今年74冊目読了。宗教学者、文筆者である筆者が、名刹などに焦点を当てて京都の歴史と謎を解き明かしていく一冊。
時代の流れで、物事は変化している。が、ついつい現代を見ると、その様子が過去もあったように錯覚する。そこを見事に突いていると感じる。
冒頭、筆者は京都について「散歩がそのまま歴史探訪になる。その確率が京都では圧倒的に高い。多くの観光客が世界中から京都を訪れるのも、こうした歴史の積み重ねがあり、それに容易に触れることができるからだ」「なぜ京都は、日本で有数の、さらには世界の人々を引きつける観光地になってきたのか。その魅力の源泉はどこにあるのか」と考察する。
伏見稲荷大社については「千本鳥居を通り抜けていくと、石碑がところ狭しと祀られている光景が目に飛び込んできた。これが『お塚』である」「伏見稲荷大社の境内には、仏教関係の建物、三重塔や大師堂、大国堂などがあった。神仏判然令によって、仏教関係のものは排除され、神号についても稲荷大明神に統一された。ほかの神号を用いることもできなくなり、独自の神を祀っていた人々が、勝手に『お塚』を建てるようになった」「千本鳥居は明治時代に入ってから建てられたものだと考えられる。それは、お塚が建てられるようになった時期とも重なる。お塚が建てられるようになり、それにともなって鳥居の奉納が盛んになり、それが千本鳥居になったと考えれば、充分に歴史的な経緯の説明がつく。お塚も千本鳥居も、近代の信仰が生み出したもの」は、知らなかった…しかも「稲荷山には、都に近いだけに、そこに住む庶民の信仰が入り込みやすい。その結果が、大量のお塚であり、今も奉納が繰り返される千本鳥居」だとはびっくり。
八坂神社については「山鉾巡行は、本来は余興であって、後になって生まれたもの。本来の祇園祭は、巡行の後、夕刻から行われる神幸祭の方である」「神仏判然令によって、牛頭天王を祀る祗園感神院は素盞嗚尊を祀る八坂神社へと変容していった」「牛頭天王は祟り神だが、強力な祟り神ほど、威力があり、利益をもたらすという方向に転じれば、まったく逆の効果をもたらすと考えられるようになる」も、なるほどなぁと驚く。
清水寺については「清水寺に舞台が設けられたのは、参詣者でごった返しており、本堂が手狭になったことが原因といわれる」「昔の清水寺は、死体が野晒しになった鳥辺野の真っ只中にあった。清水寺は死の世界のただ中に立つ寺であり、その舞台に立てば、墓や遺体が目に入ったはず」「あるいは、清水の舞台からの飛び降りは、一部の人間には、願掛けではなく、自殺の意味を持っていたのかもしれない」。確かに場所柄、言われれば理解できるが、なかなか想像するのが難しい。
西芳寺(苔寺)については「江戸時代末期になるまで苔ははえていなかった。荒廃することで苔むす庭園となった」「京都観光が盛んになったことに、写真技術の発達は指摘せねばならない。とくに、西芳寺の場合には、カラー写真の普及ということが、その存在を広く知らしめることに貢献したように思われる」と言及。確かに京都とカラーは相性がいい。
金閣寺については「金閣はあくまで建築物である。建築物は一般的に外観を見せるためにではなく、何らかの用途を果たすために建てられる。金閣の場合には、なかに仏舎利や仏像を安置しており、もともとはそれを拝むための建物だった」「国宝が損傷し、修理や修復が必要になった時、国はそのための費用を供出する。しかし、指定解除になれば、それは行われない。金閣寺は、自前で金閣再建の費用を捻出しなければならなくなったが、同時に、どのように再建するのかについて、国による制限や制約がなくなった」は、言われればごもっとも。
そして「もし、金閣が当初の再建計画のように、第三層の天井だけに金箔を貼り、残りの全体が白木だったら、それが与える印象は全く異なっていたはず。計画が変更され、第三層・第二層の内外に金箔を貼ったことにより金閣はその呼称がふさわしい、ほかには見られない特異な建造物となった」という指摘にはうならされる。
銀閣寺については「慈照寺の観音堂が銀閣と呼ばれるようになるのは、江戸時代になってからのことで、創建当時には、格別金閣と対比されていなかった」「銀閣という呼称がうまれたのは、17世紀のことで、銀沙灘が登場するのは18世紀後半。銀閣と呼ばれるようになったことで、銀にまつわる何ものかが銀閣寺に存在することが求められるようになったと考えられる」と考察する。なるほどなぁ。
平等院については「どの宗派にも属していない。長く天台宗系の最勝院と、浄土宗系の浄土院が共同で管理してきた歴史を持つ」「楠木正成と足利尊氏が宇治橋をはさんで戦ったおり、正成が平等院に火を放ったため、鳳凰堂を残して堂塔の大半を失った」「密教関係の堂舎が失われ、再建されなかったことで、平等院からは密教色が一層され、浄土宗信仰のシンボルとしての鳳凰堂の存在感は増し、浄土式庭園の典型として多くの参拝者を集めることとなった」…そうだったのか…
比叡山延暦寺については「鬼門を意識して建てられたわけではない。一乗止観院を建立した最澄が、都を引き寄せた形になるが、それは延暦寺と京都のたどる運命に多大な影響を与えた」「比叡山は、京都で活躍する宗教家を産むとともに、僧兵の強訴によって強い影響力を発揮した。さらに、そこが修行の場として生き続けている」。たまたま、というのは確かに歴史の並びからするとそうだよな。
筆者が最後に記述している「近代に入ってからの京都の寺院は相当に苦しい時代を経験している。それが改善されるのは、戦後に交通網が発達し、修学旅行や団体旅行で、多くの参拝者、観光客が集まるようになってからである」「色を愛でる場所。京都にはその魅力がある。今流にいえば、京都ほどインスタ映えする町はない。そこにこそ、京都が国の内外から膨大な観光客を集める第一の秘密があるのかもしれない」「京都は、そこが都になってきたときから変貌を続けてきた。昔からあるものが残されつつ、そのあり方はかなり変化している。その変化は、あまりにもうまく時代の流れに沿っている。そこに、古都としての京都の底力が示されている」は、全くそのとおりだと共感する。ただ単に京都を見て回るより、深みを持つことができる。そんな良書だ。