世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】ポール・ブルーム「反共感論」

今年65冊目読了。イェール大学心理学教授の筆者が、社会はいかに判断を誤るかについて主張を展開する一冊。


著者の主張の軸である「私たちが個人として社会として直面する問題のほとんどは、過剰な共感が原因で生じる」「私たちの道徳的判断や行動は共感の強い力によって形作られるところが大きい。そのせいで社会的状況が悪化することがままある。私たちはもっと適切に行動する能力を持っている」は、直感的には「??」という感覚を覚える。もちろん、「心より頭を使うよう努力すべき」という主張には賛同するが…と、違和感と共に読み進めた。


しかし、著者が共感の特性として述べる「変更しており、郷党性や人種差別をもたらす。また近視眼的で、短期的には状況を改善したとしても、将来悲劇的な結果を招く場合がある。さらに言えば数的感覚を欠き、多数より一人を優先する」「スポットライトのように向けられた一点しか照らさないがゆえ、先入観が反映されやすい」という点や「共感を覚えるか否かは、誰を心配するべきか、誰が重要かなどに関する事前の判断に依存し、そもそもそれらの判断自体が道徳的」「他者に対して覚える共感は、その人を残酷に扱った人々に対する怒りに火を注ぐことがある」という指摘に触れると「共感それ自体が、自動的に親切心を導くのではない。共感は、既存の親切心に結びつかなければならない」と思うようになってくる。


人間の特性についても「新奇で特異な出来事に注意を惹かれ、情動反応を引き起こす」「ふるまい、言葉、外観において自分に類似する人々をもっとも気遣う」「想像力だけでは十分ではない。ほんものの経験に代わるものなどない」「他者を怒らせた自分の行為は、罪のないものであるか、強制されたものであり、自分を怒らせた他者の行為は、理不尽なものであるか、邪悪なもの」と述べる。耳が痛い…


では、どうすべきか。著者は「一歩下がって、共感の罠にはまらない。結果に目を向けながら懸命に援助すべき」「他者の生を重くしてはならない。そうではなく、自分をより軽くし、自らを縮小することであらゆる人々を同レベルに置くべきだ。言い換えると、自分や身内を赤の他人のレベルに置く」「情動的に距離を保ちつつ、相手を気遣ったり理解したりする」「世界をよりよい場所にするためには、人々はもっと賢くなり、強い自制心を持つようにならなければならない」と主張する。


いかに人間の直感があてにならないか、は数々の心理学系の本を読んで痛感している。が、「共感」というなんとなく「それって正しいよね」という事に対してもこういう形で鋭く斬り込まれると、意外感がありつつも納得させられる。そして、いかに理性という「ツール」を使い、自己の感覚に自覚的になるか。そのうえで、直観(≠直感)を使う、という非常に複雑かつ難解なことが求められる世の中になってきたことを感じざるを得ない。


やや議論や表現が迂遠で、少々読むのに疲れるが、これは良書だ。

【読了】梅棹忠夫「日本文明77の謎」

今年64冊目読了。京都大学教授を経て国立民族学博物館館長を務めた著者が、気鋭の執筆者たちに日本文明を理解するためのキーワードを与えて書かせた原稿を編集した一冊。


1988年という、バブルど真ん中の浮かれ気分が背景にあるため、日本の今後については「それってどうよ?!」と思うくらい楽観的なことも書かれているが、歴史的経緯が書いてあるあたりは今なお生き生きと感じることができる。


日本の国土的特徴については「海上の適当な距離は、大陸からの侵略、大量移民などの圧力をよわめ、学問、技術などの情報をとりいれるためにはちょうどよかった」「夏と冬のきびしさははげしいものの、一般的に温暖な気候で、西ヨーロッパや北アメリカ海岸部などと共通しており産業の発達、文化の向上といった、近代社会の実現のための自然的必要条件のひとつ」と述べる。


言語的特徴については「島国であるという制約から、多民族と直接の接触をほとんどもたず、あたらしい思想や技術の導入は、主として書籍をとおしておこなった。情報の受け入れには読解が必要だったが、情報をだすための作文をすることは必要でなかった。その態度は現代の英語にまでつづいており、『話せない』が『読む力』は非常に高い日本人がおおい」「日本の文書は、いっかんして民間の手でつたえられてきた」「書物がひろく庶民のあいだに浸透するについて、貸本屋のはたした役割はちいさくなかった。貸本屋は、いわば今日の図書館の役割をかねていた」とする。


