世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】ジャン・ハッツフェルド「隣人が殺人者に変わる時 加害者編」

今年138冊目読了。こちらはルワンダ内紛で加害者となった10人にインタビューをした衝撃の内容。


生存者編では恐怖を覚えたが、こちらには半端ない憤りを感じる。そして、人はそんなに身勝手になれるのか、という戦慄も覚える。


最初の頃の殺人について「殺される人の目というものは、じっと見つめられていたら、殺す側にとっちゃ不幸そのものだ。その目は自分を殺す人を責めているんだ」「苦しむこともなく、すべてが順調に進んだ。ただ、初めての時、死というものは何と速く、殴るということはなんと穏やかなのだと驚いた」「音もなく子どもたちが倒れるのを見るのは、不思議な感じがした。それは愉快なほど簡単だった」「最初の殺人は、正確に覚えている。他の人に関しては曖昧だ。記憶にない。殺した時には、重大なことだなんて思ってもいなかった」と振り返るのには憤りを感じるが、それが麻痺していくのは更に恐ろしい。
だんだんと「殺しをやりやすかった意外な理由がある。攻撃する前から、多くのツチは殺されることにひどくびびっていた。おかげで、攻撃するのは簡単だった。威勢が良く活発なヤギより、震えて鳴くヤギを殺すほうがそそられる。そういうものだよ」「抗えない状況に流されているんだと感じたり、殺人が完全に遂行され、何も自分に困った結果は起こらないと思えば、落ち着き、安心し、それ以上心配せずに殺人に手を染める」「殺しを重ねるうちに、卑しい会話が多くなり、また心も欲深くなっていった。ついには話題にのぼるのは略奪物の分配のことだけになった」「服従することを止め、貧困からも解放されたわがままを存分に堪能し、新たな力と横暴さで強くなったような気になっていた。しかしその欲望こそが、私たちを堕落させたんだ」と、人間性を失っていく様は、本当に狂気の沙汰としか言いようがないが、これもまた人間の一面と思うと、暗澹たる気持ちだ。


「殺人者はひたすら自分を守る。彼は自分にのしかかる罰に恐れを感じているからである」という筆者の弁をまつまでもなく、彼らの自己弁護は酷い。「その殺人者は確かに僕だったし、犯した罪や流した血も僕によるものだった。でもそこでみせた残忍さは、僕の知らないものだった」「もしツチに親切心を見せてしまえば、いくら地位が高かったり、運が良くても、死を逃れることはできなかったと思う。僕にとって、ツチに対する親切な言葉は、当局に対する不正な行動よりも致命的だった」「仲の良い奴を見逃したとしても、後からやってきた他の奴が殺しただろう。何があろうと、救うことなんて決して出来なかったんだ」などは、身勝手な後付け理論にしか聞こえない。


そして、麻痺は加速していく。「虐殺の間、男女の関係が崩れることはなかった。男たちは殺しに出かけ、女たちは盗みに出かけた。女たちは略奪品を売り、男たちは酒を飲んだ。ちょうど農業をするのと同じようなもの」「人を殺しすぎたばっかりに、より残酷になっていく奴がいた。奴らにとって人を殺すことは愉快なことになった」など、もはや人間の思考とは思えない。
こんな中、敬虔なキリスト教信者だったことは、殺戮者に何ももたらさない。「殺戮の間、私は神に祈らなかった。御前で祈ることはできなかった。それは自然な気持ちの流れだった。だが、夜突然恐怖が襲ってきた時、もし私がその日あまりに多くの殺戮をしてしまっていたなら、一人の人間として、どうかたとえわずかの間でも私を止めて下さいと、神に願った」「沼地では、敬虔なクリスチャンが獰猛な殺人者に変身した。そしてとても獰猛な殺人者は、刑務所ではとても敬虔なクリスチャンに変わった」「我々はツチを人間として、あるいは神の創造物として見ていなかった。この世界をあるがままに見ることをやめてしまっていた」「暮らしが豊かになったと感じていたので、これ以上沼地で働くことには、もう嫌気がさしていた。不平を言わせていたのは、鍬を持って畑に戻りたいという気持ちではなく、むしろ倦怠感だった」「僕たちはブルーヘルメット(国連平和維持軍)に咎められることなく虐殺を遂行できると確信した」「脅迫者たちの大げさな言葉や仲間の楽しそうな叫び声が飛び交う喧騒の中で過ごしていると、ジェノサイドはごく普通の行動のように思えた」


筆者は、殺戮者たちが向き合わない姿勢を糾弾する。「殺人者たちは自分を語ることで打ちのめされることは決してなかった。彼らの記憶は時と共に、その醜さのゆえに都合よく変わるかもしれない。犠牲者たちが語ったトラウマや心の壁のようなものは何もなかった」


彼らの自己中な主張も酷い。「とにかく、怒りの眼から隠れるのはもういやだ。汚れていても自分自身の生活がしたい」「あんな殺人を犯し、そして見た悪夢を、もうくりかえしたくない。私はもっと普通の人間になりたい」など、どの口が言うんだ!?と思ってしまう。
…しかし。そう断じては、何も変わらない。「生存者と殺人者は赦しや容赦について同じ理解を示さず、そのことが赦しを不可能にさせている」「殺人者たちは、まるでそれが簡単な手続きでらうかのように赦しを求めている。そして相手の苦痛を無視する態度が犠牲者たちの痛みを増幅していることがわかっていない」。その究極のポイントとして「殺人者たちは、真実と誠意と赦しが一体となっていることがわかっていない。彼らにとって、多かれ少なかれ真実を述べることは自分の不法行為や刑罰や罪を多少なりとも小さくさせる楽な策略である。赦しを求めることは彼ら自身の将来に投資する利己的な行動にすぎない」という過酷な事実が横たわっている。


でも、「今も垣間見えている男たちの個性の中で最も印象的なところ、それは物静かな孤立といった自己中心主義以外に何ものでもない」「殺人者たちは自らの運命だけに悩み、自分以外の誰にも同情することがない。彼らは犠牲者のことを思いはするが、それは後々のことである。彼らは本能的に自分たち自身が個人として失ったものや苦労の数々を長々と話す」という状況の中で、どう未来に向き合えばよいのか。筆者の「ジェノサイドは戦争よりも悲惨。なぜなら、たとえその試みが成功しなかったとしても、その意思は消えることなく永遠に存続するから」という指摘が重くのしかかる。


そして、この本でメインには述べられていないが「外国人は、自分が信じることができないものを見ようとはしません。そして彼らはジェノサイドが信じられなかった。それがあらゆる人々を圧倒する殺戮だったからです」という点も重い。国連、そして世界って何だ?という疑念を覚えずにはいられない。