●人の「行動」の振れ幅を説明しきれていない。
●監督の人間観が浅いと、プレーヤーはそれ以上の成果を出せない。
もう、競技名を列挙するのも疲れるくらいのスポーツ界にはびこるパワハラ問題。
程度の差はあれ、職場でも起こる可能性はある。
《ポイント》
●「自分の努力、ではなく苦労」と成功を結び付ける指導者。
成功者は、すべからく努力している(ただし、努力したから成功が保証されるわけではないが)。その努力は、自発的にやったのかもしれないが、過去の指導者の暴力的手法があまりにも強烈に記憶されているので、その苦労を努力と同一視し、「成功には苦労が必要」というすり替えが発生。自己の暴力的手法の再生産を支えている。
●努力の量と質の取り違え。
自らの体感を「善意として」伝えようとしているのかもしれないが、努力とそれに伴う苦労の「何が」成功を導いたかを抽出せず、ただ手順を追うのみ。
人間の時間が有限であり、かつ心身は疲弊する以上、「努力の質を上げる」のが合理的なのだが、「過去、自分はこれだけ苦労した」にとらわれ、苦労の量を上げる(≒継続的パワハラ)ことに陥る。しかし、本人は「選手のため」と、悪気はまるでない。
《問題の所在》
●自らの経験の「美談化」の罠。
成功者は、自分のような凡人には考えられない努力をしているはず。そこは、否定すべくもない。
しかし、その努力、もっと効率よくできたかもしれない。事実、科学技術の進歩により、一世代前の努力はどうあっても時代後れ。実際、仕事の現場では「カイゼン」として、日々取り組まれている。
では、何故、そこに至れないのか。仕事の場合、「前任者の仕事の仕方の否定」であり、自分のことは否定されない。他方、指導の場合「過去の自分の努力の仕方の否定」なので、自分の過去を傷つけるというリスクを負う。
人間、誰しも自分がかわいい。自分の過去を傷つけるなら、美談化して「あの苦労は間違いない!」と信じる方が楽。それにより、次世代が傷つくなんて、思いも寄らない。
徳川家康は「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。」と述べている。
他方、河合克敏「帯をギュッとね!」(スポ根でない柔道漫画)には、
「オレは、勝つために自分から苦しまなくちゃならないと思い込んでいたんだ」「でも、それは苦しんだ代償として勝たせて欲しいという甘えた考えだ」「そんなことをしなくても 柔道を好きになればいいんだ。楽しむ努力をすればいいんだ」
という名言がある。
苦労至上主義、はもう限界に来ている。そう、時代が示唆しているようにも感じる。であれば、次の時代にチャレンジする。その姿勢が、肝要だ。
自戒の念を込めて。
今年57冊目読了。エジンバラ王立協会フェローで英国主席判事ITアドバイザーと、オックスフォード大学ベリオールカレッジ講師の筆者が、AI、IoT時代に専門家が生き残る方法を書き記した一冊。
〈お薦め対象〉
プロフェッショナルである人、その未来に不安や恐怖を感じる人。未来の社会を考えてみたい人
〈お薦め度(5段階評価)〉
★★★★☆
〈実用度(5段階評価)〉
★★★★☆
自分の問いは3つ。
『プロフェッショナルの特性は?』には「専門知識を有している。何らかの資格に基づいている。活動に関する規制がある。共通の価値観に縛られている」。
『人はどのように行動を変化させていくか?』には「テクノロジーによる変化を受け入れ、自動化・イノベーションに動いていく。専門職が手作業からプロセスへとなり、専門家の時代が終わる。オンラインにより選択肢が増える」。
『プロフェッショナルの未来は将来どうなるか?』には「素早く学び、発展し、対応する柔軟性が必要になる。専門家育成は、徒弟制度の復活・アウトソースされた仕事のサンプル体験・e-ラーニングとなる。思考力はないがハイパフォーマンスの機械の能力に対応するために、認知能力、情緒的能力、身体能力、倫理的能力に意識を向ける必要がある」。
