世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読書会の意義】

 今日は、「人材開発」という切り口で実施された人事系のオンライン読書会に参加した。読書という行為は、「自分と著者との対話」である、と何かの本に書いてあったが、読書会に参加することは、またそれとは違った深まりを見せてくれる。


●同じ本に対して、全く異なった読み方が見えてくる。
 人事、人材開発系の本はちょこちょこ読んでいるので、「あ、それは読んだことがある」という本が紹介されることもある。
 しかし、その紹介の中身、受け取ったメッセージなどは、「へぇ、この本をそう読むのか…」という全く違った視点を入れることができる。
 それ自体であれば、Amazonの書評でも受け取れる刺激ではあるのだが、やはり「自分は、こういう体験から、この本のここに共感した」というリアル・ライブ感あふれる観点は、とうてい得られないものである。読書というと孤独なもの、というイメージがあるが、現代の読書は「多数で関わりながらワイワイと視野を広げる」というほうがスタンダードなのかもしれない。


●読みたい本が、リアリティを持って増える。
 当然のことながら、自分が知らない本の紹介もされる。だが、例えば今回であれば自分の興味の範疇である「人材開発」というテーマに絞られているので、「あぁ、その本はタイトルだけ知っていたけど、未読だったな」であったり「え?それは全然知らない!でもそんなにお薦めなの!?」という驚きであったり、がよりリアルに感じられる。
 残念ながら、オンライン読書会なので、本を選ぶ楽しさの一つである「実際に手に取って、目次や概要をパラパラとめくる」ということはできない。しかし、それでも、「同じことに興味を持っている人が生き生きと薦めている本」となると、やはり「読みたい」アンテナが立つ。


 最大の難点は「読みたい本リスト」が圧倒的なスピードで膨らんでしまうことだ(爆)。精神的積ん読がどんどん増えてしまう…ま、嬉しいことでもあるのだが。


 そして。コロナ禍で、色々な試みがなされていくなかで、確実に新しい動き・うねりが発生している。やはり、何事も「やってみる」「やってみたことを振り返る」「振り返りを言語化する」というサイクルは大事だと感じた。今後も、ちょくちょく参加してみたい。

【読了】中島敦「李陵・弟子・名人伝・山月記」

今年51冊目読了。33歳にして夭折した戦前・戦中の天才作家が命を削りながら残した短編名作集。


元来、小説はあまり読まない。しかし、この本は別だ。「名人伝」は、高校時代に教科書で読み、「訳わからんなぁ」と思いつつも妙に惹かれた記憶がある。それから、何度か読んでいる。


しかし、40を過ぎて読んでみると、やはり山月記のほうに強く惹かれる。もちろん、名人伝の辿り着く凄まじいまでの悟りの境地も、非常に魅力的であり、年を重ねるごとにその迫力、色鮮やかさに驚かされる。が、やはり、人生の経験を重ねていくと、山月記の主人公・李徴の迷い、嘆き、後悔先に立たず、という思いは深く胸を打つ。


「進んで師についたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、また、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。ともに、わが臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である」「事実は、才能の不足を暴露するかもしれないとの卑怯な危惧と、刻苦を厭う怠惰とがおのれのすべてだったのだ」というあたりは、読んでいたはずなのに、全く読み飛ばしていた…そして、今だからこそ、それが切々と感じられる。それでは遅いのだが…


いや、まだ虎にはなっていない。だからこそ、恥も自尊心も捨てて、自らを伸ばすことに集中する必要があろう。


もちろん、李陵、弟子も非常に読みごたえがあるし、その表現の巧みさ、情景と人心の描き出し方の見事さには何度読んでも感嘆の息を漏らすしかない。典雅な古代中国を、見事な日本語で表した中島敦という才能を、今なお楽しめる、そして切実に感じることができることは、本当に素晴らしいことだ。


そして。次読み返してみた時に、どう読めるのか。この本は、何度となく読み返して、自分の心と魂のありようを照らしてくれる名著だ。短編なのに、本当に恐ろしいエネルギーがある…