思想、気風については「鎖国政策の結果、日本人の海外への関心がうしなわれ、俗に島国根性といわれるような国民性が形成された」「全国、どこの寺子屋で、どの先生からまなぼうと、ほぼ同様の教育をうけられるというシステムが成立していた。それがまた、個性的で創造的な教育を阻害することになり、その結果、せっかくの国民的能力を有効に発揮できていない」「今日の日本企業には、会社の一大事に社員一同心をあわせて奔走するといった気風があふれている。それは、藩という組織体からうけついだ伝統である」「庶民がこのんで旅にでるという現象は、江戸時代以来、今日もかわるところがない。しかも集団で旅行する傾向が顕著なのも、江戸時代の庶民の旅と同様である。いまだに観光地は、神社やお寺とその周辺である」「うつくしい日本の風土が、このような(地震が多発するような)不安定な大地のうえにあることは、日本人の精神に反映しているのかもしれない」と分析する。


今後の課題については「多元的都市機能の東京への過度な集中は、他の都市の活力をうばい、それは日本という国全体の多様な発展にも、けっしてプラスにはならない」「憲法の理念はタテマエである。尊重すべきタテマエである。しかし、その理念の実体化のためにも、必要なのは憲法の運用における現実主義的態度」「情報をつくりだす側面では、これまで日本は情報のうけ手の側にたつことがおおく、おくり手としての役割はかぎられたものであった。しかし今後アジアの先進国のひとつとして、おくり手としての役割もはたしてゆかねばならない」など、30年以上経ってもまるで解決されず、むしろ悪化しているように感じる部分を鋭く指摘している。


そして。コロナ禍の真っただ中にいながら読むと「心のゆたかさへの回帰が、世界の文明に大きく寄与するだろう」の言葉が重く響く。


すべて肯んじえられるわけではないが、ひとつの見方を教えてくれる、という観点で面白い一冊だ。これ、30年以上前に書かれてから、日本人はそこを深掘りできているのか?という疑念すら生まれてくる…

【読了】レイ・カーツワイル「シンギュラリティは近い」

今年63冊目読了。人工知能の世界的権威である筆者が、人類が生命を超越するときについて書き表した一冊。


正直、とても複雑・難解で、自分が文系の限界を到底超えられないことをまざまざと突きつけられた…まるで理解したとは言えない読後感。これは、単純に読み手である自分の力不足だ…


ということで、筋書きも何も読み込めず。基本概念の部分で気になったところは「シンギュラリティとは、テクノロジーが急速に変化し、それにより甚大な影響がもたらされ、人間の生活が後戻りできないほどに変容してしまうような、来るべき未来」「人間が生み出したテクノロジーの変化の速度は加速していて、その威力は、指数関数的な速度で拡大している」「未来を線型的に見るせいで、短期的に達成できることは必要以上に高く見積もるのに、長期的に達成されることは必要以上に低く見積もってしまう」「ほんの短い期間だけを捉えて経験するなら、指数関数的な傾向も線型に見える」「指数関数的な傾向は、いずれ限界に達するのは避けられない」のあたり。


進化についても、実に独特な読み解き方をする。「進化の6つのエポックは、順に物理と科学、生命、脳、テクノロジー、テクノロジーと人間の知能の融合、宇宙が覚醒する」「テクノロジーの進化においては、人間の発明の才と、変わりやすい市場条件とが結びついて、イノベーションが前進を続けている」のあたりは、考えさせられる。


知能についての言及も鋭い。「非生物的な知能の大きな利点は、機械どうしは知識を簡単に共有できる」「チェスの問題を解くのに、人間はパターンを認識することで解いていくのに対して、機械は、指しうる手とそれに対する手を網羅する巨大な論理的ツリーを構築する」と述べる。


しかし、筆者も述べるとおり「わたしの精神のファイルをベースとする人物、すなわちいくつものコンピューティング基板に転々と移り住み、どの思考媒体よりも長生きするその人は、本当にわたしなのだろうか」「意識の実在を決定的に裏付ける客観的な検証法は、ひとつとして存在しない」ということにもなる。科学と哲学・倫理というような世界の対立に入り込んでしまい、「シンギュラリティの根底にある転換は、生物進化の歩みを一歩進めるだけのものではない。われわれは生物進化の一切をひっくり返そうとしているのだ」という主張も納得である。


