世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【大河ドラマ「西郷どん」を薄っぺらく感じることについて。】

豪華キャストで進行しており、欠かさず観ている2018年大河ドラマ西郷どん」。しかし、俳優の演技はうまくて楽しめるのだが、どうにもこうにも全体の流れとしては薄っぺらい。ドラマゆえ、時代考証に「演出」が入るのは仕方ない。そうではなく「人間という悲しくも一生懸命な生き物」への敬意と掘り下げがあまりにも弱いのだ。春夏連覇を果たした大阪桐蔭高校野球部ばりのプレーヤーが揃っているのに、西谷監督のような優秀な監督がいないせいで個性が死んでいる、結果として勝てない、というような…
これについて、考えてみた。
 
《ポイント》
●人の「行動」の振れ幅を説明しきれていない。
西郷隆盛は、描くにはかなり難しい。「敬天愛人」と言いつつ日本を二度(幕府討伐、西南戦争)戦火に巻き込み、堂々と正論で渡り合いつつも裏工作を平然とする。これだけの行動の振れ幅、どう説明する?と興味を持っていた。
しかしながら、このへんの振れ幅についてはかなりあっさりと「すれ違いから…」程度でかわしている。慶喜と西郷の間に秋風が吹くあたりなんぞ「何それ?」という安易さだった。
 
●人の信念のバックボーンに踏み込めていない。
人の信念は、数々の体験で形作られる。中でも、(周囲がどうこう、というより本人にとって)絶望的な状況はその信念に大きな影響を及ぼすことが多い。
…しかし。本作では、どうもそのあたりの踏み込みが弱い。西郷の二度の島流しには何話も使っていたが、そこでつかみ取った信念が後の話でどうも生きてこない(あるいは、終盤に「島流しの時に置いてあった伏線がきれいに回収される」というパズルの収まり方なのかもしれないが)。とはいっても、他の登場人物もそれぞれの信念(そして絶望的体験)を抱えており、それに対する言及がないので「なんでこいつ、こんな動きをするのか?」が見えない。
 
《問題の所在》
●監督の人間観が浅いと、プレーヤーはそれ以上の成果を出せない。
調べたところによると、脚本家・中園ミホは、今回の大河ドラマのテーマとして「逆境こそが、人を強くする」としている。この一点で「あぁなるほど、だから薄っぺらいんだな」と感じた。
逆境にいれば、誰でも強くなれるわけではないし、何より、言葉が綺麗すぎる。人間という不条理でややこしくて、それでも時に純粋な生き物の「成長」を表すのに「逆境」って…そんなに簡単な変数ではない。個人的には、このドラマは「絶望し尽くしても尚、人は仲間と希望を求める」が根底だと感じている。幕府、長州、土佐、そしてもちろん薩摩、あるいはイギリス、フランスまで。この観点から描けば、役者(プレイヤー)は粒ぞろいなだけに、本当に面白かったんだろうな…と感じる。
 
チームの成果は、プレーヤーの優秀さだけでは引き出せない(そこまで「大人なチーム」はそうそう存在しない)。監督、コーチという存在が「深い人間観に基づいた確固たる哲学」を持ち、それによってプレーヤーのパフォーマンスを最大化する、というサイクルを経ないと「まとまる」ことはもちろんのこと、「勝つ」ことはできないのだ。当然、仕事でもそうなわけで…
 
自戒の念を込めて。

【パワハラ問題と、苦労至上主義の限界。】

もう、競技名を列挙するのも疲れるくらいのスポーツ界にはびこるパワハラ問題。
程度の差はあれ、職場でも起こる可能性はある。

《ポイント》
●「自分の努力、ではなく苦労」と成功を結び付ける指導者。
成功者は、すべからく努力している(ただし、努力したから成功が保証されるわけではないが)。その努力は、自発的にやったのかもしれないが、過去の指導者の暴力的手法があまりにも強烈に記憶されているので、その苦労を努力と同一視し、「成功には苦労が必要」というすり替えが発生。自己の暴力的手法の再生産を支えている。

