は、世間向きの顔や発言と自分の内面の想いを区別してふるまい、そのような関係の中で個人の外面と内面の双方が形成されているのである」などの分析は非常に納得ができるし、それに影響されている自分もよく理解できる。


また、そもそもパソコン自体が普及していない時代の書籍ながら「陰湿な世間による捌きの背景には、神判を成り立たせている日本の『世の中』や『世』があった」の指摘は、まさにSNSの炎上やコロナ禍の自粛警察などにも一脈通じるところがある。


ただ、正直、この本をいまいち評価できないのは、結論として「日本人は一般的にいって、個人として自己の中に自分の行動について絶対的な基準や尺度をもっているわけではなく、ほかの人間との関係の中に基準をおいている」「日本人の寂しさの根源の一つに日本人が古来結んできた世間という絆がある」とするだけで、じゃあどうしたら?ということがすっぽり抜け落ちているところだろう。問題提起ということも大事だが、さすがに何の処方箋もなし、というのはいかがなものかと思う。


頭の整理には役立つが、未来の指針にはならない。そんなモヤモヤした読了感。

【読了】田坂広志「人生で起きること、すべて良きこと」

今年53冊目読了。多摩大学大学院教授にして、内閣官房参与も務めた筆者が、逆境を越えるこころの技法について説く一冊。


5年前に読んだ良書で、読書会のテーマが「切り換える」だったことから、このコロナ禍の状況で気持ちを切り換えるのに最適な一冊、と思ってお薦めし、再読してみた。やはり、良書は期間を置いても良書だ。そして、感じることがやはり変わってきている。


「人生において『逆境』に直面したとき『人生で起こること、すべて良きこと』と思い定めると、必ず、道は拓ける」は、コロナ禍の今だからこそ、心に迫る一言だ。「この出来事には、何か意味がある、というその感覚こそが、逆境を越えるこころの技法を身に着けていくための、大切な出発点」と思い定めることで、そもそもの問題に取り組む自身のあり方を変容させることができると感じる。


そして、人間は物語として捉える生き物である以上「何が起こったか それが、我々の人生を分けるのではない 起こったことを、どう『解釈』するか それが、我々の人生を分ける」というのも、自分の人生、事実に対する適切な意味づけができるかどうか、という「心のあり方」が問われているように感じる。まさに、著者が述べているとおり「『この逆境が与えられたのは 大いなる何かが、自分を育てようとしているからだ』その感覚を心に抱き、その最も肯定的な『逆境観』や『解釈力』を掴んだとき、我々の中から、想像を超えた『強さ』と『生命力』が現れる」のだろう。まさに、V・E・フランクル博士が仰るとおり「自分が人生に何を望むかではない。人生が自分に何を望むかだ」ということだろう。


なかなか概念的で掴みづらいかもしれないが「エゴは捨てられない。エゴは、大きなエゴへと育てていかなければならない」というのも、正鵠を射ている。小我と大我、あるいはU理論で言うところの「小さな自己(self)」と「大きな自己(SELF)」ということだ。「厄介なエゴの動きに処するこころの技法は、ただ一つ。静かに見つめる。それだけ」ということで乗り越えるというが、これがなかなか自己鍛錬が必要で…「人間、自分が本当に強くないと、感謝ができない」のだ。


「我々は、幸福な出会いだけによって人間として成長しているわけではない。不幸な出会いと思える出会いを通じても、人間と人生について深く学び、成長している」。そこに立ち、おのれの成長を通じて自らの人生を生き切りたい。そう思わせてくれる。


5年前に読んだ時よりも、だいぶ体感として掴みつつある感覚はある。だが、まだまだだ。良書は時を置いて繰り返し読むと、さらに理解が深まる。それを教えてくれる。

【読了】平野啓一郎「マチネの終わりに」

今年52冊目読了。人気ベストセラー作家が、ある音楽家とジャーナリストの数奇な運命の絡み合いを通して人生を描き出した一冊。


基本的に小説は読まないのだが、これは大学時代の朋友が薦めてくれたので、図書館で数か月待ってようやく読んでみた。実際に読んでみると、これが実に面白い。久々に「本の続きが読みたくて仕方なく、夜更かしをしてしまう」という事態に陥った。それだけ、一気に読ませる力のある本だ。