情報技術と、ネットへの接続により、専門家が庇護されている時代は終焉に向かいつつあるのは間違いないと感じる。ただ、いきなりバッサリと仕事がなくなるのではなく、徐々に機械に置き換わっていく、という主張はまったく至当。その中で、人間はどうやって「機械と差別化できる」ように生きていくのか。そこのところに生煮え感があって、どうもモヤモヤした読了感は否めない。とはいえ、問題提起と現状把握においてはかなり整理されているので、興味があれば、一読をお薦めしたい。
先日、防火防災管理者の資格を取り、かつ防災訓練も行い、さらには「災害は 忘れた頃に やってくる(伝・寺田寅彦談)」どころか「災害は 忘れる間もなく やってくる」という昨今の状況。そこから、考えてみた。
《ポイント》
●防災訓練は、受け身になりがち。
防災訓練の時に、気を付けねばならないのは「訓練が目的になる」に陥らないこと。ともすれば「招集がかかって、仕方ないから参加」という心持ちにもなりかねないが、どうせ同じ時間を使うなら、意識を前向きにしたほうがいい。
●漠然とした不安より、具体的準備。
これだけ様々な形で、災害の様子を視覚として捉えることが出来てしまうと、否応なく不安が高まる。もともと、人間の脳は、猿の頃から「生存のために、不安を強く感じる」癖がある。
しかし、そこからが大事。膨れ上がった不安の原因を切り分け、個別ケースで具体的準備に繋げる事が重要。ただ「怖いね」だけでは、何にもならない。
《問題の所在》
●「災害時は、冷静でいられない」という事実を忘れている。
防火防災管理者講習で「人間は、普段はこうあるべき、で行動できるが、災害時にはパニックになってしまい、全く思いもよらない行動にでる」と教わった。それは、真理だろう、と思う。
なんなら、日常生活においても、感情的に余計なことを言ったりやったりして、後悔する…なんて事は、いくらでもある。まして、災害時において、いかに訓練や準備があったとしても、感情の揺らぎは半端ではないはず。その状況で、訓練や準備を生かせるか?となると、非常に疑問だ。
勿論、訓練も大事、準備も大事。しかし、一番大事なのは、日頃から「平常心を保ち、感情に振り回されない」という鍛練。災害時のパニックを防ぎ、持てる知識技量を最大限に発揮するには、意外に、日常の感情コントロールの積み上げが効果的なのかもしれない。
自戒の念を込めて。
仕事をしていると、誰でも(特に初心者は)感じる「違和感」。あれ、これ、おかしくない??と思うことって、数々ある。そこを、掘り下げてみた。
《ポイント》
●人間は、変化を嫌う。
生物には、須く、自己を維持しようとする「ホメオスタシス」がプログラムされている。違和感とマトモに向き合うと、変化が見込まれる。となると、その違和感は既存のパターンへの攻撃となってしまうため、極力それを排除しようとする。
● 前例踏襲という、脳みそのサボタージュ。
問うこと、調べることは労力がかかる。かつ、「何でそうなっているんだろう?」にパワーを掛け過ぎると、本来回すべき仕事量に到達できず、周囲から「いいから、やれ!」と言われてしまう。
そうなると、自己嫌悪、社会的排除への恐怖、疲弊、と碌な事のない違和感は、「前例踏襲」という脳みそのサボタージュにより葬り去られる。
《問題の所在》
●違和感の芽を、育てず潰す「取り敢えずの習熟」の横行。
上記状況においては、詳しく理由を知るより、「取り敢えずの技能習熟」という「手順を追う」ことになる。誰でも、初心者はそう。
しかし、そこからが大事。ある程度技能習熟してきたときに「あの時の違和感」を思い出せるか。「いいから、やれ!」という言葉に、「考えても仕方ない」と諦めてしまうと、違和感の芽はあっさり潰れる。
「いいから、やれ!」に対しては「まずは、手順を覚える。そこで、今一度考えてみよう」と『一時預かり』にする。その上で、技能習熟してから、改めて根拠や理由を調べたり考えたりする。
これが、自身の成長、ひいては疑義を改善提案に繋げ、職場改善にも昇華させる事にもなる。違和感の芽を潰していては、いつまでも「そこそこの技能者」であり、「変化を起こす側」になることはない。
自戒の念を込めて。