世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】竹田青嗣、西研「知識ゼロからのニーチェ入門」

今年14冊目読了。早稲田大学国際教養学部教授と、東京医科大学教授の筆者が、現代においてさらにその意義と存在感を増している哲学者・ニーチェの思想を、漫画を交えながらわかりやすく解説する一冊。


この手の入門書は、つい理解した気になるから、ということで敬遠していたフシがあるが、いかんせん、自分の脳みそではニーチェはハードルが高すぎる(若かりし頃、ニーチェ「この人を見よ」を読んで、さっぱり理解できなかった苦い思い出がある)。
しかし、中年になって、少し哲学が気になるし…という状況においては、はやり避けては通れないニーチェ。となると、漫画が入っていても、「補助線」として読んでみる必要がある、と感じて読んでみた。


これは、かなり読み砕いていてわかりやすい。「神は死んだ」という言葉の意味なんて、この本を読まなければ一生理解できなかっただろう。また、「ツァラトゥストラかく語りき」も、漫画で概説してくれていて、ようやく理解が追い付いた、というレベル。ニーチェ先生、考えていることが深すぎます(涙)。


そして、なかなか現代人(特に現代日本人)が理解できないのは、当時のキリスト教に対するルサンチマンの時代背景が見抜けないからだ、ということもやさしく説明してくれる。確かに、この本を読んで、ニーチェ自身の育ちや環境の背景が、彼の思想形成に大きく寄与していることがわかり、それを考えあわせながらでないと、到
底彼の考えた足元にも及ぶことが出来ない。


これを読んでみて、21世紀となった現代だからこそ、ニーチェを一度学び直してみたくなった。まさに、入門としては最適な一冊と言えよう。他方、これを読んだからといって、ニーチェを語らないようにすることだけは留意しておきたい。
 

【率先垂範こそ大事。】

かつて、モチベーションは非常に高いが、それに比例して呼出バン バン、鬼のように厳しい部署にいたことがある。そのときに仕えた リーダーが極めて優秀な方だった。

<ポイント>
●聞かれる前に、自ら発信する姿勢。
今でもそうだろうが、21世紀に入ったばかりは、それはそれは上 司を残して帰る、ということは「場の空気」が許さない、 という感じがあった。しかし、このリーダーは、こちらが聞く前に 「おお、付き合い残業やめてくれよ!!」と自ら発信してくれたの で、こちらも帰りやすかった。

●笑いを入れるという「ほぐし」。
もちろん、それだけでも帰りにくい、というのが場の空気。そこで 、すかさず「大丈夫!呼び出すときは嫌でも呼ぶから!(笑)」 と言葉を継いでくれた。そういわれると、メンバーとしても「 ですよねー(笑)。じゃ、今日はお先に失礼します」 と言いやすい。やはり、笑いで空気をほぐす、 ということは大事だ。

<問題の所在>
●リーダーがメンバーの「視点から」見ているか否か。
よく「リーダーの仕事は、メンバーのことをよく見る事」と言われ る。まずもって、これができているか否か、ということが非常にハ ードルが高い。
しかし、この例でいえば「メンバーのことを見る」のさらに上を行 く「メンバーの視点から見る」ということができるか、 というレベルである。これができてこそ、真の共感を得られるとい うものだ。傾注しているU理論で言うところの「レベル3」 であり、非常に高いセンスを感じる。

すでに、このときのリーダーの年齢は超えたが、自分にはまだまだ できていないことである。しっかり、先人の域に達し、 超えていきたいものだ。

自戒の念を込めて。

【読了】藤沢令夫「プラトンの哲学」

今年13冊目読了。西洋哲学専攻の京都大学名誉教授である筆者が、プラトン哲学の核心をまとめた一冊。


そもそも、哲学の本を読むのは非常に骨が折れる。なかなか、この手の脳味噌の使い方に馴染んでいないからだろう(それはそれで情けない事であり、恥ずかしいが)。太陽、線分、洞窟論など、にわかに理解し難い事を噛み砕いてくれているので、それでもまだ何とかついていける。


プラトン哲学のベースとして「プラトンほど、自然を生命なき物質とみなしてはならないことを、生涯一貫して強く説き続けた哲学者はいないだろう」「知るとはその人の行為の隅々まで支配する力を持つはずだ、そうでなければほんとうの知とはいえない、という知への要求のきびしさ」「ただ生きることではなく、よく生きることをこそ、何よりも大切にしなければならない」とする。