息もつかせぬストーリー展開、音楽が耳に届くような筆致、巧みな情景表現。そのあたりは、実際に読んでいただくとして、その中で出てくるフレーズが色々と心に響く。


筆者の時制に対する捉え方は非常に好きだ。「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか?」というのは、意味づけをする生き物である人間の本質に迫るものである。また、「自由意志というのは、未来に対してはなくてはならない希望だ。自分くらいは、何かが出来るはずだと、人間は信じる必要がある。しかし、だからこそ、過去に対しては悔恨となる。何か出来たはずではなかったか、と。運命論の方が、慰めになることもある。」も、人間の可能性とそれ故の苦悩を浮き彫りにしている。


現代に対する抉り込みも、深い。「人間の疲労。これは、歴史的な、決定的な変化なんじゃないか?人類は今後、未来永劫、疲れた存在であり続ける。誰もが、機会だの、コンピューターだののテンポに巻き込まれて、五感を喧騒に直接揉みしだかれながら、毎日をフーフー言って生きている。痛ましいほど必死に。そうしてほとんど、死によってしか齎されない完全な静寂。」というのは、確かにそのとおりだと感じる。


そして、人間の暗い側面への深い洞察がまた、心にしみる。「孤独というのは、つまりは、この世界への影響力の欠如の意識だった。自分の存在が、他者に対して、まったく影響を持ち得ないということ。持ち得なかったと知ること。」「他と比べて、自分はまだマシだったとか、そういう相対的な見方は、所詮は加害者同士の醜い目配せ。被害者っていうのは、決して相対化されない、絶対的な存在」のあたりは、孤独と絶望、そしてそれへの向き合い方に大きな示唆を与えてくれる。


コロナ禍の現代においては「人に決断を促すのは、明るい未来への積極的な夢であるより、遥かにむしろ、何もしないで現状に留まり続けることの不安だった」の言葉を大事に、前に進もうと思う。これは、本当にお薦めの一冊だ。

【読みたい本リストのコロナ太り。】

 コロナ禍で、様々なものが今までとは違う流れになってしまっている。読書も、その流れになっている一つ。


 …で、コロナ禍によって、Evernoteメモに記している「読みたい本リスト」が119冊(!)と、過去最高を更新してしまった。


<インプット>
・ブックカバーチャレンジ
 →自分のブックカバーチャレンジは、リストを増やさない。しかし、他者のブックカバーチャレンジを見ているだけで、また、知人友人が紹介している文章を読んでいるだけで「あ、これ、読んでみたい!!」と思わずリストに放り込んでしまう。
・オンライン読書会
 →オンラインで参加させてもらった読書会。自分がお気に入りの本を紹介するのも楽しいが、参加者の方が紹介した本もまた気になる。かつ、読書会だから「なんでお薦めなのか」も、その人が熱を込めて紹介してくれる。…となると、必然的に、読みたい本リストに追加されるわけで。


<アウトプット>
・ブックカバーチャレンジの影響で、再読を行った。
 →確かに、過去の本を再読することは非常に意義深い。他方、何冊読んでも「読みたい本リスト」にはまるで影響を与えない(=全くリストが減らない)。
・図書館休館。
 →これは非常に痛かった。新刊はともかくとして、過去の良書は「まず、図書館で借りてみる(よほど良い本は購入する)」という手法を取っているので、図書館が休館してしまうと、読みたい本リストの消化が全く止まってしまうといってもよい。


 「インプット大量、アウトプット停滞」となってしまったため、そりゃ当然リストは溜まる一方なわけで。いやはや…もともと「リスト積ん読」になっていたのだが、緊急事態宣言で読みたい本リストを消化するどころか、完全に「コロナ太り」してしまった…この読みたい本リスト、解消へのロードマップは全く描けていない…うーむ…


 この解消には、図書館再開というプラス要素はあるものの、かなり意図的に「読書リズム」を整え、自分の身体時計に改めて刻み込む必要がある。とにかく、暇さえあれば本を読む。その意識で構えないと、コロナ太りが解消しないだろうな…三島由紀夫の言を借りるまでもなく、「精神を凌駕することのできるのは習慣という怪物だけ」なのだから。