世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】デイヴィッド・ボーム「ダイアローグ」

今年28冊目読了。量子力学の世界的権威が、対立から共生へ・議論から対話へ、という提言を行う一冊。


〈お薦め対象〉
人間の関係性と生き方を見直したい全ての人
〈お薦め度(5段階評価)〉
★★★★★
〈実用度(5段階評価)〉
★★★★★


自分の問いは3つ。
『人間の行動特性は何か?』には「自分が重要だと思うことについては、どんな困難も受け入れる心構えができている。自己防衛的な態度をとり続ける限り、知性には限界が生じる。思考と感情は、いずれも記憶から生じる」。
『人間の陥りやすい罠は?』には「思考は絶えず問題を生み出し、それを解決しようとしてさらに悪化させてしまう。思考が事実と混同される点を見逃す。人が他人に真実を語るとき、実際に行っていることは服従を求めること」。
『人は何に留意すべきか?』には「想定や反応を目の前に掲げて保留するとは、存分に関心を向けること。広まる思考を留める唯一の方法は、それを認識し、受け入れ、正体を探ること。心理的不具合を、問題と表現せず、逆説に直面していると捉える」。


対話について書きつつ、その奥底で集団を通して人間が自分らしく生きることを提唱している。「対話は、意識それ自体の理解を目的とする」「対話の狙いは、全体的な思考プロセスに入り込んで、集団としての思考プロセスを変えること」「対話が直接関係しているのは意味であり、真実ではない」「対話の何よりの障害となるものは、想定や意見に固執し、それを守ろうとすること」などは、非常に示唆に富んでいる。


「人は、何かをしろと義務付けられていない空白のスペースを持つべき」「変革は、われわれの熱意とエネルギー次第で、カギは全体的な事柄に注意を払うこと」のあたりを参考に、実践で生かしていきたい。現代を生きるうえで、非常に大事な意味を持つ一冊だ。お薦めしたい。

【読了】平野啓一郎「空白を満たしなさい」

今年27冊目読了。多才な著者が、死生感をガツンと浮かび上がらせる小説。


幸福については「家族を養うことが幸せだって!違います。そう思い込めること自体が幸せなんです」「自分の価値観と自分自身が合致する。裏を返せば、そうじゃないなら、人間は永遠に不幸だ」「結局人間は、自分よりも不幸な誰かがどうしても必要。さもなくば、不安で気が狂いそうになる」という言葉が深く刺さる。


そして、そこからの流れで「今の時代、人に誇れる本物の幸福は、お金でも運でもなく、疲労で手に入れたものじゃないか。僕は幸福でした。でも、僕はその分、疲れてました」から「疲労が注がれるコップは一個なんです。会社で、これくらいなら耐えられると思っていても、実はコップには、家での疲労が、まだ半分くらい残っているかもしれない。そうすると、溢れてしまいます」と繋ぎ、現代社会の構造に深く絡みつく疲労を抉る。


また、人間の苦悩についても、「誰も、人間の苦悩する権利を否定することは出来ません」「苦悩を否定された人間は、悲劇的な方法で、それを証明するように追い詰められます。多くの場合、我々は、決して否定できない深刻な事態が生じてから、初めて彼の苦悩を知るのです」と、本質を突く。


死については「死者は無抵抗に、生前の印象的な出来事に象徴されます。それはなるほど、何をしたかということより、したことのうちで、何が目立ったかの問題です」「死者が残すのは、記憶、記録、遺品、遺伝子、影響」「遺伝子と影響は、自分から遠ざかっていく。逆に、記憶と記録と遺品は、中心を求めて自分を目指す」あたりが心に残る。


ネタバレは嫌いなので、詳細には立ち入らないが、次々と発生する出来事、そして色彩豊かに描かれる登場人物、スピーディーな展開。思わずガンガン読み進んでしまった。そして、色々考えさせる。これは、本当に面白い小説だ。

【読了】本郷美則「新聞があぶない」

今年26冊目読了。朝日新聞研修所長、朝日ネット専務取締役を経てフリーランスジャーナリストとなった筆者が、新聞の陥っている苦境とそのバックボーン、そこからいかに回復するかを書き記した一冊。


