世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

竹内洋「教養主義の没落」

今年106冊目読了。京都大学大学院教育学研究科教授の筆者が、変わりゆくエリート学生文化を読み解いた一冊。

これは、意外ながら面白い切り口。「近代日本の教養主義は、西欧文化の取得であり、日本人にとって西欧文化は伝統的身分文化ではないから、改装や地域文化と切断した学校的教養そのものだった」と、明治の教養主義の切り出しを見抜いたうえで「教養主義の輝きは、農村と都会の、そして西欧と日本の文化格差をもとにしていた」と定義。「程度の低い独創に走るのは卑しいことであり、古人や今人のすぐれた思想や生活に接することのほうがよほど大切であるとされている。そうではあろうが、そうした教養主義的志向こそが裏口から象徴的暴力装置を招き入れる」と、日本で勢いを得たマルクシズムと全体主義の傾向を産んだ教養主義の危険性にも触れる。

しかし、著者がこの本を書くきっかけとなった学生からの問い「昔の学生はなぜそんなに難しい本を読まなければならないと思ったのか?それに、読書で人格形成するという考え方がわかりづらい」のとおり、教養主義が読書、それによる教養をはぐくんだことは間違いない。この教養主義の大きな転換点となったのは学生紛争であり、その後の大学生は「学歴エリート文化である特権的教養主義は知識人と大学教授の自己維持や自己拡張にのせられるだけのこと、大衆的サラリーマンが未来であるわれわれが収益を見込んで投資する文化資本ではない」と教養主義に別れを告げ、大学がレジャーランド化した、と述べる。

そして「現代の大学生は人間形成の手段として従来の人文的教養ではなく、友人との交際を選ぶ傾向が強く、同時にかつての文学書と思想書をつうじての人文的教養概念が解体している」のが実態ではあるものの、教養の機能は適応ひとつではなく、適応・超越・自省であるとし、適応だけに着目した学生紛争後の考え方は片面的と指摘。適応は「人間の環境への適合を助け、日常生活の欲求充足をはかることは文化の基本的働きである。実用性がこれにあたる」。しかし超越という「効率や駄さん、妥協などの実用性を超える働きも文化の中に含まれている」「実用主義に対して理想主義といってもよい」もあり、文化のさらにもう一つの働きである自省については「みずからの妥当性や正統性を疑う作用」とし、その効果が蔑ろにされている現状に疑問を呈する。

確かに、35歳までは全く本を読まなかった自分が、ここ9年ほどで年間100冊以上は読むようになってから、「超越」「自省」という成果は体感しきり、といったところ。その意味からしても、この本は読む価値があると感じる。

【読了】ベルクソン「笑い」

今年105冊目読了。19世紀から20世紀にかけて活躍したフランスの哲学者が、笑いのメカニズムを追求した一冊。

正直、かなり難解で、パッと理解するのはなかなか困難。ただ、SNSスマホに慣れきっている時代だからこそ、こういった骨太な本を読む必要があるとも感じる。
まず、著者は人の所作について「単純な一所為として人が示す放心を既に我々は笑うのである」としたうえで「人間のからだの態度、身振り、そして運動は、単なる機械を思わせる程度に正比例して笑いを誘うものである」と主張する。「これは、ほんとに生きている生は繰り返される筈はない」からだと理由づけて。そして「精神的なものが本義となっているのに、人物の肉体的なものに我々の注意を呼ぶ一切の出来事は滑稽である」と見抜く。
他方、言葉については「言葉の滑稽な繰り返しの中には、一般に二つの項が相対峙している。ばねのように弛緩する圧搾せられた一つの感情と、その感情を新たに圧搾することに興がる一つの観念と」としたうえで、言葉の笑いを誘う遊戯は「繰り返し、ひっくり返し、交叉とそう呼んでもよい三つの手だてをうる」とする。確かに、漫才などはまさにこの3要素のどれか(あるいは合わせ技)で成り立っているので、恐るべき慧眼である。さらに「或る言い廻しが譬喩的に用いられているのに、それを文字通りに解すればおかしな効果が得られる。あるいはまた、我々の注意が或る隠喩の物質性に集中されるや否や、その表されている観念がおかしなものになる」「或る考えの本来の表現を別な調子に移すことによって或る滑稽的効果が得られる」と述べる。
さらに、人の性格については「こわばり、自動現象、放心、非社交性、そのすべてが相互にもつれ合っている、そしてそのすべてによって、性格の滑稽味が作り上げられているのである」とする。

