世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】三浦佳世「視覚心理学が明かす名画の秘密」

今年91冊目読了。九州大学大学院人間環境学研究院教授を経て九州大学名誉教授となった筆者が、実践心理学の成果を土台にして数々の名画を読み解いていく一冊。


もともと心理学系は好きで、かつ最近絵画系の美術にも興味が湧いてきたので、その交点ともいうべき本書は図書館でタイトルに惹かれて借りてみた。これは非常に面白かった。


筆者は、なぜこのような交点に気づいたのか。「画家と視覚研究者は対象を徹底して見ることで、しばしば共通するものを見つけることがある。画家は絵を描く中で視覚の秘密を発見し、視覚研究者は研究を通して、画家の見つけた秘密を共有する」という視点は、なるほど頷かされる。


光の影響について「フェルメールが穏やかな日常の生活を描くにあたって左上からの光を用いたのに対し、レンブラントは穏やかならざる非日常の場面を描くにあたって右上からの光を選んだのかもしれない」「日本の伝統からすれば、絵巻物が典型であるように、物語は常に、右から左に進む。もちろん、文字を右から左へと書き進める習慣による。一方、西洋では文字を左から右へと書き進めるため、絵もまた左から右へと詠まれることになる。光の位置もこの流れに沿うのが自然だろう」というのは納得だ。
「教室の外側に面した窓はいつも左側にあり、廊下側の窓は右にあった。左側からの光を取り込むことで、大半を占める右利きの子供にとって、ノートに影が落ちないための工夫だったのだろう」「人は利き手側の対象を肯定的に評価する傾向がある。利き手側の対象は流暢に処理することができるため、肯定的な判断につながると思われる」のあたりは、それに付帯する人間心理としても面白い。
そして、明暗に関しても「『眩しさ』を表す漢字は、目を偏に、玄(黒の意)を旁として表記する。目が『眩む(暗む)』という意味で、『眩』の字である。あたかも光で目が眩んだときの、暗さを表現しているように思える」「透明という印象は脳の中での推論によって生み出されている。透明感を産むには、交差する部分の明暗の関係が重要となる」も、興味深い。


錯視についての言及も興味深い。「絵を充足させると、人には描かれたものしか見えなくなる。足りないところがあると、そこに注意が向き、人の脳は『ないもの』を補い、その結果、形が現れる」「足りないからこそ、鑑賞者が補い、見えてくるものがある。自らの脳で能動的に補うから満足度も高まるのだろう」「人は色や明るさの向上性によって、その場の環境光を差し引いて知覚する。照明状況を解釈するための情報が十分にない場合、私たちの視覚系は最もありそうな条件を採用し、その際、条件設定が人によって違っている」などは、なるほどなぁと思う。


視野についての「『視野が狭い』という言い方がある。だが、私たちがくっきりと見ることのできる範囲はそもそも狭い。中心視の範囲は、視覚にして2、3度というから、60センチくらいの視距離では直径2、3センチの範囲にとどまる」「私たちが見ている世界は、西洋の風景画のように遠くの一点に収斂する整合性の取れた広い景色ではなく、重複や欠損を含んだ部分情報の寄せ集め」という指摘も見逃せない。


さらに、脳の機能として「脳はもともと、形を見る前に、色を感じ、動きを把握している」「脳は事象が意識に上るわずかなタイムラグの間に、眼や体から来た情報を統合し、私たちが理解できる物語につくり直し、その結果を私たちに示す」「私たちは特定の視点から物事を見がちである。しかも、それを『よい』と思い込みがちだ」ということを挙げる。


全体を通して筆者が伝えてくる「『事実』という言葉は英語ではファクト(fact)と言う。しかし、ファクトはフィクション(fiction)つまり虚構と語源を共通にする。どちらもラテン語で『つくる』を意味する言葉に端を発していて、ファクトは『つくられたもの』の複数形である。事実はつくられるもので、つくった者の数だけ存在する」「見ているものは眼前の世界ではなく、目から入った情報をもとに、自分の中の知識や記憶や感情、周りの状況などを総合して、脳で再構築した世界だ。関心がなければ、目の前にあっても気づかないことは多い。だから、眼の前に広がっている世界はつなぎ合わされたものである」ということは、さまざまな認知・思考の際にぜひとも留意しておきたいところだ。


絵画好きなら、非常に面白く読むことができるだろう。その意味で、一般受けがどうか?というところではあるが、個人的には楽しく読めた。