【読了】日髙敏隆「世界を、こんなふうに見てごらん」

今年50冊目読了。京都大学教授(動物行動学)から、総合地球環境学研究所初代所長に就任した著者が、自然の魅力と見方を平易に伝えるエッセイ。


人間の特性として「解明して得にならないことがわかっていても、つい探ってしまう、探らなくてはいけないという気持ち。いいかえれば、それが人間の最も生得的なところではないだろうか」「人間は自然を破壊するものだ。そうはっきり認識しておくほうが、よっぽど自然を守ることにつながる」と、鋭くえぐり込む。確かに、そのとおりだよな。


具体的に、どのように世の中に向き合うかについてのヒントは「目の前のなぜを、具体的に、議論するのではなく、なぜだろうと考える。ある意味では、目の前の対象は具体性があるから強い」「人間は論理が通れば正しいと考えるほどバカであるという、そのことを知っていることが大事だと思う。そこをカバーするには、自分の中に複数の視点を持つこと、ひとつのことを違った目で見られることではないかと思う」のあたり。相対化、現実・現場主義というあたりは、非常に体感とマッチする。


今後、人間はどのような価値観と哲学をもって生きていくべきか、については「真理があると思っているよりは、みなイリュージョンなのだと思い、そのつもりで世界を眺めてごらんなさい。世界とは、案外、どうにでもなるものだ。人間には論理を組み立てる能力がかなりあるから、筋が通ると、これは真理だと、思えば思えてしまう。人間といういきものは、そういうあやしげなものだと考え、それですませてしまうこと。」「神であれ、科学であれ、ひとつのことにしがみついて精神の基盤とすることは、これまでの人類が抱いてきた弱さ、幼さであり、これからはそういう人間精神の基盤をも相対化しないといけないのではないか」と述べる。自分の説の正しさにとらわれず、保留しながら他の視点を取り入れ続ける、というあたりは、千葉雅也「勉強の哲学」と一脈通じるところがある。


研究、検証についてもバッサリと行く。「科学というのは論理を展開していき、データを見てそこからものを推論するように思っている。けれども、実際にはどうもそうではない。データをとること自体、まず思い付きから始まっているんですよ」というのは、すべての着想について言えることなのではなかろうか。


人生の構えとして「人の知の限界を自覚したうえで、新たな事実が現れた時に自分の認識や考え方を修正していくために余地を残しておく」ということを、しっかりと保持していく。その割り切れない気持ち悪さを持てる幅こそが、人間の幅、ともいえよう。本当にさらりと読めるながら非常に奥が深く、超おすすめの一冊だ。

記録と他者視点が大事。

 ブックカバーチャレンジをきっかけに、本棚に置きっ放しの「スポーツ関係」本を読んでみて、気づいたこと。


●記憶は美化される。
 マリーンズファンなので、2010年、パリーグ3位からの大逆襲で下克上による日本一を成し遂げた監督・西村徳文「和の力」は、当時即買いして、興奮して読んだ。
 しかし、10年の月日を経て読んでみると、結果の出た事について後付けで美談ストーリーを織り込んでいるようにしか思えない。特に、発刊の翌年に最下位に沈み、そのまま立て直さずに監督を解任になった事実を知っているので、尚のこと、そう感じる。


●自己目線では、像が歪む。
 あわせて、2005年にマリーンズを31年ぶりの日本一に導いたボビー・バレンタイン監督について書いた高木徹「バレンタイン流マネジメントの逆襲」を読んだ。こちらは、当時の熱狂と、それを自慢するバレンタイン監督をドキュメンタリー形式で描いたもの。
 これも、年月を経ているので、いかがなものかという部分も多いが、第三者NHK 取材班)の目を通しているので、勢いだけでなく、冷静に「ワンマン体制」では限界があるのでは?と指摘しているあたり、感心する。結果、これから4年後、銭ゲバと堕したバレンタイン監督が球団、ファンを巻き込んでチームをぶち壊したことからしても、よくこの時点でここまで書けた、と思う。
他方、西村監督の本は「ロッテ一筋で…」とか書いてあって、「お前、今、オリックスの監督じゃん!」と突っ込まずにはいられない。