そして、笑いの効果についても「屈辱を与えるように出来ている笑いは、笑いの的となる人間に辛い思いをさせなければならぬ。社会は笑いによって人が社会に対して振舞った自由行動に復讎するのだ。笑いがもし共感と好意の刻印をうたれていたならば、その目的を遂げることはないであろう」と見抜く。

最近は、あまりお笑いを観なくなったが、この本の原則を意識すれば、たぶん読み解けるものは多いだろう。そして、この本がすでに1世紀近く前(1924年)に執筆された、という事実に愕然とする。人間、学ばざれば暗し。いやはや…難解であるが、読むことをお薦めしたい。

【読了】萩原遼「北朝鮮に消えた友と私の物語」

今年104冊目読了。元・赤旗記者としてピョンヤン特派員を務めたこともあるフリーランスの著者が、若い頃の朝鮮人の友との交流から、その皮肉な人生の荒波、そしてそれを招いた北朝鮮及び金日成体制への鋭い批判を事実ベースに書き起こした一冊。

思想的に言うと、「赤旗の記者!?」というだけで手に取りたくない。でも、個人的に非常に尊敬する読書家である佐藤優が薦めているのだから…と読んでみたら、まぁこれが凄まじい。こんなとんでもない事が起こっていたのか。今でこそオープンになっている北朝鮮の数々の「悪事」であるが、その当時はそんなこととは気づかれず(というか、薄々感じ取っていても、身内や友人を北朝鮮に「人質」に取られているので追及できず)、という空気感がひりひりと伝わってくる。今の時代から見ると、後知恵で「なんで、北朝鮮を『地上の楽園』と言われるがままにそんな危険な国に行ったんだ?」と思ってしまうが、当時の李承晩体制による在日朝鮮人への「棄国民」という見方、及び激しい弾圧、という背景が抜け落ちてしまっている。歴史を含め、実際のルポルタージュの力強さを感じる。

そして、ピョンヤン特派員として務める中での生々しい記録は、戦慄ものである。多少の体裁の変化はあるかもしれないが、このような国が21世紀にもなってまだまだバンバン「飛翔体」を撃ちまくっている、かつ韓国はその国にすり寄ろうとしている、という状況が暗澹とした気持ちにさせる。

人類への犯罪ともいえる、この国の存在と行動。それを生々しく暴いている点、非常に興味深い一冊だ。イメージで物事を語ることの危険性も、ひりひりと感じさせてくれる。

【読了】磯田道史「武士の家計簿」

今年103冊目読了。茨城大学准教授の筆者が、加賀藩御算用者の幕末維新をその緻密な家計簿から読み解く一冊。

映画化されても見向きもしていなかったのだが、この本は実に面白い。「御算用者」という会計係を務めることで、階級主義の穴である「実力主義エリア」に入り込んで力をつける一族の実態をこと細かく分析しているところが興味深い。何より、イメージ優先で「江戸の武士はこんなもんだろう」と思い込んでいる常識をいちいちひっくり返してくれるのが「事実って、知らないもんだなぁ」と感嘆する次第。

そして、この一族が明治維新を迎えるにあたり、親族含めて「勝ち組」「負け組」に分かれていくあたりも、時代のうねりを感じる。そして、その結末から、筆者が導きだした「大きな社会変動のある時代には、『今いる組織の外に出ても、必要とされる技術や能力をもっているか』が人の死活を分ける」との一般則は、本当にそのとおりだと思う。現代社会においても、まさにこれと同じことが言えるのではなかろうか。

「人間は忘れ、記憶を書き換えていく生き物だから、その場で記録をすることは大事」「イメージで作り上げた『こうなんだろうな』という感覚は、後知恵であり、全然違うことが多い」ということを学ぶこともできる良書。本当に、楽しく興味深く読めた。

【読了】木村裕主「ムッソリーニ」

今年102冊目読了。東京外大教授、外務省専門調査員、在イタリア日本大使館広報文化担当官などを歴任した筆者が、ムッソリーニの生涯を通じてファシズムの何たるかを掘り起こす一冊。

後発のナチズムのほうが圧倒的な迫力でヨーロッパを席巻し、嵐に巻き込んだためにそちらの研究のほうが日本でも活発である。しかし、独裁という点においては、ムッソリーニのほうが先輩であり、かつ20年以上もその体制を続けた、というすさまじさ。その歴史を紐解くことは、非常に意義がある。どうしても、後知恵で「ナチスドイツ、ヒトラーに追従した独裁者」という感じに捉えられがちだが、決してそうではないことがよくわかる。

