世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】柚木麻子「伊藤くんA to E」

今年23冊目読了。イケメン・ボンボン・だけどクズ男という「伊藤くん」をめぐる女性たちの複数のストーリーが交錯し、それぞれの人生を浮かび上がらせる小説。


佐藤優「僕ならこう読む」で紹介されていたから読んだだけで、筆者もこの手のジャンルも全く興味がなかったのだが、実に面白かった。巧妙に張られた伏線がさまざまな形で回収・収斂していく様も、とても楽しく読めた。小説を「思わず二度読み」するのは久々の体験だった。


クズ男である伊藤くんの本性として「あの人って、自分のことしか考えられない人じゃん。子供じゃん。」「圧倒的な経験不足と想像力の欠如が、あなたを傲慢にしてるんですよ。つくづく、くっだらねえ男だな」という評価がまさにズバリ、なのだが、それに対する最後の伊藤くんの弁舌がふるっている。
「一体誰に対して勝とうとしてるんですか。僕から見ると、本当につまらないことにこだわっているな、と思いますよ。人からどう思われるとか、一番になりたいとか、評価されたいとか、居場所が欲しいとか」「大抵の人間が夢を叶えないまま死ぬのは、夢と引き換えにしてでも、自分を守りたいからですよ。楽しいより、充実感を得るより、金を稼ぐより、傷つけられないほうが本当は重要なんですよ」。結局、傷つきたくない人間が陥る罠。その根本にある強烈な恐れ。そこと向き合う強さを持とうとしないことが、まさに彼をクズ男としているのだが、それは受け入れようとしない。でも、誰もが持っている恐れを「伊藤くん」という人物を通して結晶化した、とみると、そこには奥深さを感じる。


また、生きていくうえで「価値あるものを見つけて、それを慈しみ、大切にするのは怖い事ではない。それを身をもって顧客に伝えなければならなかった」「思い切ったことをしないと、身銭を切らないと、リスクを背負わないと、何も変えられない」のあたりは、伊藤くんをめぐる女性たちの気づきであり、またそれは普遍的である点、面白い。


そして、伊藤くんをクズ男に腐らせる原因ともなった脚本家の洞察が、これまた人生の核心を突いている。「百の企画書を出したところで、企画書作りが上手くなるだけだ。自分の言葉で物語を執筆しない限り、シナリオの技術は決して向上しない」「知識なんて問題ではない。書く意志しか、その人を決して、先に進ませない。逆に、勉強やインプットは後からいくらでもできる。ごちゃごちゃ言わずにただ筆を執ること。一字でいいから書くこと。拙い言葉でもいいから」。まず、やれ。やってから考えろ。VUCA(ブーカ)時代「Volatility(変動性・不安定さ)、Uncertainty(不確実性・不確定さ)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性・不明確さ)」を生きる21世紀の人々に、この洞察は大きな支えになる。


小説としての面白さ、奥行きの深さ。ダメ男っぷり、それに振り回される女性陣のダメっぷりとその視点の交錯、というだけではない面白さを満喫できた。これは良書だ。