世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】伊藤潤「巨鯨の海」

今年18冊目読了。歴史小説を得意とする筆者が、捕鯨で栄える太地町を舞台に、6篇の短編小説から人の生きざまと自然(鯨)との関わりを掘り下げる一冊。


6篇とも、巧みな伏線を張って回収していく、という筆者の手腕の冴えもさることながら、鯨を尊重しながらもそれを収穫するために全力を尽くす人々の姿に心を打たれる。シーシェパードの「テロ活動のための抗議」は非常に一面的であり、この小説を読むだけで「捕鯨は文化」ということがしみじみ理解できる。


鯨と捕鯨についての「下り鯨は黒潮に乗っているので瞬く間に通り過ぎてしまうが、上り鯨は逆潮を嫌い、黒潮の強い部分を避けながら泳ぐため、陸岸に近寄ることが多い。紀伊半島の鯨取りは、そうした寄り鯨を狙うだけで十分に食べていける」「網取り漁法と持双船による挟み込み曳航法の技術革新により、鯨漁の世界は一変した。貧しい寒村が一転して長者村となったのである」ということは知らなかった。そして「鯨取りにとって、鯨に対する恐怖心こそ最も忌むべきものだが、その反面、用心深さもまた大切である」というのも非常に納得。


太地というところがとても特殊だったのは「太地は新宮藩の領内だが、独自の掟に支配されており、治外法権も同様である。また海で起こったことは本方も介入できず、沖合と親父たちに任されるのが暗黙の了解」「生活を保障してくれる見返りは服従であり、それに反すれば誰も守ってくれない。それが太地の暗黙の掟だった」という治外法権ぶり。
そして、「沖合衆は、鯨を獲って陸岸まで引いてくるだけで体力を使い果たしており、解体作業は浜で待つ人々に託される。これは一種の儀式でもあり、沖合衆とそれを待つ人々との間に一体感が生まれ、太地が一つになる」というのも、また街を維持するための工夫だったんだなぁと驚かされる。


鯨の尊重ぶりは「夷様とは鯨の尊称である。太地では、自分たちのために命を捧げてくれた鯨を崇めること一方でなく、寄子路にある順心寺には、鯨たちの霊を慰める祭壇があり、年に一度は慰霊祭まで行われていた」「正装で解体作業するのも、一つの巨大な命を奪うことで、人が生きる糧を得ていることを真摯に受け止め、儀式を遂行しているという意識があるからである」というところに表れている。人と自然がいい関係を築いていたことがうかがえる。


そんな捕鯨がなぜ衰えたか。「嘉永七年(1854)、アメリカ合衆国との間で日米和親条約が締結されてあらかじめ、米国の捕鯨船が近海に出没するようになり、太地では、坊主と呼ばれる不漁が続いていた」「太地沿岸に鯨が多くて来ていた江戸初期からちゅうきまではあ、沖待ちなどせずとも、ゆっくりしていく獲物を捕らえるだけで十分に食べていけた。しかし米国の捕鯨船のおかげで、捕獲量が激減した江戸末期から明治にかけては、そうも言っていられなくなり、近海を通る鯨をすべて捕らえることになった。そこで沖待ちという方法が考案された」などを読むと「アメリカだって捕鯨してたじゃないか!」と憤りを覚える。


個別の人の心の動きも非常に面白いが、「一つことに命を懸けるとな、何でも見えてくるんよ」というくらい、人生を何かに捧げることの尊さと、それに対する羨ましさを禁じ得ない…自分も、至らずとも何かに打ち込みたいところだ。