●努力の量と質の取り違え。
自らの体感を「善意として」伝えようとしているのかもしれないが、努力とそれに伴う苦労の「何が」成功を導いたかを抽出せず、ただ手順を追うのみ。
人間の時間が有限であり、かつ心身は疲弊する以上、「努力の質を上げる」のが合理的なのだが、「過去、自分はこれだけ苦労した」にとらわれ、苦労の量を上げる(≒継続的パワハラ)ことに陥る。しかし、本人は「選手のため」と、悪気はまるでない。

《問題の所在》
●自らの経験の「美談化」の罠。
成功者は、自分のような凡人には考えられない努力をしているはず。そこは、否定すべくもない。
しかし、その努力、もっと効率よくできたかもしれない。事実、科学技術の進歩により、一世代前の努力はどうあっても時代後れ。実際、仕事の現場では「カイゼン」として、日々取り組まれている。
では、何故、そこに至れないのか。仕事の場合、「前任者の仕事の仕方の否定」であり、自分のことは否定されない。他方、指導の場合「過去の自分の努力の仕方の否定」なので、自分の過去を傷つけるというリスクを負う。
人間、誰しも自分がかわいい。自分の過去を傷つけるなら、美談化して「あの苦労は間違いない!」と信じる方が楽。それにより、次世代が傷つくなんて、思いも寄らない。

徳川家康は「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。」と述べている。
他方、河合克敏帯をギュッとね!」(スポ根でない柔道漫画)には、
「オレは、勝つために自分から苦しまなくちゃならないと思い込んでいたんだ」「でも、それは苦しんだ代償として勝たせて欲しいという甘えた考えだ」「そんなことをしなくても 柔道を好きになればいいんだ。楽しむ努力をすればいいんだ」
という名言がある。

苦労至上主義、はもう限界に来ている。そう、時代が示唆しているようにも感じる。であれば、次の時代にチャレンジする。その姿勢が、肝要だ。

自戒の念を込めて。

【プレ社会人から、何を感じるのか。】

先日、プレ社会人(=大学4年生)と話をする機会があった。向こうは緊張しているし、ほぼほぼ手続き的な話しかしなかったのだが、むしろ、プレ社会人を見た現役社会人の感想のほうに、思うところあり。
 
《ポイント》
●プレ社会人に、どのような「キラキラ」を見るのか。
プレ社会人と話をした現役社会人から「いやー、キラキラして眩しいねー」という言葉を聞いた。正直、その言葉の言わんとすることはわかるが、体感にまったくフィットしない。不景気な日本に育ち、やれやっと就職活動を終え、つかの間のモラトリアム。ただ緊張しているだけじゃん、と思った俺がひねくれている側面は否定しない(苦笑)。無限の可能性という言葉をよく聞くが、何歳になってもチャレンジできるし、それを放棄している言い訳を相手に仮託する故なのだろうか。
 
●コミュニケーションギャップが、プラス評価に働く?
正直、何の話をしたって、こちらのほうが圧倒的に情報・経験を持っている(社会人を20年ばかりやっていて、この格差がないほうがまずい)。故に、「いかに相手にわかるように噛み砕いて伝えるか」のほうに腐心するばかりだった。共感できるネタを振ろうとも思うが、情報・経験の格差が「何が共感できるのか?」という自己の選択にバイアスをかける。普通、コミュニケーションギャップは人に苛立ちを生むが「初々しい」となると、なぜかプラス評価に働く。それは、染まらないものへの憧憬なのかもしれない。

 
《問題の所在》
●現在に注力せず「昔の自分の可能性」に浸る思考。
昔、自分が持っていた様々な未来への希望と可能性。社会人経験を積む(≒大人になる)と、だんだんそれが狭まってくる。結局、プレ社会人を見ると「昔の自分の可能性は広がっていたなぁ…」と、現在の自分から逃げるために相手に投影して「キラキラ感」を覚えているのではなかろうか。
 