本当に、科学技術の発達が空恐ろしくなってくる。その中で、人間はどこまで人間か。筆者が、脳が従来のコンピュータと異なる点として挙げている「脳の回路はとても遅い。それでも脳は超並列処理ができる。脳はアナログとデジタルの現象を併用する。脳は自身で配線し直す。脳の細部のほとんどはランダム。脳は創発的な特性を用いる。脳は不完全である。われわれは矛盾している。脳は進化を利用する。パターンが大切だ。脳は深く絡み合っている。脳には、各領域をまとめるアーキテクチャがある」のあたりが、カギになるような気がする。


筆者の未来像はあまりにも楽観的過ぎると感じるが、今後どうなるか、ということについて大いに参考になる一冊。理系の人は必読、文系でも頑張って拾い読みする価値はある。

【読了】藤田一照、魚川祐司「感じて、ゆるす仏教」

今年62冊目読了。オンライン禅コミュニティ「大空山磨塼寺」を開創した禅僧と、仏教の教理と実践を学ぶ著述・翻訳家の2人が、これからの仏教を提言する対話を繰り広げる一冊。


かなり興味深いやり取りが繰り広げられるが、これ、本当に難しい本だ。というのも、読み手の「思惟、実践」のレベルによって読み解きレベルが決まってくる、すなわち「本の良し悪しは、自分の良し悪しが決める」という、かなり本質的な一冊。


人間の特性として「私がプラスに評価するものは自分のものにして、マイナスに評価するものは眼の前から除外するというのが、基本的な行動の構造、パターン」「何かを追いかけると必ず緊張が生まれる」としたうえで「考えるモードと感じるモードは両立できない」「『命令して、コントロールする』モードはもう嫌というほどトレーニングしてきているから、もう一つの別な『感じて、ゆるす』モードも稽古しましょうよ」と提言する。


そして、「ガンバリズムのよくないところは、やりきれればやりきれるほど、ナルシシズムが強くなる」「ナルシスティックな世界に閉じこもらないためには、思い通りにならない連れ合いや、子供や、猫といった他者に身近にいてもらう必要がある」「感情に圧倒され、飲み込まれて動揺するのが凡夫であるとすると、感情の動揺をきちんとホールドして、包摂していられる人というのがブッダ」「悟ってから初めてきちんと瞑想ができるんじゃないか」「からだはコントロール、支配の対象ではなく、むしろ、学びのリソース、まだこちらが知らないことを教えてくれる尊敬すべき先生で、感覚はその先生からのありがたいメッセージ」「座禅は人を熟成させる触媒であり、人生の醸造反応過程をスピードアップする」と、生きるという壮大な修行についての考え方を少し切り換えるような読み解きを行ってくれる。


生きること、修行することについては「仏道修行は人間性の乗り越えであり、ある意味では、人間性の未熟な状態から出発してその完成を目指す営みでもある」「簡単にケリをつけてしまうと、非常に大事な『求めたら得られないが、求めなかったら何も変わらない。さあ、お前はどうする?』という基本的公案を回避してしまうことになる」「クエスチョンマークのない世界に安住すること、そこに居着いてしまうことが『悟り』なのではなく、そのクエスチョンマークとともに生きていく」と述べていて、感覚的にぼんやりは見えるものの、到底ガッチリつかんだという手ごたえはない。おそらく、これが自身の修行のレベルと読み込みの連動、ということなんだろうなと感じる…


そのほか、面白いなぁと感じたのは「俺が死ぬときは誰にも代わってもらえない」「日本語というのは主観的な言語。対話する相手との上下というか、位置関係が現れてしまう」のあたり。


興味のない人には意味不明な文言の羅列に感じられるだろう(←そんな人、本書を読まないか…)。そして、自身の修練によってその深淵が見えてくる。不思議な魅力のある一冊だ。

【読了】松浦弥太郎「軽くなる生き方」

今年61冊目読了。暮らしの手帖編集長の筆者が、その数奇な人生を振り返りつつ、身軽になって人生の旅をもっと楽しむことを提言する一冊。


読書会で紹介されたので、興味が湧いて読んでみた。共感できるところ、あまりピンと来ないところに二分されるのは感覚論としても、タイトルからするとかなり重い内容だと感じる。


