世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】水村美苗「日本語が亡びるとき」

今年73冊目読了。創作の傍ら、プリンストン大学などで日本近代文学を教える筆者が、日本語の特性と英語の世紀の中で日本語がどうあるべきかを書き表した一冊。


言葉の特性については「自分たちの言葉で書くという行為─それが、自分たちの国を思う心と、いかに深くつながっていたか」「読むという行為と書くという行為は、本質的に、非対称なものである。ある言葉を読むことはできても、その言葉で書くのは容易なことではない」


近現代の言語の激変については「人々の間の交流が急激にさかんになったことによって、言葉に有史以来の異変が二つ起こっている。一つ目の異変は、下の方の、名も知れぬ言葉が、たいへんな勢いで絶滅しつつあるということ。二つ目の異変は、今までには存在しなかった、すべての言葉のさらに上にある、世界全域で流通する言葉、普遍語となりつつある英語が生まれたということ」「西洋の衝撃は、非西洋に文学の断絶─究極的には、文化の喪失そのものを強いる」「文学のありがたさは、科学の急速な進歩、文化商品の多様化、大衆消費社会の実現により、加速度をつけて失われていっている」「インターネットは世界で英語が普遍語として流通するのを強化する技術だが、そのインターネットという技術にかんしてのメタ言語も、英語という言葉なのである」とし、英語が普遍語として君臨する危険性を述べる。


人間の行動特性についても「人には、知らないうちに植え付けられた思いこみというものがあり、それが真理を見るのを阻む。人は思い込みによって考えるのを停止する。たとえ心理を垣間見る機会を与えられても、思い込みによって見えない。しかもなかなかその思い込みを捨てられない。真理というものは、時が熟し、その思い込みをようやく捨てることができたとき、はじめてその姿を現す。」「人類が、それまでとは異なった次元での、叡智のある人となったのは、読むという行為を通じて、人類の叡智が蓄積された図書館に出入りできるようになったから」「翻訳という行為の根底には、常に、もっと知りたいという人間の欲望─何とか普遍語の図書館に出入りしたいという人間の欲望がある」と自説を展開する。


日本語の特殊性についても触れる。「日本語が名実ともに国語として成立しえたのは、一つは、日本の書き言葉が、漢文学のなかの現地語でしかなかったにもかかわらず、日本人の文字生活の中で、高い地位を占め、成熟していたこと。二つ目は、印刷資本主義がすでに存在し、その成熟していた日本の書き言葉が広く流通していたこと。三つ目は、植民地にならなかったこと」「日本が漢文圏に入り、文字文化に転じたのが、大陸からの地理的な近さ故だとしたら、日本語が成熟することができたのは、その反対に、地理的な遠さゆえ」「表記法を使い分けるのが意味の生産にかかわる書き言葉は、朝鮮語がハングルに漢字を交ぜない限りは、日本語以外に存在しない」という指摘は、ふだん日本語を使っていると思いもよらないが、なるほど納得できる。


現在の日本語の危機については「ひとつの文明が亡びるように、言葉が亡びる」「国民文学とはまさに自分たちの言葉だけで充足することが可能であるがうえに、いったん充足するようになると、いつしか自動運動が始まり、ついには世界性から取り残された人たちのふきだまりとなりうる」「インターネットの出現は、今まで日本語という書き言葉を護ってきた地理的条件を、徹底的に無意味なものにしてしまった」と強く警鐘を鳴らす。


では、今、どうすべきか。「どの時代にも、引き継がれて読まれるべき言葉がある。そして、それを読み継ぐのが文化である」「この先五十年、百年、最も必要になるのは、普遍語を読む能力である。また、読む能力とは、外国語を聞いたり話したりする能力の一番重要な基礎となるものである」としたうえで「学校教育という場において、日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという前提を、はっきりと打ち立てる」「日本の国語教育はまずは日本近代文学を読み継がせるのに主眼を置くべき。一つには、それが出版語が確立されたときの文章だから。二つには、漱石がいう曲折から生まれた文学だから。三つには、日本近代文学が生まれた時は、日本語が四方の気運を一気に集め、もっとも気概もあれば才能もある人たちが文学を書いていたときだから」と力強く提言する。


朋友から勧められて読んでみたが、正直、読み進めるのが実に大変。色々な表現が迂遠で、思考が複雑なので、かなり骨が折れた。しかし、その苦労も、最終章に至った段階で、「あぁ、なるほど、これは全て前奏曲だったのか!」と合点がいくような流れ。とにかく、筆者の日本語への憂い、想いが溢れ出し、まさに血が滴るような魂の叫びが刻み込まれているような文章が続く。軽い気持ちで手に取る本ではないし、最初のうちのスローペースに騙されてはいけない。


しかし、日本語を母語として操る者としては、避けて通ってはいけない。そんなことを気づかせ、考えさせてくれる一冊。向き合うときは、心して。でも、その価値は十分にある。