内幕をよく知る人物だからこそ書ける、非常に高い問題意識の一冊だ。2000年の著書であるが、状況はむしろとことん悪化しているといってよい状態。インターネットと新聞の融合については黎明期に書かれただけあって、いちいちネットの説明が迂遠だったりするが、それは時代背景ゆえだろう。


なぜ新聞が国民の支持を失ってしまったかについては「日本の新聞は、情報流通を半ば独占的に支配し続けているうちに、日本的な官僚政治の風土ともからんで、さまざまな面で権力と狎れ合い、もたれあいと癒着の構造を固めてしまった」「新聞が『知っていて書けない』状況は、『情報源と記者の奇怪な一体感』と、よそ者をよせつけない特権的な『記者クラブの閉鎖性』の産物」「1つの新聞の中に、その新聞社の編集権のもとに制作されたページと、広告部門が広告営業の目的で制作したページが同居する姿は、読者に2つのスタンダードを押し付けることを意味する」と鋭く批判する。


ジャーナリズムのあるべき姿として「最初に、だが正しい方法で情報を手に入れることを誇りに生きている。ニュースの奥底に突き刺さり、懸命にニュースの裏側に到達しようとする。ジャーナリズムは、骨の折れる底の深い仕事であり、公平無私で、公明正大でなければならない」。そのためにも「新聞は外部の批判を謙虚に受け止め、自らを正すに厳しく、公明正大であらねばならない。社会的な使命に、頑固に忠実であってほしい」と述べる。


他方、「もともと日本の社会には、情報は安く手に入れるものという固定的な認識がある。そのような固定観念を長年にわたって人々に植え付けてきたのは、部数第一主義で安値の乱売を競ってきた新聞にも責任がある」と筆者は述べるが、ここまでネットで「情報はタダ」という認識が強くなると、新聞というメディアがどこまで存在意義を持つのか?と問われても、非常に難しいものがある。2000年当時においては「公権力をはじめ社会的な組織と、そこで行われていることの透明度は、民主社会の成熟度を測る有力な物差しの一つである。そして、社会の透明度を高めるのは、新聞・雑誌をはじめとするジャーナリズムのメディアの責務だ」という主張はそうであったろう。他方、2020年においては、誰もがメディアになれる状況であり、もはや「発言の自由度」のほうが大事であるように感じる。もはや、時代は戻れない。


一つ新聞の役割があるとすれば、メディアリテラシーを高める知的教育機能だ。そもそも、「これだけネットニュースがあふれると、どれを信じてよいのやら」となってしまう。玉石混淆の情報の渦から、なにを濾過するか。そこは、新聞が得意としてきた「編集権」の使い方であろう。従来の延長線上とは違ったダイナミックな発想が問われているように感じる。


とはいえ、新聞という実に閉鎖的な世界と、その構造的問題を明示した点で、この本は秀逸だ。さらに言えば、20年経っても、日本社会も新聞も未成熟なまま、というところが大問題であるのだが…

【読了】クリストファー・ブラウニング「普通のひとびと」

今年25冊目読了。パシフィック・ルター大学やノース・カロライナ大学チャペルヒル校で教鞭をとるアメリカの歴史学者が、ホロコーストに関与し、わずか500人に満たない第101警察予備大隊が83,000人もの犠牲者を出した事実と背景を描き出した一冊。


読んでいて、恐怖と戦慄を覚える。ゴリゴリのナチス党員やナチ親衛隊ではなく、もともとはハンブルクの警察官であったメンバーで構成されたこの組織が、恐るべき殺戮を行うようになっていき、まさに「アウシュヴィッツへの道は憎悪によって建設されたが、それを舗装したのは無関心であった」を体現するかのような世界を生み出してしまった。その背景を探るのは、まさに「普通の人びと」が嵌まり込む恐れのある罠を浮き彫りにしてみせる。


当初は、「そのほとんどは、大勢のユダヤ人を射殺したからがぶ飲みをした。というのは、こうした生活は素面ではまったく耐えられないもの」と認識していた警官たちが、なんと「これから殺されるという精神的苦痛を与えない迅速な死が、人間的思いやりの模範だと考える」に至るというおぞましいことになっていく。それはなぜなのか。