モノの所有欲については、実によく理解できる。「いるか・いらないか、微妙なものは、断固として潔く手放す。本当に大切なものだけを、厳選して持つ。そしてかわいがる」「たとえ大切なモノであっても、必ずしももっている必要はない。頭の中や胸の中にしまっておけば、いつだって取り出せる」あたりは、本当にそう思う。


自らが生きる心構えとして「持ち味を自分一人で探そうとしない。同時に、目の前の相手の持ち味を見つけ出し、生かしてあげようと、一生懸命努力する」「一人で考える時間、もの思いにふける時間が、心身の健康をつくっていく」「選ばれたい、生かされたいと願うなら、観察する、察する力を持つ、コミュニケーションする力を持つ」「自分の秩序を守り、自分で自分を管理できれば、生き方に納得がいくし、ストレスも消えていく」「ちょっと待てよ、もしかして自分に問題があるんじゃないのか?こう考えたときにだけトラブルは解決するし、前進できる」はいずれも共感できる。特に、最後の提言は、まさにU理論で体感しているところ。


人間観、人生観もわかりやすい。「お互いがもつ価値観、根底にある思いを共有するには、一対一でなければ不可能だ」「自由を探していても自由にはなれない」「無駄な時期に詰め込んだガラクタこそ、いつか宝物に変換されるときが来る」「考えることは難しい。でも、どんなことでも、ちゃんと考えながらやらなければ、自分の力、自分の資産にはならない」は、本当に納得。


仕事のテクニック的な部分と生き様については、正直、疑問符な部分が多いが、考えさせてくれる、という点は間違いない。ただ、読むときに重いし、これをやるのもまた重い(笑)。軽い生き方はなかなか難しいようで…
 

【読了】パラグ・カンナ「接続性の地政学(上下)」

今年59・60冊目読了。シンガポール国立大学公共政策大学院の上級研究員にして、アメリカ地理学会顧問の著者が、地政学からグローバリズムの先にある世界を見通す本。


「世界をまとめる新たな枠組みとして、接続性が分割に変わった。我々の時代において最も有効な政治力は権限委譲」と指摘。つながるインフラの重要性について「メガインフラは自然の地理と政治的地理がそれぞれ抱えている問題点を克服する。政治的な枠組みで世界を整理する時代から、機能的な枠組みで世界を整理する時代へと推移している」「インフラは休むことなく運用されなければ誰にも価値をもたらさない」「インフラ投資とは一回限りのものではなく、注意深く育てていくべき一連の接続幹線」と述べる。


人の動きについては「サプライチェーンが人に届かない地域では、人の方がサプライチェーンの近くに移住する」「都市化が進み、自由に移動ができる、テクノロジーにあふれた若い世界は、不確実性、引き寄せる力、相関性、それに効力の概念などを用いるほうがうまく説明できる」と述べる。


都市については「生産性を上げるよう、集まった人をさまざまな労働に分配するためのインフラ」「人類の文明化を強力に推進し、人々をまとめ上げて、さまざまな可能性を平和的に追求させる力を持つ」と読み解く。


国家についても、かなり大胆な提言をしている。「従来、戦略的重要性は領土の広さと軍事力で測られてきたが、今日の力の大きさは接続性の範囲においてどれだけの影響をおよぼせるかに左右される」「サプライチェーンの世界が誕生するために、国境線はひとつも消滅する必要はない。むしろ、まさにこの政治的な境界線の増加により、機能的なつながりはこれまで以上に必要とされる」「国をまとめるために必要なのは政治的な権限移譲、インフラへの投資、そして互恵的な資源開発」「権限移譲の対象として選ばれるための基準は、国家の主権かどうかはともかく権力をもつ集合体であること、そして法的に独立しているかどうかはともかくとして自己利益を追求するための自治を行っていること」と述べる。


戦争に関しても、独特な観点を示す。「戦争の主役は軍隊と同盟であるのに対し、綱引きの主役は都市と企業だ」「抑止力は武力衝突が起きる危険性を大幅に上昇させ、経済的誘因は危機の増大よりも現状維持や統合と関連している」「戦争は一時期の出来事だ。一方、ネットワークの構築は一連の過程である」などは、なかなか面白いと感じる。