生きる上での留意事項としては「無知の知とは、自分が何事かを知っていると思いこむ以前の状態に、つねに自分を置くことへのたえざる習熟」「そもそも言葉を語るということは、声を出して語る場合も心の内なる独語(内心の声)の場合も、その言葉を自分で聞くことでもあり、その言葉に他人が反応するのと同じように自分も反応すること」「学ぶこととは魂が生前にすでに学んだことを想起すること」とする。


プラトンが、ともすれば誤解されがちなのは「魂と身体の対立という表立った語り口の基底にあるほんとうの対立は、魂の働きの二つのあり方の対立、すなわち、一方における知と思惟、そしてそれへと方向づけられた感覚・欲望・エロース・快楽と、他方、飲み食いや性愛にかかわる身体的なものへと方向づけられた感覚・欲望・エロース・快楽との間の対立なのである」「イデア論にとって肝心かなめの重要な区別である感覚される性質と、それがあってこそ感覚される性質がありうるところの思惟されるイデアとの区別が、この物・個物と性質・本性との間に引かれる区別の陰にかくれて、不明確になることがどうしても避けられない」と述べる。


全般的に、骨が折れる新書だが、それだけの価値はある。逆に、2400年を経ても尚、自分の思索レベルはこの程度か、と愕然とする。そんな中で、筆者が主張する「人間が押し進めるべき技術は、生き延び原理(快適への志向)ではなく、精神原理(総合的価値としての善への志向)に導かれることを必須の条件とする」は、心に響く警句だ。改めて、哲学は、押さえるべき教養だと思う。


余談だが「プラトニックラブというのは、肉体関係がないことよりも、美のイデアの想起として語られる知的欲求の強さということのほうに、その重点がある」「お酒は火を混じえた液体として、魂を身体とともに暖めるものと定義されている」のあたりは興味深い。

【読了】アミン・マアルーフ「アラブから見た十字軍」

今年12冊目読了。レバノンを代表する週刊誌の責任者にして、パリで発行されるフランス語週刊誌「ジュヌ・アフリク」の論説委員である著者が、十字軍遠征の歴史をアラブ側から見てその経緯と展開、結末までを描き出した一冊。


ぶ厚いハードカバー本だが、これが絶妙に面白い。十字軍遠征自体にそこまで詳しいわけでもないのだが、その歴史をアラブ側から見る、という「主客転倒」させるだけで、ここまでイメージが変わるものか!!と衝撃を受ける。


著者は、侵略者たる十字軍側(フランク人)に手厳しい。「フランクに通じている者ならだれでも、彼らをけだものとみなす。勇気と戦う熱意にはすぐれているが、それ以外には何もない。動物が力と攻撃性ですぐれているのと同様である」「十字軍に代わる用語は、アラブ側の史書のなかでは、当時の西洋人の代名詞だったフランク、次いで侵略者、不信心者、もしくは蛮族、時には人食い人種となる」と述べる。


他方、アラブに対しても手厳しい。「スルタン同士は仲が良くなかった。そのためにフランクは国を奪うことができたのである」「イスマーイールは悪循環に陥る。処刑するごとに新たな復讐への恐れが増大し、その芽をつむために新たな処刑を命ずる」「十字軍時代を通じ、アラブは西洋から来る思想に心を開こうとしなかった」と見抜く。


また、歴史の大きな流れをつかむことも大事にしている。「宗教的情熱は政治的、軍事的な現実主義と裏腹の間柄ということだろうか」「思慮深い政治家として、新たな侵略を回避するには、沿岸のフランクと和解するだけでは十分ではなく、かんじんなのは西洋自身に話しかけることだと弁える」などは、その表れである。


そして、この十字軍遠征による侵略のダメージが今に続くアラブの宿痾となっている、という論説は非常に興味深い。「預言者の民は九世紀以来、みずからの運命を制御できなくなっていた。指導者たちはほとんど外人である」「相当数の草原の戦士たちが、アラブあるいは地中海の文明とまったく結びつきがないのに、定期的にやってきて、指導階級である軍部に同化する。以来アラブは支配され、抑圧され、ばかにされ、自分の土地に住みながらよそ者になり、七世紀以降始まった自分たちの文化的開花を追求することができなかった」「アラブの疾患は、安定した法制を組み立てることができなかったことである」「以来、進歩とは相手側のものになる。近代化も他人のものだ。西洋の象徴である近代化を拒絶して、その文化的・宗教的アイデンティティを確立せよというのか。それとも反対に、自分のアイデンティティを失う危険を冒しても、近代化の道を断固として歩むべきか。イランもトルコもまたアラブ世界も、このジレンマの解決に成功していない」「中東のアラブは西洋の中にいつも天敵を見ている。このような敵に対しては、あらゆる敵対行為が、政治的、軍事的、あるいは石油戦略的であろうと、正当な報復となる。そして疑いもなく、この両世界の分裂は十字軍にさかのぼり、アラブは今日でもなお意識の底で、これを一種のレイプのように受け止めている」。…この感覚を持っているか否かで、世界情勢の見方はまるで変わってくるくらいの衝撃だ。


