世界遺産マイスター/国宝の伝道師Kの「地球に感謝!」

世界遺産検定マイスター、国宝の伝道師保有の読書好き。書籍、世界遺産、国宝という切り口でご案内します。最近は「仕事の心理学」として、様々な事象を心理学的見地から考察しています。

【読了】東郷和彦「北方領土交渉秘録」

今年113冊目読了。外務省官僚として、合計17年間ロシア関係で勤務し、オランダ大使を最後に外務省を退官。その後、ライデン大学プリンストン大学、淡江大学で教鞭を取っている筆者が、日ソ・日露交渉での北方領土をめぐる駆け引きと、失われた五度の機会について詳細に書き起こした一冊。


400ページ超えのハードカバーらしく、重厚で非常に読み応えのある本だ。そして、日米終戦にこぎつけた東郷文徳外務大臣の孫にして、これだけ真剣に、真摯に国のことを考えて行動した人物に対して「免官」という非情極まりない対応をした外務省と国に対して大いなる憤りを覚えずにはいられない。


北方領土について、「四島返還」と「二島先行」の対立はよく言われるが、筆者は「私たちの主張はあくまで四島返還が最終的な目標であり、二島返還でいいという考えはどこにもなかった」「にもかかわらず、『鈴木一派は二島返還論を掲げているが、それでは残りの二島を放棄したも同然だ』などとして、多くのマスコミと有識者から批判されr他。私からすれば、こうした批判で交渉のプロセスを止めようとしたのは、誤解の上に組み立てられた議論だったと言わざるを得ない。また、その根柢には、『四島一括返還』という錦の御旗の下で断固たる主張を続けてさえいれば、国内的に批判されずに済むという、一部外務官僚の事なかれ主義も感ぜられた」と断じる。


そして、北方領土問題については「北方領土問題は、日本が太平洋戦争をいかにして戦い、いかにして敗戦をむかえたかという歴史に直結する、民族の心の痛みの問題である。具体的には、1945年の春から秋にかけて日本とソ連の間で起きた様々な不幸な出来事に、そのすべての根源を有する」「過去の世代、少なくとも私たちの祖父や父の世代が何をなそうとし、何に失敗し、何を悔い、何に苦しんできたかということを正確に把握し、その経験を現在の外交に生かす。そういう政策が実施できてこそ、ほんとうに深みのある外交が実現できるのではないだろうか」「自分の信ずる意見の正しさに自爆され、相手の出方を見誤ることにより、最終的な北方領土問題の解決を見失ったら、誰に対して責任を取るのか」と、活字から筆者の無念の血が滲み出るような言葉を紡ぐ。


ソ連・ロシアについては「日露関係の全体像において最も欠けていたのは、率直な人間同士のぶつかり合いから生ずる信頼関係」「最初の会合で無理なく合意できることはすべて合意し、次の会合でぎりぎりまでの決断を求める。ソ連式交渉術のイロハであった」「国家が異常に肥大し、官僚によって支配された、息苦しい帝国がソ連だった。ソ連は、ロシア型共産主義というイデオロギーによってつくられた一種の宗教原理主義帝国としてとらえた方がいい」と言及する。


外交の特性としては「成功した交渉には確かに交渉のどちらかの当事者に、または両方の当事者に、相手のことを考えるという気配が色濃く存在していた」「一つの出来事に起因する交渉の遅れが、交渉の周辺を取り巻く大きな流れからその交渉をはじき出し、有り得べき成果を奪う決定的な要因となってしまうことがある」「交渉では、自分の国の、眼の前の利益を唱える人はいっぱいいる。でも、誰かが相手のことを考えて、長い目で自分の国にとって何が一番よいかを考えなくてはいけない。最後のぎりぎりの時にそれができるのは、相手と直接交渉してきた人だ」と指摘する。


交渉のときに留意すべきこととしては「基本目標を明確にし、それをはっきりと示す」「『こんちくしょう』という思いだけでは交渉が進捗しない。思いは深く胸に納めたままで、交渉相手との間にどのような人間的な信頼関係を作り上げるか、それが、決定的な意味を持つ」「取りすぎの誘惑は、交渉上、最も陥りやすい誘惑である。相手が究極の譲歩をしてきたときに、それが相手の限界であることを認識できず、『もう一押しする』という誘惑から抜け出せないことがある。結果として相手は引き下がり、相手の譲歩案は消滅する」「交渉が始まる最初の事典でこちら側の立場に先方が全面的に同意する案についてしか話し合わないというのは、有り得ない態度である。交渉というものは、相手の案を聞くところから始まるものだ」と体験をにじませる。


歴史ものとしての面白さ、今の日本の態度とあり方につながる重い指摘、そして交渉という非常にタフな仕事における基本とその実践を示してくれる。これは必読の良書だ。