最初は「警官たちが自分の立場について持つ関心は、同僚からどう見られるかであり、それは人間として犠牲者と繋がっているのだという感情よりも強いもの」であることから始まる。そして「恥の文化は順応を最優先の解くとする」ことによって「仲間から孤立したり疎外されたりする社会的死を選ぶよりも、恐るべき犯罪へ駆り立てられた」。そして怖ろしいことに「他の多くのことと同様、殺人も人が慣れることのできるもの」であったため、「問題となる行動が他者に危害を加えることを伴う場合、加害者は犠牲者を罰するに値するものだと理解しがち」になり、「感情が麻痺し凶暴化してくるにつれて、彼らは人間性を奪われた犠牲者を憐れむよりも、彼らに負わされた不快な任務ゆえに自分自身を憐れむようになった」。その変化が克明に記されており、めまいがするほどだ。


筆者が見抜いているとおり「戦争と悪しき人種的ステレオタイプ化はとは、冷淡さを相互に補強しあう」ものであり、また「すべての現代社会において、生活の複雑さ、それによってもたらされる専門化と官僚制化、これらのものによって、公的政策を遂行する際の個人的責任感覚は希薄になってゆく」。
戦争と人種差別主義がどこにでも跋扈しており、人々を動員して自らを正当化する政府の権力が増大している世界では、「大量殺戮を犯そうとする現代の政府は、わずかの努力で普通の人びとをその自発的執行者に仕向けることができるである。私はそれを危惧している」という筆者の懸念が現実になりつつある。ホロコーストは、過去の歴史上の過誤ではなく、今ここで人間が直面している危機への警句と捉えることが大事だ。


「説明は弁明ではないし、理解は許しではない。加害者を人間味のある言葉で理解しようとしないのであるならば、ホロコースト加害者の歴史の研究が、平面的な劇画化を克服してゆくことも、不可能になってしまうだろう」という指摘は、正義と悪に二分して「正義が悪を叩く」という単純構造に陥りがちなネット社会に対しても説得力がある。自分が人間なら、相手も人間。その「想像力」を失ったところにこそホロコーストが発生したわけで、21世紀においても形を変えて発生しうる。その認識こそが、その発生を防ぐ唯一の手だてだと感じる。

【読了】孫崎享「戦後史の正体」

今年24冊目読了。駐ウズベキスタン大使、駐イラン大使をへて、防衛大学校教授を務めた筆者が、これまでほとんど語られることになかった「米国からの圧力」を軸に日本の戦後史を読み解いた一冊。


これは、ものすごく読みごたえがある。日本は親米国家、などではない。「戦後の日本外交を動かしてきた最大の原動力は、米国から加えられる圧力と、それに対する自主路線と追随路線のせめぎ合い、相克だった」と喝破する。


欧米の基本的な行動パターンとして「植民地から撤退するときは、多くの場合、あとに紛争の火種をのこしていく。かつての植民地が団結して反対勢力になると困るから」「欧米が植民地支配をするときは、よくその国の少数派と手を組む。主流派は、別に外国と手を組まなくても支配者になれる。でも少数派は違う。外国と手を組むことではじめて、国の中心に進出することができる」「戦後の歴史を見ると、一時期、米国に寵愛される人物がでる。しかし情勢が変化すると、米国にとって利用価値がなくなる。そのとき、かつて寵愛された人物は『米国にとって自分は大切なはずだ』と考えて、新たな流れに気づかず着られるケースがきわめて多い」「米国は歴史的に、国際的な約束より自国の決定が優位に立っていると考えてきた国。国際的な約束を守ることが自分の国に有利な時には、国際的な約束を守り、他国にも守るよう圧力をかける。しかし、自分の国が不利になると、国際的な約束を破って行動する」と、なるほど指摘されると納得せざるを得ないことをバンバン指摘する。