筆者の丁寧な積み上げも、好感が持てる。それによって「イタリアには近代化の主役である石炭と鉄が乏しく、ハンデを背負っていた」状況から「イタリア、日本、ドイツという後発資本主義国が、イギリス、フランス、アメリカという先発資本主義国と鋭く対立していくようになる」過程を読み解いていく。
ムッソリーニの野望がどちらに向いていたのか、ということはヒトラーの「レーベンスラウム(生活圏。ドイツにおいては東欧の土地と資源)」があまりにも有名すぎて霞んでいるが、「マーレ=ノストロ(我々の海。地中海のこと)」によるローマ帝国栄光の復活、とみるとなるほどその軍事行動が理解できる。しかし、ムッソリーニの野望にイタリア人がみんな熱狂していたわけではない、という事実もまた面白い。「個を国家の中に包み込むファシズム」は、「もともと自分の人生をいとおしみ、個性的で団体行動の大嫌いなイタリア人」とは相性が悪いと言われれば、そりゃそうだ。しかし、それを押し切って20年以上独裁を振るった、という点においては、やはりムッソリーニには(良し悪しは別として)力があったのだろう。

何にせよ、「ファシズムというのはあくまで政治の手法、方法であり、哲学や理論はあとから都合よく構築した」ものであり、「無関心であるところにナチ=ファシズムが浸透してくることはかつての日本の軍国主義が実証している」という主張は全く同感。歴史の厚みを学べる良書だ。

【読了】高崎宗司「検証 日朝交渉」

今年101冊目読了。津田塾大学教授の筆者が、終戦後から六者協議に至るまでの日朝交渉の歴史経緯を書き表した一冊。

全体的に、北朝鮮への配慮トーンが強すぎないか?という感じはするものの、交渉の流れとその都度の挫折の経緯、内外的要因などが丁寧に描かれている点は良い。歴史経緯をおさらいするには、分かり易くまとまっている。

また、内外にあまりにも変数の多い外交の難しさと、それ故に変数を見ながらカードを切り合って「こちらのデメリットを最小限にしつつ、相手から引き出すメリットを最大化する」という極めて難しいセンスが求められることがよくわかる。

そして。断片的情報、一時期の断面を見ただけの感情的世論というものが、いかに国益を考える際にややこしいものか、もよくわかる。

外交関係のニュースを見ると、感情的に反応する、あるいはコメンテーターの話を鵜呑みにする、となりがち。しかし、「ここに至るまでの経緯、お互いの主張と狙い、周辺国の思惑が複雑に絡み合った一断面が表層化しただけだ」という認識を持つだけで、立ち止まることができる。そうやって外交ニュースに向き合うだけでも、全然違うだろうな。

筆者の丁寧な記述により、示唆するところは多い。なかなか勉強になった。

【読了】藤井忠俊「国防婦人会」

今年100冊目読了。茨城大学講師の筆者が、満州事変後から国防婦人会がカッポウ着による兵士の見送りを行い出してからの興隆と、その終焉を描き出した一冊。

これを読むと、戦後の後知恵で教育を受けた身としては「赤紙と、それに耐える…」というステレオタイプな戦中日本の様子がすべてではなく、それまでには政治、軍事と自主的活動として広まった婦人会の何ともおどろおどろしい鬩ぎ合いがあったことがうかがえる。正直、国防婦人会なんて全く知らなかったが、「軍人と関係のない市民として軍事後援をはじめたところに広く市民に訴える基礎があった」「カッポウ着をあえて制服にしたことで、奉仕精神をあらわし、着替える間もなく台所から飛び出した感を出し、着物を飾る上流婦人たちへの反発から大衆婦人層の好感を呼んだ」など、なかなか興味深い。そして、これを活用しようとした陸軍と、国防婦人会の狙いの違いによる食い違い、巻き返そうとする内務省、など、著者が述べるとおり「家と台所をめぐる権力と民衆の鬩ぎ合い」だったわけだ。

イメージにとらわれ、掘り下げようとしない姿勢を猛省する。そして、著者の指摘「戦争と民衆の関係は、醒めた目で、そしてなお深層の情感をよく理解して、動態を深く観察することが必要」のとおりだ。「ああ、知ってるよ」と思考停止することの怖さを学ばせてくれる一冊だ。