人間、成長・成熟することは望ましいことでありこそすれ、何ら恥ずかしいことではない。圧倒的な経験と情報をもってすれば、今の自分のほうが、就職時点での自分より、はるかに広く深い見地から様々なことができるはず。そこに注力することの大事さこそ、「今の自分にとっての何よりの可能性」のように感じる。であれば、プレ社会人をどうこう評価している場合ではない(=今に注力すべき)ではなかろうか。
 
自戒の念を込めて。

【読了】大久保幸夫、皆月みゆき「働き方改革 個を活かすマネジメント」

今年58冊目読了。リクルートワークス研究所所長と、産業ソーシャルワーカー協会代表理事の筆者が、働き方改革の真意と今後の展開を書き記した一冊。
 
〈お薦め対象〉
働き方改革に興味のある人
〈お薦め度(5段階評価)〉
★★★☆☆
〈実用度(5段階評価)〉
★★★☆☆
 
自分の問いは3つ。
『現状の職場の問題点と昨今の流れは?』には「賃上げの必要性・長時間労働の是正・AI、IoT・人手不足・高齢化社会。」。
『マネージャーはどう行動すべきか?』には「部下の強みを言語化する。手待ち時間に注目し、習慣化した業務フローを見直す。過剰サービスを減らす」。
『マネージャーが心掛けるべきことは?』には「過剰サービスは、管理者がやめさせない限りなくならない。生産性の向上のボトルネックは、現場のマネージャーが全体を理解、納得しないこと。相手の気持ちを理解するため、一歩踏み込む事が必要で①真摯な思いで向き合う②個別化③意図的な感情表出④統制された情緒関与⑤受容⑥非審判的態度⑦自己決定⑧秘密保持、に心掛けるべき」。
 
書いてあることはもっともなのだが、やや理論武装に走りすぎた感があり、読んでいても肌感覚での納得感がやや弱いのが残念。ただ、昨今の政府の取り組みと、それを実装する際の課題をアウトラインとしてわかりやすくまとめられているのはありがたい。
基本的な姿勢「どのような部下にも能力があり、誰も見切らず、能力を発揮させていく」「部下との関係が永遠に続くわけではないからこそ、目の前の部下に対してかけがえのない存在として向き合う」などは非常に共感できるだけに、もう少し「実践的」な内容での続巻を期待したくなる。

【読了】リチャード・サスカインド、ダニエル・サスカインド「プロフェッショナルの未来」

今年57冊目読了。エジンバラ王立協会フェローで英国主席判事ITアドバイザーと、オックスフォード大学ベリオールカレッジ講師の筆者が、AI、IoT時代に専門家が生き残る方法を書き記した一冊。

〈お薦め対象〉
プロフェッショナルである人、その未来に不安や恐怖を感じる人。未来の社会を考えてみたい人
〈お薦め度(5段階評価)〉
★★★★☆
〈実用度(5段階評価)〉
★★★★☆

自分の問いは3つ。
『プロフェッショナルの特性は?』には「専門知識を有している。何らかの資格に基づいている。活動に関する規制がある。共通の価値観に縛られている」。
『人はどのように行動を変化させていくか?』には「テクノロジーによる変化を受け入れ、自動化・イノベーションに動いていく。専門職が手作業からプロセスへとなり、専門家の時代が終わる。オンラインにより選択肢が増える」。
『プロフェッショナルの未来は将来どうなるか?』には「素早く学び、発展し、対応する柔軟性が必要になる。専門家育成は、徒弟制度の復活・アウトソースされた仕事のサンプル体験・e-ラーニングとなる。思考力はないがハイパフォーマンスの機械の能力に対応するために、認知能力、情緒的能力、身体能力、倫理的能力に意識を向ける必要がある」。

情報技術と、ネットへの接続により、専門家が庇護されている時代は終焉に向かいつつあるのは間違いないと感じる。ただ、いきなりバッサリと仕事がなくなるのではなく、徐々に機械に置き換わっていく、という主張はまったく至当。その中で、人間はどうやって「機械と差別化できる」ように生きていくのか。そこのところに生煮え感があって、どうもモヤモヤした読了感は否めない。とはいえ、問題提起と現状把握においてはかなり整理されているので、興味があれば、一読をお薦めしたい。