敗戦から、サンフランシスコ講和条約までについては「1945年9月2日の降伏は、米国の言うことは何でもしたがいます、というのが条件」「占領当時、米国は日本経済を徹底的に破壊する。現在の私たちが常識としているような寛大な占領だったわけでは、まったくない。その方針が変わるのは冷戦が始まり、日本をソ連との戦争に利用しようと考えるようになってから」としたうえで、「吉田首相の戦争中の対米追随路線は、しかたなかった面もある。問題は彼が1951年の講和条約以降も首相の座に居座りつづけたこと。その結果、占領中の対米追随路線が独立後もまったく変わらず継続され、むしろ美化されて、ついには戦後60年以上もつづくことになってしまった。ここが日本の最大の悲劇」と述べる。


また、冷戦後については「米国は今後も世界に大規模な軍事作戦を展開するつもりで、もし日本がこの枠外にいて、ただ経済に専念した国になると、日本の経済力が強くなりすぎる。その結果、日本をどう米国の軍事戦略に組み込み、お金を使わせるかが重要な課題」「9.11移行、紛争の平和的解決、国際法の順守、人民の同権および自決の原則を尊重する考えは、米国の世界戦略のなかにはない。とくに民主化、市場化をめざす国と、めざさない国とは同じにあつかえないとして、敵と味方を厳しく分ける」とズバリ切り込む。


そして、日本のふがいない対応の原因として「米国の情報部門が日本の検察を使ってしかける。これを利用して新聞が特定政治家を叩き、首相を失脚させる」「日本のメディアや学会は、不都合な事実には反論しない。あたかもそれがなんの意味も持たないように黙殺する」「ひとたび自主独立の精神を喪失すると、ふたたびとりもどすのがいかにむずかしいか」「日本の言論界は、たとえ正論でも、群れから離れて論陣を張れば干される。大きくまちがっても群れの中で論を述べていれば、つねに主流を歩める。そして群れのなかにいさえすれば、いくらまちがった発言をしても、あとで検証されることはない。」とする。哀しいかな、これもまた鋭く正鵠を射ているので、ぐうの音も出ない。


筆者の考えである「日本には日本独自の価値がある。それは米国とかならずしもいっしょではない。力の強い米国に対して、どこまで自分の価値をつらぬけるか、それが外交だ」「米国からの圧力はけっして一枚岩ではないし、合理的で長期的な展望にもとづくものでもない。だから米国から不当な圧力をかけられたときは、ひとまずNOといって、風向きが変わるのを待つ策がある」「国際情勢が変われば、米国の対日政策も劇的に変わる。だから、それが変わったとき、その変化をどうやって的確にとらえ、自国の利益にとりこむかをつねに考えておく必要がある」は、今まさに日本が失っている価値観、姿勢であり、非常に重く響いている。


歴史は書きたい人間が書きたいように書くものであり、それに踊らされずに、大きな流れを見抜く必要がある。それを、この本は痛切に教えてくれる。21世紀を生きる日本人であれば、必読の書と言えよう。超おすすめしたい。

【読了】柚木麻子「伊藤くんA to E」

今年23冊目読了。イケメン・ボンボン・だけどクズ男という「伊藤くん」をめぐる女性たちの複数のストーリーが交錯し、それぞれの人生を浮かび上がらせる小説。


佐藤優「僕ならこう読む」で紹介されていたから読んだだけで、筆者もこの手のジャンルも全く興味がなかったのだが、実に面白かった。巧妙に張られた伏線がさまざまな形で回収・収斂していく様も、とても楽しく読めた。小説を「思わず二度読み」するのは久々の体験だった。


クズ男である伊藤くんの本性として「あの人って、自分のことしか考えられない人じゃん。子供じゃん。」「圧倒的な経験不足と想像力の欠如が、あなたを傲慢にしてるんですよ。つくづく、くっだらねえ男だな」という評価がまさにズバリ、なのだが、それに対する最後の伊藤くんの弁舌がふるっている。
「一体誰に対して勝とうとしてるんですか。僕から見ると、本当につまらないことにこだわっているな、と思いますよ。人からどう思われるとか、一番になりたいとか、評価されたいとか、居場所が欲しいとか」「大抵の人間が夢を叶えないまま死ぬのは、夢と引き換えにしてでも、自分を守りたいからですよ。楽しいより、充実感を得るより、金を稼ぐより、傷つけられないほうが本当は重要なんですよ」。結局、傷つきたくない人間が陥る罠。その根本にある強烈な恐れ。そこと向き合う強さを持とうとしないことが、まさに彼をクズ男としているのだが、それは受け入れようとしない。でも、誰もが持っている恐れを「伊藤くん」という人物を通して結晶化した、とみると、そこには奥深さを感じる。