 ま、批判ばかりしても仕方ない。振り返って、この人間が陥りやすい罠を回避するには、どうしたら良いか。


●記録を残す
●第三者的に振り返る
ということしかなさそうだ。


 自分の過去すら、後付けで美化してしまう特性がある以上、テキストか動画でその場のリアルを残さないと、後の振り返りがおかしくなってしまう。かつ、振り返る時には、当時の自分と距離を取らないといけないので、動画ではつい感情移入して罠にハマる。


 …となると。やはり、日記という伝統的テキストが優れている、ということになるのだろう。
 

【再読のすすめ】自身の変化を感じ取る

ブックカバーチャレンジや、オンライン読書会をきっかけにして、何冊かの本を再読する機会を得た。まぁ、新型コロナウィルス(COVID-19)の影響で図書館での本の借受ができなくなった、というのも大きい要素ではあるが、ともあれ、本の再読の意義を改めて痛感した。


そもそも、自分で買った(=買う価値があると判断した)本を読む際には、基本的にボールペンでガンガン書き込みを行う。これは、斉藤孝の「3色ボールペン読書術」を使わせてもらっているもの。重要な点は赤線、気になるところは青線を引く、というのはある程度一般的なのだが、工夫としては「自分の感想を、緑で書き込んでしまう」というもの。最初は強い抵抗があったのだが、「本は、テキストが印刷されているノート」という衝撃の一文を読んで「なるほど!」と感じ、遠慮なく書き込みができるようになった。


そして、これに加えて、自主的にひとひねりしているのが、「緑色で書き込む際に、自分が読んだ年月日を書き込む」というもの。もちろん、読みながらなので、例えば20年5月25日であれば「200525」と感想の横に追記するのみ。これが、何で良いのか。それは、再読した時にわかる。


再読したときに、線が引いてあるだけでは「ああ、自分はここを大事に感じたんだな」としかわからない。しかし、緑でコメントが書かれていると、自分の思考が見えてくる。
大事なのは、ここに日付が乗っかっていることである。その頃の自分の問題意識、思考レベルがまざまざと見えてくるのだ。そのときの感覚と比較しながら読むことで「あぁ、自分は成長していない」「この点においては、思考が深まっている」など、理解できるのだ。そして、そういった感想も、もちろん余白に記入していく。


単純な再読よりも「自分の思考のフックがどのへんにあり、どう吸収しようとしたのか」が明確になる点が優れている。人間の記憶はあいまいであり、かつ、思い出そうとするときに「現在の視野からの補正」をかけてしまう。この読書法であれば、テキストとして固定された「緑色の文字」があるため、そういった補正の罠を回避することができる。


ま、ここまでマニアックな読み方をせずしても、やはり、良書の再読というのは価値がある。皆様も、本棚で長めに眠っている本があれば、ぜひ、引っ張り出して再読してみてほしい。

【読了】千葉雅也「勉強の哲学」

今年49冊目読了。立命館大学大学院先端総合学術研究科准教授の著者が、「勉強とは、これまでの自分を失って、変身することである」という勉強論を述べる一冊。


2年前に図書館で借りて、その内容に衝撃を受けて即購入した本。先日、オンライン読書会で紹介する本を探していたときにピンときてお薦めし、「じゃ、再読してみよう」と読んでみた。前回の衝撃同様、相変わらずの読みごたえ。勉強、読書について改めて考えさせてくれる。


「勉強とは、これまでのやり方でバカなことができる自分を喪失する」という奇抜な定義から入るが、ここからグイグイ引き込まれる。「私たちは、同調圧力によって、できることのはんいを狭められていた。不自由だった。この限界を破って、人生の新しい可能性を開くために、深く勉強する」という主張には激しく同意する。


比喩も含めて、筆者は非常に言語能力が高いが、その筆者が「言語を通して、私たちは、他者に乗っ取られている」と述べたうえで「深く勉強するとは、言語偏重の人になるということ」とする。人類は、言語という最強のツールを用いて自己を高める(深める)、という点からしても、この主張には非常に共感できる。


