世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】今谷明「近江から日本史を読み直す」

今年103冊目読了。国際日本文化研究センター教授の筆者が、日本の東西の巷であり、地政学の要であった近江を歴史から読み解く一冊。


関西エリアの中ではどうしても存在感が薄くなりがちな滋賀県だが、こうして歴史を紐解くと大いなる要衝であることがわかる。


近江の大事さは「近江は太閤検地の石高が七十八万石で、陸奥国を除き全国一であり、二位の武蔵の六十七万石を断然引き離していた。このような豊穣さは、古代から変わらない」というところにあり、かつ琵琶湖という水運が大きな鍵なのだろう。


古代においてなるほどと思ったのは「近江の高島郡(現在の高島市)には、継体天皇の遺跡と称する場所が多い。JR湖西線安曇川駅のすぐ西南方の延喜式内社・箕島神社付近を『三尾の別業』に比定する説が有力」「大津京が都として機能したのはわずか5年。にもかかわらず、湖国の美しい風光と荒都のイメージは歌人の郷愁と詩情をかきたてたようで、しばしば美しい歌に詠まれた。大津京の雅称『さざ波』と、湖畔の廃墟というのが、歌枕の条件によほどかなったようである」のあたりの記述。


日吉神社は一般的にはそこまで有名ではないが、「南北朝時代に五山の禅寺が擡頭して叡山の独占的経済力は揺らいだとはいえ、京中の土倉(高利貸商人)の8割は日吉神人による経営だった」「神人を擁し、神威を背景に金融、財テクに奔走した日吉神社。参道を登ってゆくと、山門公人と呼ばれた神人たちの屋敷が昔ながらに残り、中世坂本の繁栄がうかがえる」のあたりを読むと、その繁栄の理由がよく分かる。


足利幕府と近江の皮肉な繋がりとして「義尚、義材と二代の将軍が相次ぎ、近江に親征を行ったのが2度の六角征伐で、それは表面上、応仁の乱で権威を失った室町幕府が最後の悪あがきよろしく、将軍親裁権の復活を試みたもの。しかし結果としては、最有力守護・細川氏による将軍廃立をみたわけで、以後、室町幕府の権力は畿内周辺に局限された」「天文三年(1534)、足利義晴は将軍として京都に戻ったが、その後もしばしば大津坂本に逃れている。将軍がつねに東の近江に流れるのは、細川晴元の家宰・三好氏が擡頭して山城や丹波を押さえ、近江のほかに逃げ場がなかったから」のあたりは知らなかった…不勉強を恥じるばかり。


そして、戦国時代についても「八幡の町屋の主な部分は、織田信長の安土下町を移したもので、博労町、永原町、小幡町などは安土とも共通する町名。しかし、安土城下では家臣団屋敷と町人居住地が混在していたのを、八幡では完全に分離し、八幡堀より北側を武家屋敷、南がを町人地と指定した」「文禄四年(1595)七月、豊臣秀次は自害させられ、八幡山城も破却され、廃城となった。秀吉は秀次をしのばせる一切を抹消したかったのだろう。こうして八幡は城下町ではなくなったが、琵琶湖水運に恵まれた湊町、湖東の物流の中心として繁栄した」のあたりはびっくり。細かいところまで知ると歴史は立体感が増してくる


近江商人という言葉は人口に膾炙しているが、「十八世紀の近江からは、雨森芳洲、北方交易に従事した近江商人、千島探検に従事した近藤重蔵ら、国際的に活躍した人々が出現した」「近世に入っても、近江からは探検家が輩出する伝統が続いている。チベットの青木文教、中央アジア梅棹忠夫、南極の西堀栄三郎、彼らはみな近江出身である。進取の気風に満ちているのも、近江人の気質」という事実を述べられると、なるほどなぁと驚く。


本当に歴史というのはいろいろな角度から掘り下げると面白いなあ、と痛感させられる。ただ、ちょっとマニアックかな…