また、豆知識的に勉強になったのが、アラブ世界の言葉が語源となっている名称について。「シャラブとはしぼって冷やしたフルーツ・ジュースのことで、フランクはこのアラビア語を借用して、液体のほうをシロップ、凍ったほうをシャーベットと名付ける」「殺人教団は、ハッシーシュ(麻薬の一種)の常習者と思わせた。ここからハッシャーシューン、あるいはハッシャーシーンという派生語ができ、これが崩れてアサシンとなり、多くのヨーロッパ語のなかで暗殺者を意味する普通名詞となる」「アラブは骰子(さいころ)をアッザフルと詠んだが、フランクはこの言葉を、遊びそのものではなく、運、すなわち偶然(ハザード)を指すものとして取り入れる」など。


さらに、世界遺産となっている場所がそこここに出てきて、その歴史的経緯が明らかにされていくので、非常に勉強になる。歴史をどちらから見るか、という大いなる視野、そしてその大河のような流れ。本当に勉強になる一冊。こういう良書を読むと、しみじみ自分の浅学さを痛感するが、故に学ぶことの楽しさも教えられる気持ち。ありがたや。

【読了】マルモンテル「インカ帝国の滅亡」

今年11冊目読了。18世紀のパリで活躍した詩人、作家である著者が、スペイン人による南米侵略を告発したラス・カサス神父と、狂言によって人間性を失ったキリスト教徒との対立・葛藤を壮大なスケールで描いたインカ帝国滅亡の物語。


結末がわかっているだけに、読み進めながら胸が締め付けられる。しかし、スペイン人が皆、血に飢えた悪魔ではなく、インディオ達と交流した人達もいた、という事実にはどこかこころ安まる思いだ。それにしても、欲やエゴに乗っ取られると、人間はかくもケダモノになるのか…と暗澹たる思いもする。


人間の特性について「ひとが受け入れるのを拒むのは、善きものを愛する心がそれを受け入れない場合だけ」「真の偉大さと純朴さは相通ずるものであり、心の正しさが心の気高さの表れでないことはまれ」「善も悪もあわせ持つ普通のひとびとは、与えられる手本によって良くも悪くもなる。悪党の手下は悪党の心に、勇者の部下は勇者の心に染まる」と見抜く。


人間の哀しき業について「人間は本来弱い存在であり、不幸と背中合わせの人間が慢心に陥ることは狂気の極みである」「熱狂にとりつかれた人間というのは、みずからに対してはなはだ無力なもので、自己の感情を抑制するなど、とてもおぼつかないこと」「狂信ということばで私が意味するのは、不寛容と迫害の精神、憎悪と復讐の精神である」と述べる。


生きる上での心構えとして「最も尊敬すべきは、おのれの過ちをみずからはっきりと認める国民である」「この世のありとあらゆる迷信の中で最も有害なもの、それは、おのが神を信じない者とみれば、直ちにおのが神の敵と断ずるような思い込みである。というのも、そうした迷信に陥ると、ひとを思いやる気持ちが心の中からいっさい失われてしまうからだ」「弱肉強食わ地でいく奴隷制、この恥ずべき堕落の道は、自然への冒涜であり、人間性への挑戦である」などの記述がある。


読み物として面白いし、歴史の事実、人間の業など、学ぶ点も多い。やや分厚めな文庫本ながら、ぜひ、一読をお勧めしたい。

【読了】スタンレー・ミルグラム「服従の心理」

今年10冊目読了。イェール大学で教鞭をとった有名な心理学者である筆者が、自らが実施した「閉鎖的な状況における権威者の指示に従う人間の心理状況の実験(通称:アイヒマン実験)」の実態と詳細な考察をまとめた一冊。