また、生きていくうえで「価値あるものを見つけて、それを慈しみ、大切にするのは怖い事ではない。それを身をもって顧客に伝えなければならなかった」「思い切ったことをしないと、身銭を切らないと、リスクを背負わないと、何も変えられない」のあたりは、伊藤くんをめぐる女性たちの気づきであり、またそれは普遍的である点、面白い。


そして、伊藤くんをクズ男に腐らせる原因ともなった脚本家の洞察が、これまた人生の核心を突いている。「百の企画書を出したところで、企画書作りが上手くなるだけだ。自分の言葉で物語を執筆しない限り、シナリオの技術は決して向上しない」「知識なんて問題ではない。書く意志しか、その人を決して、先に進ませない。逆に、勉強やインプットは後からいくらでもできる。ごちゃごちゃ言わずにただ筆を執ること。一字でいいから書くこと。拙い言葉でもいいから」。まず、やれ。やってから考えろ。VUCA(ブーカ)時代「Volatility(変動性・不安定さ)、Uncertainty(不確実性・不確定さ)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性・不明確さ)」を生きる21世紀の人々に、この洞察は大きな支えになる。


小説としての面白さ、奥行きの深さ。ダメ男っぷり、それに振り回される女性陣のダメっぷりとその視点の交錯、というだけではない面白さを満喫できた。これは良書だ。

【読了】田坂広志「使える弁証法」

今年22冊目読了。多摩大学大学院教授、日本総合研究所フェローの筆者が、IT社会の未来をヘーゲルを理解することで見通すという一冊。


もともと田坂先生の本は好きなので、論旨はおおむね理解しているが、やはり改めてこのテーマで読むと、その慧眼に恐れ入る。「論理思考に向かうと、必ず、直観力、洞察力、大局観が働かなくなる。だから、森全体を見る。そして、森全体を見るための、最も優れた方法が、哲学的思索」「弁証法を学ぶと身につくのは、洞察力、予見力、対話力」という原則を述べる時点でしびれる。


社会の流れの読み方については「物事が発展するとき、それは、直線的に発展するのではない。螺旋的に発展する。螺旋的発展とは、単なる復活や復古ではない。懐かしいものが、さらに便利になって戻ってくる」「進化の本質は、多様化である」「キーワードが忘れられたとき、社会において、量から質への転化が静かに深く起こり始める」としたうえで、「螺旋的発展において、何が復活してくるのかを、読む。合理化と効率化の中で、何が消えていったのかを、見る。その段階で、それがなぜ消えていったのかを、考える。新しい技術や方法で、どうすれば復活できるかを、考える」と結論付ける。


物事の捉え方については「現実に世の中に存在したものには、必ず意味がある」「物事は、否定の否定により発展する」「量が増大し、一定の水準を超えると、質の変化が起こる」と述べる。


弁証法の考え方の真髄として「弁証法においては、対立し、争うかに見える2つのものが、ある意味で互いに相手を内包していき、結果として両社が統合されていく」としたうえで「矛盾とは、物事の発展の原動力である」「割り切らないことこそ、矛盾のマネジメントの要諦」とする。ここから導く「割り切りとは、魂の弱さである」「器の大きな人物は、心の中に、壮大な矛盾を把持し、その矛盾と対峙し、格闘し続けることのできる人物」という論説は、実に深い。


「螺旋的発展を目撃したいのならば、書を捨てよ、街に出よ。何が懐かしいのか、何が便利になったのか。そのことを考えるとき、きっと、世の中の変化の本質と未来が見える」とは、読書好きの端くれには耳の痛い話だが、確かに現場を見ることでしかわからないことは山のようにある。頑張ろう、という意欲を与えてくれる本。さらりと読めて、かつ猛烈に深い。超絶お薦めの一冊だ。