世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】高橋貞樹「被差別部落一千年史」

今年92冊目読了。戦前の社会主義活動で活躍した筆者が、1924年、なんと19歳で書き上げ、その後発禁となった一冊。


特段興味があるわけではなかったが、佐藤優の「お薦め書籍」の中に入っていたので図書館で借りてみた。


被差別という事象についての大きな流れとして「われらの歴史は、実に強者の鞭の下に脅かされる弱者の哀史である。奇怪惨酷なる圧抑と陰鬱悲惨極まりなき階級闘争─特殊部落一千年の歴史は、ただ兇猛なる力圧と果敢ない忍辱の歴史であった」「部落民一千年の区画は、まず種族的反感と宗教的感情からついに職業賤視をきたした第一期(戦国まで)と、法制上にも明白に賤視虐待された第二期(徳川の封建制下)と、完全なる社会的な迷信として存続する第三期(明治4年以降)とに分かれる」と概観する。


そのうえで、過去の経緯については「血の穢れを忌んだ古代では、各郷村の外れに共同の産小屋を設けて、そこで出産する風があった」「血の穢れを忌む古代にあっては、死骸が忌まれ、墓地が忌まれた」という流れがあるところに「仏教の齎せる肉食禁忌の風と共に、屠獣、皮革製造、助産等を司った賤民中の一部を賤視する風が生じ、不幸にも後代の特殊部落の起源をなすに至った」ことから「穢多は屠者で、屠者を旧く餌取といい、エタという名も『エトリ』の転訛だといわれている」。それが固定され「徳川一家の私的利益のため、民衆の利益は蹂躙されて顧みられず、人権の全く認められるなく、特殊部落民は無制限なる搾取と圧制の鉄鎖に堅く結ばれるに至った」と総括する。


そして、それは明治4年の解放令があっても「一片の法令は、古来の凝結した歴史的伝統を打ち破り得なかった。解放令は空文と化し去って、何らの効果をも及ぼさなかった。徳川政府が強いた厳格な階級政策の余弊はながく残った」。その結果「部落民が団結して事を企てるというのも、自らの生命を生かすがための非常手段にほかならぬ」とし「同情運動のすべては、言葉のみ美しい売名家の職業的また遊戯的同情であった。同情運動は、決定的にわれわれを現在の境遇より一歩も進出せしめないものである」「六千部落民三百万の同法に対する差別的待遇と不当の圧迫とは、全く故なきものである。もしも改善すべきものがあれば、それは部落民ではなくて、三百万同胞を不当に迫害している社会そのものである」と強く訴えかける。


被差別という観点からの「従来の歴史は支配階級の歴史である。真の社会史は、この歴史に対して、奴隷の歴史が編まれたときに明らかになる。すなわち、奴隷の歴史は同時に征服者の真の歴史を明らかにするからである」「いかなる国家も、征服に起源しないものはない。またいかなる原始国家も、峻厳なる階級制度に征服され掠奪された奴隷の存在をもって開巻せぬものはない。エジプトのピラミッドもメソポタミアの大円形劇場も、奈良の大仏も、悉くこれ奴隷血肉の結晶たらざるものはない」という歴史の見方は、確かに見過ごされがちである。しかし、それもまた歴史であり、視野を広く取ることの大事さを教えてくれる。


本書は大正末期に書かれたものであるが、「社会の外延としては近代的な真正資本主義の諸要素─議院政治、資本家的立法、国民皆兵主義という軍制の民衆化、大企業の勃興、都市の成長、無産労働階級の発達というがごとき諸現象を有する。が、その内包には、多くの徳川時代的特色が破壊されることなく、あるいはそのままで、あるいは変形して残存している」「その一面は中世アジアの風をなし、他の一面は近代資本主義の活力に満ちている」「日本には、立憲主義の不徹底が甚だしく、また支配階級は、自己に有利なる場合には敢えてこの徹底を図ろうとはせぬ。彼らは、生産の発達段階において、その要求に応ずるのみである」あたりの指摘は、元号が3つ変わって、ほぼ100年経過しようという2021年においても、(軍隊の部分を除き)全くそのまま適合してしまう、というところが恐ろしい。


差別意識の根強さ、日本という社会の現代性に関する歪さ。そういったものを感じ取るには、なかなか面白かった。文体が堅苦しくてちと疲れたが、読みごたえはあった。