世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】坂井孝一「鎌倉殿と執権北条氏」

今年48冊目読了。創価大学文学部教授の筆者が、義時はいかに朝廷を乗り越えたか、という疑問を解き明かしていく一冊。


大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にハマっており、筆者の作は「承久の乱」「源氏将軍断絶」に続き、三部作的に読んだ。


北条氏が力を握ったのは「武勇の士というよりは指揮官、軍事より文事に優れた政治家・官僚であり、それが時政や義時を執権という、将軍を支える御家人筆頭の地位、幕府首脳部の中心に押し上げた要因の一つ」と分析。


そのうえで、時政については「伊豆では中程度の規模の武士だったが、京都志向・上昇志向の強い、いささか山っ気のある人物だったと思われる」「優れた交渉能力を持ち、人的ネットワークの形成に長けていた」「チャンスを活かして頼朝の期待に応えたものの、独断で走り過ぎて最終的には大きな成功を逃してしまう」「頼朝からは幕府の役職に任じられることのなかった時政だが、頼朝が死去して重しが取れ、ライバル比企氏を武力で滅ぼしたことにより、タガが外れたように権力集中に走った」と、その人物像を解き明かしていく。


源氏将軍たちについて、頼朝は「次々と結婚の仲介に乗り出し、自分を結節点とした御家人の姻戚ネットワークを作り、そこに身内を絡ませていった。有力御家人の掌握にとどまらず、身内による派閥の形成を意図していた」。頼家についても「蹴鞠にうつつを抜かす暗君ではなく、積極的に幕政に関与し、将軍親裁を執行していた。若いが故の経験不足や、武断的な性格による失敗もあったが、基本的には頼朝晩年の政治方針を忠実に継承しようと努力していた」「『十三人の合議制』という確固とした制度が築かれたわけではなかった。むしろ若く未熟な鎌倉殿を支えるため、『宿老十三人』がそれぞれの経験に基づいて幕政に関与した」。
実朝と絡めても「流人から挙兵して戦いの中から幕府を立ち上げた頼朝には『戦時のカリスマ性』があった。その頼朝を継いだ実朝には『平時のカリスマ性』があった」というのは、だいぶ既成概念とは異なるし、いかに歴史が作られてきたか、ということでもあろう。


義時については「不満があっても、それを表に出さず、また事を荒立てず、黙々と自分がなすべきことをしていくのが義時」「表向きの『名』ではなく裏方に徹して『実』を取り、一時の感情に流されず情勢を正確に分析する、沈着冷静で頭脳明晰な男」「適切な機会が訪れるまではじっと待機するが、チャンスの到来と判断すれば果断・迅速に行動する」そんな人間だった。
しかし、実朝の死により「頼朝が急死しても頼家がいた。頼家が追放・殺害されても実朝がいた。しかし、今度ばかりは実朝に代わる主君はいない。初めての経験である。この難局をいかにして乗り切るか。政子を表に立てつつ、自分はなりふり構わず全力で幕政を取り仕切る。その覚悟が必要であった。『何をしているのか見せない男』だった義時は、運命の巡り合わせによって『何をしているのか見せなくてはならない男』へと変貌せざるを得なかったのである」と成長していく。ある意味『闇落ち』でもあるわけで、このへんを大河ドラマがどう描くかへの期待感も抱かせる。


歴史的事件についても、時系列に「頼朝は伊東で祐親の怒りを買うトラブルを起こしたが、祐清の提案により、頼朝の身柄を北条に移すという形で事態の収拾が図られた、というのが実態に近いといえるのではないだろうか」「富士川合戦の勝利は甲斐源氏の単独軍事行動によるものだった」「比企の乱は、追い詰められた時政ら北条氏がしかけたクーデターであり、実態は『北条の乱』とでも呼ぶべき事件」「実朝は摂関家とほぼ同格の身分で、しかも後鳥羽から実名と御台所を賜り、和歌や蹴鞠を通じて個人的にも友好・信頼関係を築いてきた。後鳥羽の親王を将軍に推戴するなどという大それた構想を思いつけるのは、実朝以外にあり得ない」と解説してくれるのは、なるほど面白いし、この流れが大河ドラマにも織り込まれそうだ。


後鳥羽については「幕府を否定するつもりなどさらさらない。逆に、幕府そのものをむやみに攻撃して解体させれば、武力を持った多数の東国御家人が無秩序に野に放たれ、治安が乱れるだけである。それよりも尼将軍政子と将軍予定者三寅のもとで「奉行」を務めている義時の首を、自分の命令に従う御家人をすげ替え、幕府本体の軍事力を組織ごと直接の支配下に入れて活用した方が、はるかにメリットがあってデメリットが少ない」と考え、義時追討の院宣を出した、とする。
しかし、実際には「後鳥羽や京方諸将が鎌倉方に対し、『賊軍』のままでは負ける、『官軍』になれば恩賞が手に入るという情報を流せば、個々の戦闘の勝敗もどちらに転んでいたかはわからない。しかし、まさかの反撃にあって余裕を失っていた後鳥羽や京方諸将にそんな真似はできなかった」。その遠因は「心のどこかで、自分が過ちを犯すはずはない、自分の出した命令に従わない者がいるはずがない、という過信」というのも納得。


当時の流れを押さえるうえで「恩を施してくれる者こそ主君なのだというのは、当時の武士たちの一般的な考え方」という観点は非常に大事。ルールよりも恩が優先されたわけで、その時代から「御成敗式目」を定める名君・北条泰時(奇しくも義時の息子)によってようやくそれが転換する、というのも興味深い。


新書でさらりと読めるし、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」をより楽しむためには一読をお薦めしたい。