【防災には、訓練と準備と、それから。】

先日、防火防災管理者の資格を取り、かつ防災訓練も行い、さらには「災害は 忘れた頃に やってくる(伝・寺田寅彦談)」どころか「災害は 忘れる間もなく やってくる」という昨今の状況。そこから、考えてみた。

《ポイント》
●防災訓練は、受け身になりがち。
防災訓練の時に、気を付けねばならないのは「訓練が目的になる」に陥らないこと。ともすれば「招集がかかって、仕方ないから参加」という心持ちにもなりかねないが、どうせ同じ時間を使うなら、意識を前向きにしたほうがいい。

●漠然とした不安より、具体的準備。
これだけ様々な形で、災害の様子を視覚として捉えることが出来てしまうと、否応なく不安が高まる。もともと、人間の脳は、猿の頃から「生存のために、不安を強く感じる」癖がある。
しかし、そこからが大事。膨れ上がった不安の原因を切り分け、個別ケースで具体的準備に繋げる事が重要。ただ「怖いね」だけでは、何にもならない。

《問題の所在》
●「災害時は、冷静でいられない」という事実を忘れている。

防火防災管理者講習で「人間は、普段はこうあるべき、で行動できるが、災害時にはパニックになってしまい、全く思いもよらない行動にでる」と教わった。それは、真理だろう、と思う。

なんなら、日常生活においても、感情的に余計なことを言ったりやったりして、後悔する…なんて事は、いくらでもある。まして、災害時において、いかに訓練や準備があったとしても、感情の揺らぎは半端ではないはず。その状況で、訓練や準備を生かせるか?となると、非常に疑問だ。

勿論、訓練も大事、準備も大事。しかし、一番大事なのは、日頃から「平常心を保ち、感情に振り回されない」という鍛練。災害時のパニックを防ぎ、持てる知識技量を最大限に発揮するには、意外に、日常の感情コントロールの積み上げが効果的なのかもしれない。

自戒の念を込めて。

【違和感を「成長」に繋げ。】

仕事をしていると、誰でも(特に初心者は)感じる「違和感」。あれ、これ、おかしくない??と思うことって、数々ある。そこを、掘り下げてみた。

《ポイント》
●人間は、変化を嫌う。
生物には、須く、自己を維持しようとする「ホメオスタシス」がプログラムされている。違和感とマトモに向き合うと、変化が見込まれる。となると、その違和感は既存のパターンへの攻撃となってしまうため、極力それを排除しようとする。

● 前例踏襲という、脳みそのサボタージュ
問うこと、調べることは労力がかかる。かつ、「何でそうなっているんだろう?」にパワーを掛け過ぎると、本来回すべき仕事量に到達できず、周囲から「いいから、やれ!」と言われてしまう。
そうなると、自己嫌悪、社会的排除への恐怖、疲弊、と碌な事のない違和感は、「前例踏襲」という脳みそのサボタージュにより葬り去られる。

《問題の所在》
●違和感の芽を、育てず潰す「取り敢えずの習熟」の横行。
上記状況においては、詳しく理由を知るより、「取り敢えずの技能習熟」という「手順を追う」ことになる。誰でも、初心者はそう。
しかし、そこからが大事。ある程度技能習熟してきたときに「あの時の違和感」を思い出せるか。「いいから、やれ!」という言葉に、「考えても仕方ない」と諦めてしまうと、違和感の芽はあっさり潰れる。
「いいから、やれ!」に対しては「まずは、手順を覚える。そこで、今一度考えてみよう」と『一時預かり』にする。その上で、技能習熟してから、改めて根拠や理由を調べたり考えたりする。

これが、自身の成長、ひいては疑義を改善提案に繋げ、職場改善にも昇華させる事にもなる。違和感の芽を潰していては、いつまでも「そこそこの技能者」であり、「変化を起こす側」になることはない。

自戒の念を込めて。