勉強するための姿勢についても、「自分の状況は、大きな構造的問題のなかにあり、自分一人の問題ではない、というメタ認識をもつことが、勉強を深めるのに必須である」「自分なりに考えて比較するというのは、信頼できる情報の比較を、ある程度のところで、享楽的に中断することである」「比較を続ける中で、仮にベターな結論をだす。ある結論を仮固定しても、比較を続けよ。つまり具体的には、日々、調べ物を続けなければならない」「勉強するにあたって信頼すべき他者は、勉強を続けている他者である」など、とても参考になる。


実際の具体的取り組みについても「普段から、書くことを思考のプロセスに組み込む。アイデアを出すために書く。アイデアができてから書くのではない」「情報過剰の現代においては、有限化が切実な課題。日々、一応はここまでやった、を積み重ねる」と、非常に現実的。


以前に読んだ時と比べて、非常にリアリティをもって読めたように感じる。そして、自分が留意する点もやはり変化してきている。この本そのものの面白さも、再読の意義も味わえた。ぜひ、ご一読をお勧めしたい。

[読了】中土井僚「U理論入門」

今年48冊目読了。オーセンティックワークス代表理事にして、オットー・シャーマー博士「U理論」を翻訳した著者が、難解極まりない「U理論」をわかりやすく読み解くことを目指した入門書。


…と言いつつ、600ページを超える書籍の入門書が429ページあるという冗談みたいな話(笑)。でも、中身は「U理論」よりもはるかに噛み砕かれている。


「第三者として見ていると、双方の態度や言動が、相手のネガティブな反応のトリガーとなっていることは、手に取るようにわかります。しかし当事者どうしは、第三者が見ているようには自分の態度や言動を捉えることができないので、それが相手のネガティブな反応を引き出していることに、なかなか気づくことはできません。」という記述を俟つまでもなく、人は自分が問題の片棒を担いでいるという感覚を持つことが本当に難しい。そして、自らが問題の一部であると、その解決は飛躍的に困難になる。


では、どうすればよいのか。「本番に強いと言われる人たちは、枠組みに囚われるのではなく、それよりも目の前の現実に集中しているからこそ、良いパフォーマンスを生み出せている」「自分の行動を生み出している源にアクセスし、それを転換させることで、目に見える行動は変わらなくても、行動の質そのものが変わり、結果が変わってくる可能性がある」というあたりは、言葉で読むとスピ系のように取られてしまいがちだが、これは本当に「体感していく」ことで身に着けていく、というものである。実際、この本を初読した時には、自分としては「なんじゃこりゃ」という感じであった。


コロナ禍の中で再読すると、「執着したものを手放す、何かに対して自己同一視化した状態を手放す」「先が見えない虚空に一歩踏み出すからこそ、出現する未来がある」のあたりの記述に否応なく直面させられる。過去にしがみつくのか、未来に羽ばたけるのか。それを決めるのは、自分自身。


そんな状況だからこそ「われわれという器を通して現れたがっているものに道を譲ることこそが、創造性と関連している」「ひらめき、ワクワク、試行錯誤は互いに切っても切り離せない関係にある」「ひらめきや直感に対して、後付けで理屈をつける」のあたりを大事にして、この苦境をチャンス(機会)と捉えて前を向きたいものだ。


数値目標で物事を図ることが極めて難しい社会に踏み出した今、「心理学における成長とは、自分の中に他人の目玉が増えることだ」ということを強く留意して生きていきたい。


きっかけはブックカバーチャレンジであったが、一定の周期で読み返すことが大事に感じられる良書。最後のあたりで「ソーシャルメディアとコレクティブリーダーシップ」について、東日本大震災後の節電への働きかけについて希望を持って記述されているが、これがコロナ禍の今、どう動くのか。この9年、日本人は前に進んだのか、後ろにさがったのか。重い問いを突き付けられた気分だが、信じて前に進む勇気を持とう。