実験そのものは「被験者が、どこまで権威者に従って他者を罰することができるか」という有名なもの(実際には、罰として流れる電気ショックは演技である)。しかし、人間は条件下に置かれると思いのほか服従してしまう。その結果は、ナチスドイツの非道な虐殺行為は「一定の条件下においてはだれでも起こしうる」という衝撃の事実を突きつける。かなり有名な心理学実験ではあったが、ここまで詳細に条件を変えながら実施されているとは知らなかった。


筆者は「個人が自分を他の人の要望を実行する道具とみなすに至り、したがって、自分の行動の責任が自分にあるとは思わなくなることが服従の本質」「服従は、根深くしみ込んだ行動傾向であり、倫理、同情、道徳的品位の教育を押し流してしまう非常に強い衝動」「人々のかなりの部分は、命令が合法的権威からきていると思っているかぎり、行為の内容には関係なく、良心に制約されず、言われた通りのことをする」と指摘する。


服従の恐ろしさについては「責任感の消滅は、権威への服従のもっとも重大な結果である」「破壊的命令への服従は、ある程度、権威と従者との近接関係に依存している」「決断は、相手の願望や、本人の好意あるいは敵意の衝動に左右されるのではなく、むしろ、本人が権威体系にどれほどしばりつけられているかにもとづいている」「自由選択の余地があるかどうかで、個人が自分自身をそのような場面におかれていると思うかどうかが決定されるが、責任を決定的に免除してくれる人がいると、個人がそう思う傾向はきわめて強く、この移行は気軽に逆転し得ない」「人間は行為を遂行するが、その行為の意味については権威に定義してもらう」と、鋭く分析する。


そして、重要な問題として「いったん放棄した自分自身の自主性を取り戻すこと」として、きっかけとして「被害者が目の前に具体的にはっきりと見えるということが、権威の力を強く妨害し、不服従を生み出した」「高い水準からの信号がひとたび混線すると、ヒエラルキー体系の一貫性がこわれ、行動を規制するその効力も失われる」を上げ「首尾一貫した明瞭な命令が、権威体系が機能するための最低条件」とする。個人の行動の特性について「個人は内在化されたある種の行動基準をもっていること、権威が自分に加えるかもしれない制裁に非常に敏感なこと、集団が自分に加えるかもしれない制裁に敏感なこと」を挙げ、「権威に対抗しようとするとき、個人は集団の他の者たちから自分の立場を支持してもらおうと最善の努力をする」と述べる。


人間の決意などというものは、集団(特に権威)のエネルギーによって実に簡単に曲げられてしまう。故に、そのエネルギーの強さを知っておくこと、そのうえで自らの頭で考え続けること。これらが、本当に自由であるために大切、ということだろう。今だったら、人権問題で許されないような実験だが、その警句を活かし続けることは非常に大事である。

【読了】野間宏「真空地帯」

今年9冊目読了。実際に日本陸軍従軍経験、そして投獄経験がある筆者が、戦争ではなく後方部隊の人間模様を描くことでその実態を暴く小説。


軍事ものでありつつも、一切戦闘描写が登場しない。ひたすら、後方部隊での人間模様に終始する。しかし、それゆえに、軍隊の独特の陰鬱さ、その人間模様の泥臭さ、そこに渦巻く人間の欲望などがありありと描き出されており、「英雄思想」なんてものはどこにも存在しない。そして、犯罪を問われ監獄に放り込まれ、そこから出てきた主人公と、その実像に迫ろうとする上級兵のやり取りから、実に複雑で面妖怪奇な事実が浮かび上がってくる謎解き小説の側面も備える。


とにかく、読んでいて気分が暗くなる。人間は、そして日本軍はなぜこのようになってしまうのだろう。筆者は、登場人物の口を借りて、このように述べている。


「たしかに兵営には空気がないのだ、それは強力な力によってとりさられている、いやそれは真空管というよりも、むしろ真空管をこさえあげるところだ。真空地帯だ。ひとはそのなかで、ある一定の自然と社会とをうばいとられて、ついには兵隊になる」


…けだし明察としか言いようがない。そして、こんなことをやっているのであれば、未来永劫勝てるわけないよな、という気がする。他方、他国の軍隊も似たり寄ったりなんじゃねぇの?という気も起こる。


戦争放棄により、このような状況は今のところ発生していない(※自衛隊の実像はわからないが。もちろん、世の中の眼の冷たさはいかがなものかとは思う)。しかし、組織というものの抱える宿痾は必ずあり、それが特にビビッドに出てきていると考えると、まったく対岸の火事とも思えない。


学びの多い一冊だ。一読をお勧めしたい。