今後のパワーゲームについても「世界規模での綱引きでの勝者と敗者の差は、貧富によるものではなく、新しいものを受け入れるかどうか」「水平+垂直=右肩上がり。競技の参加者たちは製造と流通の水平結節点かつ価値創造の垂直中心点になりたいと思っている。そのふたつは、経済複雑性のはしごを右肩上がりに上るための原動力になる」「硬直したイデオロギーの原理よりも費用便益計算に基づいた決断のほうが和解、譲歩、共存が生まれやすく、そして互いを受け入れやすくなる。その結果、道徳主義者が追求していた目標をより早く、しかもより発展したかたちで達成できる」と考えている。「都市とサプライチェーンの選択を正しく行ったことが、中国が今日、世界最大の経済大国となった最大の理由」「出生率が人口置換水準を下回っているヨーロッパや日本、その他の高齢化社会に残された選択肢は、移民の受け入れか、消滅だ」という指摘も、なかなか。


今後の中心となりうる場所として「海上輸送の分野では、ひとつだけフロンティアが残されている。それは効率性の点で現在最も輸送量の多い海域に匹敵する場所、すなわち北極海」「世界の都市のうち、物資・サービス・金融・人間・データ全てに関して主要ハブと呼べるのは、ニューヨーク、ロンドン、香港、東京、シンガポール、ドバイ」「ラテンアメリカメキシコシティサンパウロ、アフリカのラゴスとカイロを除けば、世界で特に人口の多い都市はすべてアジアにある」は、かなり驚きの指摘だ。こんな捉え方があるのか…


将来の見通しも、なかなか鋭い。「多くの人間の雇用を確保する必要がある政府は、ハードとソフト、両方のインフラに注目すべきだ。この場合のソフトとは、小売業、製造業、観光業、教育、ヘルスケアなど、近い将来に自動化される恐れのない、代替不可能な分野を意味する」「排他的思考は最も確実な自殺方法だ」「反のつく運動はどれも敗北を義務付けられている」「接続性が確立されると、同時にあらゆる煩雑さと不確実さが増大することは間違いない。しかし、ひとつ確かなのは、明日も今日と同じように過ぎると確信できるような場所は、普通我々がいたいとはあまり思わないような場所だ」「危機や不確実性という問題に対する解決策を提供するのは国境ではなく、より多くのつながりだ。しかし、ボーダーレスな世界から利益を享受したければ、まずそれを構築する必要がある」など、コロナ前であれば、なるほど納得ができる主張である。


…しかし。よくよく考えてみると、新型コロナウィルス(COVID-19)なんていうのは、所詮数年スパンの問題であり、長期的レンジで見ると上記傾向が揺らぐようなものではないのかもしれない。そうなると、コロナごときで大騒ぎしている我々は、まさに「接続性のマジック」に陥っており、いかにそれを取り戻すか、に「中長期的視野に立って」考えるべき、なのかもしれない。


普通に読んでも抜群に面白いが、コロナ禍の今だからこそ、読み応えが増す。そんな本だ。
 

【読了】斗鬼正一「世界あたりまえ会議」

今年58冊目読了。文化人類学者の筆者が、私のふつうは誰かのありえないである、ということを、国ごとの常識を例示してします一冊。


「歌がうまくないと結婚できない」「死んだ人を結婚させる」「まだ死んでいない人の葬儀をする」「幼稚園児も飲酒喫煙可」というような、ホントかよ?的なものから「戦争のかわりに歌合戦」「汁物は手で食べる」「パジャマで街を歩くのがおしゃれ」というクスリと笑えるようなものまで、様々な「世界のあたりまえ」が紹介されている。


もともと、小学生の子供が「読みたい」と言って借りてきた本なので、さらりと読めるし、別に教訓めいたものがあるわけでもない。


…しかし。「自分の常識って、本当に世の中においても常識なのか?」ということを問うきっかけには、もってこいの一冊だ。


「常識とは、その人が18歳まで営んできた生活習慣の積み上げでしかない」という見解もあるくらい、常識というのは極めて根拠が薄く、それなのに個人の行動を縛っている。軽くて面白おかしく読めるが、実はその裏にあるメッセージは深い。そう考えると、一度は読んでおいてもいいかも。単純に、話のネタにもなるし。