世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】岡本亮輔「聖地巡礼」

今年110冊目読了。北海道大学大学院国際広報メディア・観光学院准教授の筆者が、世界遺産からアニメの舞台まで、聖地巡礼について考察する一冊。


観光に携わる者としては、聖地巡礼というのも一つの切り口(歴史的なものか、アニメかによらず)。なので、タイトルで気になった。


もともとの聖地巡礼について「伝統的な聖地巡礼研究では観光は無視されてきた。趣味や好奇心から聖地を訪れる観光客は、神聖な空間を乱す乱入者くらいにしか見なされてこなかった」。しかし「現代では、『祈る観光客』や『遊びに来た巡礼者』とでも言うべき人々が増えている。光をあてるべきなのは、温泉旅行の一環でパワースポットとして神社を訪れるという世俗的かつ宗教的な行動の広がり」と指摘する。


それも、宗教観の変化がある、と筆者は指摘する。「私たちが生きる現代社会は近代化を経て成立した。この近代化の歩みは、社会が宗教から解放される過程でもあった。簡単に言えば、このプロセスこそが世俗化」「世俗化社会では、他者が自分と同じような世界観を共有していることを確信できなくなり、共同体意識や仲間意識といった共同性が掘り崩される」のあたりは納得。


では、聖地というのはどう変化したのか。そもそもは「聖地には、そこがなぜ特別なのかを語る物語が付随している。宗教制度や教団は、どのような物語を付随させるのかを決めることで、聖地のあり方をコントロールしてきた」であったものが「聖遺物を目指す巡礼において重要なのは、聖なる物を前にして祈ることである。しかし、信仰のない現在の巡礼者にとって、聖遺物は旅の絶対的な目標にはならない。そこで、彼らは徒歩巡礼という不便な方法をあえて選ぶ。聖遺物のあるゴールの価値が失われてしまった代わりに、そこまでのプロセスに意味を与えるのである」と変容する、という主張は興味深い。ただ、「伝統的な信徒が聖遺物の前での濃密な祈りを求めて巡礼をするのに対して、信仰なき巡礼者たちは、他者とのつながりや交流といった体験を求めて巡礼を行う。神や聖人との交流が超越性をともなう垂直的な体験だとすれば、現代の巡礼者は、人間同士での水平的な体験を求めている」というのはちょっとやりすぎな感が否めない。聖遺物を信じていなくても、そこに『人が信じ続けた』オーラを感じる部分もあるからなぁ。


筆者は、観光について「観光の空間は、疑似理想的・人工的に創られたイメージや、もっともらしく見える単純化されたイメージで満たされている。観光地にある物は、自然に発生したものではない。誰かが明確な意図を持って作為的に生み出した物に過ぎない。そして、観光客は、そうした創り出された疑似イベントの偽物性を見抜くことができず、むしろ、それらを消費することに快楽を見出している」と、かなり強引に述べるが、ちょっと『聖地』に限定しすぎなのではないだろうか。


とはいえ「日本では、あらゆる対象に聖性が見出されるアニミズム的宗教観が残存するとともに、聖なる物を一元的に管理する宗教制度が存在しないため、新たに聖地が成立しやすい環境がある」「パワースポット・ブームは、聖地についての大量の情報が広範囲に拡散されることで生じている。情報レベルでの出来事としての性格が強い」「既成の信仰体系とは異なるやり方で、さまざまな体験や交流が模索され、時として、宗教を巡る新しい共同体が生み出されている」のあたりの指摘は至当だなぁと感じる。


賛同できる部分もそうでない部分もあるが、聖地についての定義付け「その場所にまつわる物語が共有されることで聖地は出現する。逆に言えば、記憶を場所と結びつけ、聖地として共有することで長期にわたる伝達が可能になる」は納得。微妙な部分もあるが、考察を深めるには逆にいい機会となる本かもしれない。


余談ながら、世界遺産マニアとしては「世界文化遺産を理解するのに必要なのは無数の構成資産についての膨大な知識であり、それに裏付けられた『頭脳の目』である」「世界文化遺産というラベルを貼られることで、地域外から多くの人々が足を運ぶ。しかし、それは世界遺産と制度的に関わった人たちからみれば、物についての知識不足がもたらす見当違いの感動や感興」のあたりは非常に共感できる。そう、そうなんだよね。『まっさらな感覚で楽しみたい』とか、それじゃ理解できないっての。